最後の問答
かつて流殞は「
篤実な人物で、ほかに秀でた能力はなかったが、それだけに侍従としては得がたい資質を持っており、地統皇智仁の信頼も厚い。
人の警戒心を解くような、おかめの面にも似た面構えの文殊四郎は青白さを通り越して、病的なまでに白い顔に鬼気を帯びて、流殞に差し寄った。
「肆之原殿、夜分遅くに申し訳ありません。聖上より至急参謁せよとの仰せでございます。どうか、そのままわたくしとともにいらしてください」
「かしこまりました」
何も聞かず、流殞が即答したことで、文殊四郎は救われたような笑顔を浮かべた。そこから察するにもう猶予がないということだ。
流殞は源吾が羽織らせた上着と傘を持ち、文殊四郎の後に続いた。
馬車に入る前に源吾が「結界、張り終わりましてございます」と耳打ちしてきた。結界とは月岡衆が用いる隠語であり、道中の安全を確保したという意味だ。菊花紋が大きく入れられた馬車を襲うものもいないとは思うが、念のためにということだろう。流殞は源吾に感謝を述べて、馬車に入るやいなや、一気に駆け出す。
馬丁も相当焦っているのだろう、狂ったように馬に鞭を入れ、普段、並足程度の速度しか出さない馬車馬も競走馬もかくやという走りをみせる。
馬車は流殞の私邸がある四条烏丸から南に下り、一旦五条通に抜け、右折して西進し、すぐに大宮大路を北上する。深夜、それも豪雨の中だったので、大事には至らないが、日中だったら、人身事故の被害者だけで一個小隊を作れたかもしれないほどの速さで、内裏の築地を舐めるように進み、陽明門の前で急停止した。
大事だったのはむしろ車内だっただろう。局地的な嵐が吹き荒れたかのように車内にいた流殞と文殊四郎を容赦なく揺さぶった。
そのせいで流殞は文殊四郎に智仁の容態を聞くこともできず、ただ口を固く閉じ、舌を噛まないようにしながら、ただひたすらに到着を願っていた。その甲斐あってか、苦痛の時間は程なくして終わったらしい。
流殞はまだ耐えられたが、文殊四郎は体力を使い果たしてしまったのか、差し出された流殞の手を取り、よろめきながら降車した。
あらかじめ連絡していたのか、陽明門は開いており、左近衛たちが流殞たちを内裏へと導いていく。
陽明門から内裏へは目と鼻の先であるが、公式の拝謁ではないので、内裏外郭を四分の一周し、まず修明門をくぐり、さらに北に上がって、遊義門まで案内すると、一礼して去って行く。
ようやく人心地ついたらしい文殊四郎だったが、表情の剣呑さは寄り深みを増し、流殞へと向きを変える。あまりにも似つかわしくないので、流殞はつい失笑しかけたが、どうにか表情筋に笑いの波動が達するのを防ぎ、神妙な面持ちを崩さなかった。
「肆之原殿、聖上のご容態については、ご自身の目で確かめてください。それと今夜のことは何卒ご内密に」
「心得てございます」
元々口外する気など毛頭ない。吹聴したところで意味がないからだ。逆に自らの評判を落とすことにもなりかねない。だとすれば、口を噤んでいたほうがいいに決まっている。
この世界の内裏もまた「上の世界」とほぼ構造は同じだったが、
特に智仁は身の回りの世話をさせる女官以外の女御などは入れず、後宮はほぼ無人であり、智仁は清涼殿と藤壺の間に起居するための寓居を建て、そこを臨終の場と定めていた。彼の諡をとって、後に「慶化殿」と呼ばれるようになる。
その仮寓は質素なもので、智仁の寝室のほかは世話する女官と典医が詰める部屋しかない。十二畳ほどの間の中央やや北寄りに置かれたベッドの上で、半身を起こした智仁がいた。ベッドのそばには典医の
文殊四郎に続いて、流殞が入ってきたのを認めた智仁は久闊を叙するのを待ちかねていたと言いたげに小さく笑ったが、侍従長の古河は眉間にしわを寄せ、渋面を作ることを厭わなかった。
皇祖が齎送者であることを知ってなお、彼は齎送者などという得体の知れないものが宮中に入ることを嫌っていたからだ。
ただ、流殞の目には古河などの小物の姿は映らない。病で痩せ細った智仁の姿が衝撃的で、思わず息をのんでしまった。
それから失礼に気づいたのか、その場に跪き、頭を垂れた。そのままの姿勢で無言を貫くのは、「臣下」が先に話しかけるのは不敬であるからだ。さほど待つことなく、智仁は苦笑の響きを含んだ声を流殞にかけた。
「面を上げよ。其方とは死ぬ前に一度話したいが故に無理を言って呼んだのだ。そうかしこまっていては話もできぬ」
智仁の声は死の淵にあるとは思えぬほど明瞭だったが、昔年の力強さはない。そこに流殞は一抹の心痛を抱えつつ、さらに頭を下げた。
「恐悦至極に存じます」
流殞が答え、顔を上げると、ふと目が合った智仁は軽く頷いた。
さらに人払いをしようとしたが、何かが起こることを案じて、古河が反対する。智仁は苦笑しながら、死にかけの老人に何をするのかと返すと、さすがに古河もこれ以上返す言葉もなく、引き下がった。
文殊四郎、宇多田、古河の順で退室すると、帝は流殞にそばにあった椅子を勧め、話し始めた。
「流殞だったか……其方がここより出てから、そう改名したのだったな? 世情に疎い予の耳にも其方の噂は流れてくる。よいのも、悪いのもな」
「ご宸襟を悩ませ、誠に申し訳ありません」
「いや、其方を責めているわけではない。すべてを失い、世を儚み、絶望していた其方がよくぞここまで立ち直って、いや、ここまで大きくなるとは実に感慨深いと思うてな」
「これもひとえにご聖恩の賜物と存じます」
まるきりの嘘でもないので、流殞の言葉には真実の響きがあった。智仁が今はない「内舎人」という飼い殺しの役職を設けて、金銭を与えてくれなければ、博打や起業の原資にはなり得なかったのだから。
しかし、智仁は流殞の阿諛には乗ってこなかった。流殞を見る目に疑心と嫌忌の薄い膜がかかっている。
「その言葉、本心から出たものか?」
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