喪が明けぬ内から

 冬の気配を伝える鉛色の雲が空一面を覆う中、大喪の礼がしめやかに行われた。


 人々は名君の死を嘆いたが、その涙は必ずしも死者への哀悼にのみ向けられているわけではなかった。


 来たるべき新時代に、頭上に広がる暗雲以上の重い不安があったからだ。


 というのも、皇嗣、つまり皇太子晃仁てるひとがあまり評判がよろしくない人物だったということもある。


 晃仁は元々三人の兄と八国宮やつくにのみやと呼ばれる八つの宮家がいて、皇位継承権は限りなく低かったのだが、競争相手がことごとく若くして亡くなり、彼は労せずして至尊の座に着く権利を与えられたというわけだ。


 それだけなら民は苦い顔はしない。彼が粗暴をもって知られる人物であり、齢四十を超えてなお落ち着きというものが見られなかったからこそ、未来を憂えているのだ。


 人々が前途に漠然とした危惧を覚える一方で、流殞もまた多少困っていた。皇室とのパイプがすべて断ち切れてしまったからである。


 慶化から天祥へと改元した途端、晃仁は後宮に女を連れ込む一方、先帝の遺臣たちにことごとく暇を出し、追いやるという暗君ぶりをすでに遺憾なく発揮していた。


 文殊四郎が泣きついてきて、宮中の現状を知った流殞は彼らの生活を保障するのを確約したのはいいが、宮中の情報、特に新帝晃仁の周囲を探るための人脈を再構築しなければならないということには暗澹とした気持ちを隠せなかった。


 流殞の皇室好きというのは社内に広まっていて、一時宮中で難を逃れていたという事情は取締役たちも知っていることだが、なにも地統皇からお覚えをいただきたいから人脈を欲しているわけではない。


 地統皇は単なる政治的な飾り物ではなく、いくつかの政治的実権があるからこそ、多額の献金をして、政策をこちら向きにさせようとしているのだ。


 普段口うるさく、流殞以上に金に吝い五島ですら、その利用価値を認めているからこそ、なにも口を挟まない。


 珍しく主人が悩んでいるのを見とがめた源吾がある提案をしてきた。


「御殿に猫を入れますか?」


 御殿とは内裏、猫は後宮に送る女の隠語である。専制国家にあって、後宮からの情報は得がたいものがある。


 どんなに口が堅い君主でも、女の園では口を滑らせることもあろう。それを利用すれば、裏から君主を操ることも可能だ。しばしば寵愛を得た女官の外戚が政に介入し、混乱させるのは、歴史を見れば瞭然である。


 しばらく損益に関して、頭を巡らせていた流殞だが、どうにも算盤が合わず、軽く首を横に振った。


「止めておきましょう。あなたもわたしが守銭奴なのは知っているでしょう? そんなつまらないことのために月岡衆を人身御供に出す気はないですよ」


「我らのことを気遣ってのご発言ならば、それはご無用に存じます。我らにそのような価値はございませぬ」


「価値があるかどうかを決めるのは、雇い主のわたしだけですよ。そして、その手の目利きには定評があるのですよ、わたしには」


 五島をはじめとして、有能な取締役を抜擢してきた流殞の言葉には重みがある。その分、月岡衆を信頼しているのだと言外に込め、それは源吾にも伝わった。表情こそ素っ気なかったが、返答まで一瞬の間が、彼の心に生じた波紋の大きさを物語っていた。


「……承知しました。では、なにも手を出さないということでよろしいですか?」


「いや、とりあえず『穴』くらいは開けておいてください。まあ、念のためですが」


「かしこまりました。すぐに手配いたします」


 いつでも宮中に忍び込めるようにしておくという命令を源吾は遺漏なく実行した。


 宮中の内情はこれでわかるとして、問題は晃仁本人の為人だ。愚昧にして、愚鈍というのが世評であり、様々なルートを通じて、流殞の耳にもおよそ人間がつけられる中で最低の評価だけが聞こえてくる。


「本当にそれだけの男なのか?」


 晃仁が世評通りのただの暗君であるのならば、計画を遂行する上では非常に望ましいというべきだろう。世を混乱に陥れてくれるのなら、歓迎である。


 ただ、担ぐ神輿は軽ければいいというが、軽すぎて宙に浮かれても困るのだ。無能も度が過ぎれば、駒として使えない。


 流殞は自身が万能などと思ったことは一度もないから、馬鹿とはさみは使いようなどとは考えない。使えるものは利用するが、そうでなければ無視するか、邪魔になるなら排除するまでである。今までそうしてきたし、その方針が変わることはない。


「一度、会ってみるべきだろうか?」 


 流殞としては、世評が晃仁のすべてではないように思えるのだ。晃仁にはどうにも同種の臭いがするような気がしてならない。


 この世界に倦んでいるか、もしくは憎んでいるか、あるいはその両方の感情を抱いているようにも思える。流殞もそうだからこそ、晃仁が放つ負の異臭に気づいた。


 正直なところ、話を聞く限りでは謁見して、心安らかになる人物とは到底思えず、会いたいとは思わないが、晃仁が抱える闇の度合いを実際見て、確認してみたいとも思うのだ。


 宮中にいた頃は、晃仁はずっと東宮に籠もりきりで、悪い友人を呼び、酒、女、博打とありとあらゆる快楽をむさぼっていたため、会う機会どころか、その姿を見たこともないのだから、世間の噂だけで判断するのは早計だろう。


 幸いなことに晃仁の周りにいるのも度しがたいまでの小悪党らしく、彼らに鼻薬を存分に嗅がせてやれば、謁見の方も問題はないだろう。


 宮中の方はどうにか目処がついた。問題は今後のことだが、軍の方がやにわに騒がしくなってきた。


 高級将校が喪に服し、自発的に逼塞しているのに対し、参謀本部だけは大喪の礼の中でしきりに人が出入りしているという。参謀本部は地統皇直属の機関であり、内情を探れば、新帝の動向もある程度つかめるだろう。


 しかし、探らずとも、流殞には参謀本部が何をしようとしているのか、あらかじめ推測がついていた。いや、そもそも導かれる結論など一つしかない。


 大規模軍事行動。

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