第二章 貪狼の爪牙

真夜中の来訪者

 その日、ある一つの改正法案が上下院を通過した。


 その法案とは「証券取引法」であり、十商の連名で議員連盟に陳情した結果、「株券の信用売買」が可能となった。すなわち、肆之原商事が他の十商への全面攻勢を仕掛けられるということでもある。


 肆之原商事にしてみれば、記念すべき一日となったわけだが、流殞は単なる通過点に一喜一憂するようなことはなかった。加登寧が息を切らして法案通過の件を報告してきたときも、流殞は穏やかに受け止めただけにとどめたのである。


 流殞は別の件に意識をとらわれていた。いや、今や街角では誰もが囁き合っている。来たるべき日の先に暗雲が垂れ込めるように、人々の顔はいずれも暗い。


 何か予感があったのだろう、元々眠りの浅い流殞ではあったが、夜半に目を覚ました。昨夜から続いた雨はいまだ降り続け、時折強風が吹いては窓に雨滴をぶつけていく。


 流殞はベッドの上で半身を起こしたとき、ふと手の先に柔らかく、暖かいものが触れた。見れば、横には全裸の黒依が背中を向け、安らかな寝息を立てて、寝ていたが、流殞が目覚めるより前から異変を察知し、覚醒しているはずだ。


 シーツをはねのけ、ベッドに座り直したのを見計らったかのように、寝室の扉の向こう側から小さく、しかし、流殞の耳にも明瞭に聞こえるような声で誰かが語りかけてきた。


「旦那様、馬車がこちらに向かっております」


「紋は?」


「十五菊」


「わかりました。正装の用意をお願いします」


「承知つかまつりました」


 まるで幽鬼のように声が小さく消えていく様子は初めて聞くものを戦かせたかもしれないが、聞き知っている流殞は今更動じることもなかった。


 声の主は逆風さかかぜ源吾げんごといい、流殞の住まう邸宅の家宰にして、月岡衆の時期首領だったからである。


 今や、老齢の現首領に代わり、月岡衆をとりまとめる存在であり、流殞からの指令を迅速に各所に伝えるために雇い主のそばにいられる家宰という身分に甘んじているというわけだ。


 ベッドから立ち上がりかけた流殞の背中に艶然とした声がかけられた。


「無粋ねえ。せっかく二人きりの夜だってのに、邪魔するなんて」


「仕方ねえだろ。菊の御紋をよもや追い払うって訳にもいかんだろう」


 流殞が肩越しに背後を見ると、黒依はベッドの上でうつ伏せになり、なめらかなその背中をあらわにしていた。


 誘っているのは明らかだったが、さすがに乗るわけにはいかない。欲望を断ち切るのにはかなりの精神的苦労を伴うも、これから起こるであろう事態の深刻さに比べれば、自重するほかないというものだ。


 ついにこのときが来た。いや、ずっと以前からそれはわかっていたことだ。なのに、心騒ぐのは、心中の最奥に封印した貪狼の存在が日ごと大きくなっていくことに、御しきれるかとの思いが強くあるからである。


 この豊宇迦国で最も高貴なる星が今まさに落ちようとしていた。第卅六さんじゅうろく地統皇つちのすめらみことこと智仁さとひとの命脈が尽きようとしていたのである。


 人々が暗い顔をつきあわせて噂しているのはまさにこのことだ。高慢な政治家や尊大な軍人とは異なり、少なくとも彼は敬愛されるに足る人徳者であり、君主としては、諮問院の反対を押し切って議会を開設するなど開明的な名君でもあったからこそ、巨星の光が弱まりつつあることを案じているのである。


 そして、現地統皇の智仁は流殞にとって恩人であり、唯一の理解者だった。対晦人との決戦で惨敗を喫した責を負わされ、どん底にいた「優人」に救いの手を差し伸べたのが他ならぬ智仁だったからである。


 ただ、一時は皇宮に置かせるなどして、人々の怨嗟から遠ざけもしたが、公然と彼を助けることだけはなかった。「万人の為政者」であることを標榜する智仁にとって、誰か一人を贔屓にするわけにはいかなかったからである。


 政治思想としては正しい。ただし、それが後に流殞となる少年の心を救うことにはならなかった。


「上の世界」とは異なり、多少なりとも政治的の実権があり、その最たるものとして、勅命の権利がある地統皇が流殞を救うような勅を発して、人心を鎮めてくれればとの思いがあったからである。


 勅命が諮問院、現在の上院に諮らなければならないという縛りがあるため、乱発ができないということを後に知っていてなお、納得できなかったのも、当時の流殞にしては当然の心中だっただろう。


 一方で、陰ながら資金援助するなど、流殞がその後飛躍するための「原資」となったのも間違いないところである。


 智仁が流殞に目をかけたのはその境遇に同情したのもあるが、初代地統皇が齎送者だったということもあり、他人事ではなかった事情もある。


 初代は皇統の一人だったというが、検証できない以上、言ったもの勝ちもいいところだ。天孫降臨にも似た、いや、人名と地名を変えただけでほぼ丸写しの伝承があるところを見ると、それなりに学はあったらしい。自らの身分を示すのに「天」の字をつけなかったのも、畏れ多さがあったからだろう。


 この世界における象徴の血統など流殞にとってはどうでもいいことだが、智仁個人においてはやはり恩のほうが勝る面があるのがやっかいだった。智仁の存在は流殞にしてみれば、箍のようなもので精神的な制限ともなっていたからだ。


 その箍が外れつつある。そうなればどんなに驚喜することだろうと考えていたが、いざ、その日が間近になると、うろたえる自分がいることに流殞は自分自身に驚きを隠せない。


 今までは「恩人」がいたからと、行動を起こすことにためらいを覚える理由としていたが、それがなくなったら、もう後戻りはできなくなる。


 それは人間性との別離を意味し、目的のために全速力で駆け抜けてきた自分を振り返るきっかけを得て、いかに神経が図太くなったとしても、やはりひるまざるを得ない。


 いや、退路などすでになかったはずだ。世界が己を受け入れなかった。ならば、存在意義を賭して、どちらかが滅ぶまで戦うしか道は残されていないではないか。


 そう主張すれば、商人として大成したことが受け入れた証左であり、差別がなかった証拠と返されるだろうが、それがどうしたというのだろう。


 この世界に落とされてから、今日に至るまで、流殞のことを「余所者」として遇してきたではないか。


 どこまで行っても、おまえは眞人にはなれないのだと言葉に寄らずして、絶えず語り続けていたのは誰だったか。


 ここまで考えてから、流殞は不意に苦笑した。


 何度心揺らしては覚悟を固めただろうかと。その回数を数えるのも馬鹿らしい。毒を食らわば皿までとはよく言ったものだ。すでに致死量を超える毒を飲み干してしまったのだから、毒が全身に回る前に皿どころか、目につくものはすべて食らわねば損というものではないか。


 ベッドから立ち上がるまでどれほどの思考作業が繰り返されたのか、それをわかるはずもないが、立ち上がった流殞の決然たる背中を見て、黒依は声を立てずに笑った。


 何度心が拉げようとも、捻れながら立とうと藻掻く姿に惹かれたのだ。腑抜けな流殞を殺しても何の意味がないというものである。


 短くも、激しい葛藤を終えたのを待っていたかのように扉の向こうから声がかかった。


「旦那様、準備整いましてございます」


「ありがとうございます。ですが、着替えている時間はなさそうですね。このまま出るとします」


「は」


 使者の馬車が到着するまで着替える余裕はあるが、万端に整えて、出迎えれば、まるで待っていたのかと勘ぐられるかもしれない。


 多少慌てふためいたような演技は必要だろう。とはいえ、下着姿で出るのもはばかられるので、聖上の身をひたすらに案じて、夜も眠れず平服を着ていたという体が望ましい。


 手早くいつものスーツに着替え、寝室を出ようとしたとき、黒依が甘えたような声をかけてきた。


「あら、旦那様、あたしは置いてけぼりなのかしら?」


「好きにしろ」


 行くのはどうせ宮中だろうから、護衛が必要とは思えないが、黒依のことだ、どう命令してもそのときの気分次第で反故にするのだから、言うだけ無駄だ。文字通り好きにさせるのがいい。部屋を出るときにかすかに衣擦れの音がしたので、どうやら同行する気らしい。


 騒ぎを起こさねばいいがと、多少の不安を覚えつつ、流殞は書斎へと移動する。簡素な机の前に座り、頬杖をついていると、さほど時間もかからず、馬の嘶きと車輪と地面がこすれる音が流殞の鼓膜を刺激した。よほど焦っているのだろうか、馬車が止まる前に使者が外に飛び出してきた。


 門から流殞の私邸までわずかな距離しかないが、強い雨に打たれ、しとどに濡れた使者は家の扉を叩こうとして、一瞬躊躇した。今をときめく豪商にしては、あまりにも小さな家で、ここが流殞の邸宅だったとは思えなかったからだ。


 使者は知るよしもないが、流殞の私宅は元の世界の実家を模している。この世界の建築ではないので、細部まで再現してあるこの家は見た目以上に金がかかっているのである。


 瞬間、我を忘れた使者だったが、すぐに自らの使命を思い出したようで、やや乱暴に扉を叩いた。


 壊すなよと流殞はうんざりする一方で、すぐに源吾が対応に出たようだ。数語会話を交わした後、源吾は階上へと上がってきた。すでに部屋の外で待機していた流殞は源吾と入れ違いに階下へと降り、玄関で待っていた人物を見て、軽く目を見張った。


「これは……文殊四郎もんじゅしろうさまではありませんか?」

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