第17話 見えざる記憶

 湿った土を踏みしめる足音が、静寂に沈む森の中で小さく響いた。エコーはギフトの頭部を抱え、人気のない廃屋のような小屋へと戻ってきていた。彼女の手には未だ微かな熱を持つ頭部──それは、もう生きているとは言えないはずのものだった。

 だが、あの囁きが事実なら。

「……君は、まだそこにいるの?」

 問いかけに返事はない。エコーはそっと、岩の上にギフトの頭部を置いた。無線回線の傍受機、古びた医療用端末、観測用の機器。すべて、この島の旧施設から回収したものだ。彼女は静かに作業を始めた。

 頭部の後頭蓋──人工骨格で覆われたその中に、ギフトの思考核がある。解析用のナノインジェクターを接続し、内部ログの抽出を試みる。

「やっぱり……」

 モニタに映し出された構造図。そこにあるべき自爆装置が、存在しなかった。設計図上には明確に搭載されるはずの起爆用シリンダー、圧縮トリガー、遠隔通信ユニットが、すべて欠損していた。だがその代わりに、通常のギフトにはない“記録蓄積領域”が広範に展開されている。

「記録ユニット……?」

 不意に、スクリーンが点滅し、視界が乱れた。エコーがログ再生コマンドを入力するよりも早く、記録が自動で再生を始める。映し出されたのは、白い病室のような空間だった。

 同じ制服、同じ年頃の少女たちが、そこで遊んでいる。

 走り回るキャスター、後ろから驚かすビルド、木製の積み木を崩して笑うダイバー。アルファが静かに本を読みながら、それでも時折顔を上げて微笑んでいた。

 そして、端の椅子に座っていた小さな少女の隣には、幼いエコーがいた。

「……こんな記録、私は知らない……」

 エコーは眉を寄せた。記憶には存在しない時間。だが、映像に映る彼女は明らかに本人だ。彼女たちはかつて、どこかで一緒に過ごしていた。少なくとも、フォックス以外の全員が。

「待って。……フォックスが、いない?」

 エコーは再生ログを逆行させる。何度繰り返しても、フォックスの姿だけはそこにない。まるで、最初からその空間には存在しなかったかのように。

「どういうこと……?」

 画面が突然、歪んだ。音声ログが勝手に再生される。

《──これは72時間以内に対象同士の最適淘汰が行われなかった場合の備えです。失敗例が全記録を保有していたのは、偶然ではない。》

《観測の目的は“戦闘結果の収集”に限らない。人格発達と適応記録──つまり“人間らしさ”そのものが……》

 そこでノイズが走り、映像は消えた。

 エコーはしばらく黙っていた。

 ギフト。あの少女は、ただの兵器ではなかった。あの子の内部には、かつて共に過ごした時間の記録が刻まれていた。そしてそれは、あの子だけが持っていた記憶。

 いや、違う。奪われた記憶なのだ。自分たちから。

「誰も死ななければ、別の結末が……」

 彼女は呟いた。破損した頭部の横顔が、どこか安らかな表情を浮かべているように見えた。

 このゲームに、本当の勝者などいるのだろうか?

 その疑問が、ゆっくりと彼女の中に沈み込んでいく。


 外で、何かが音を立てた。気配。誰かが、こちらに近づいてきている。

 エコーはギフトの頭部を布で包み、静かに立ち上がった。

 次に会う時、私は──答えを持っていなければならない。


 焼け焦げたギフトの頭部は、布に包まれたままエコーの背嚢の奥に眠っている。彼女は無言で歩いていた。誰にも気づかれず、誰の視界にも入らないように。

 陽は傾き、島の空が朱に染まり始めていた。エコーは廃棄された旧通信施設に辿り着く。過去に観測用ドローンの中継基地として使われていた建物だ。

「問題なさそう……」

 床に落ちたガラス片と、ひび割れたターミナルパネルを確認すると、エコーは小さな携行端末を接続した。微弱な電力が残っていたのか、低く唸るように起動音が鳴る。灰色の画面に浮かぶ、朽ちかけたインターフェース。

 彼女は迷わず検索コードを入力する。

『テスター・バックアップログ』

 検索結果には馴染みのある名前が並ぶ。アルファ、ビルド、キャスター、ダイバー……そして、

「……フォックス」

 彼女のログには、他の誰とも異なる識別タグが付いていた。


 《ID-06:CODE FOX》

 - CLASS:Test Subject

 - CLASS:Observation Auxiliary Unit


 ダブルタグ。

 エコーは目を細めた。観測補佐ユニット? 彼女だけが……実験観測者と繋がっていた?

 指を滑らせ、さらに詳細を開く。記録映像の断片。音声ログ。

『……これでいいの? わたし、もうあっちには戻れないの?』

『きみの役目はもう決まっている。記憶は消去される。ただし、観測補佐ユニットとしての意識は残る。』

 声は少女のものだった。今よりも幾分、年若く、不安げで、それでも頷いていた。

『……わかった。全部覚えてる。みんなのことも、わたしのことも。忘れない。』

 その映像の中で、フォックスは確かに微笑んでいた。


 フォックスは山岳地帯にいた。“最後のバトルロワイアルの兆候”を感じ取り、彼女もまた動き出していた。だが、その足取りは戦闘を求めるものではなく、どこか遠くを見るような、静かなものだった。

 その前に、エコーが姿を現す。

「聞きたいことがあるの。あなたは、観測者の側にいた?」

 フォックスは足を止める。そして、無表情のまま首を傾げた。

「いたよ。でも、それが全部じゃない」

 エコーはギフトの頭部を包んだ布を掲げる。

「これを見て、何か思い出さない?」

 フォックスは目を細め、その布越しに確かな視線を落とす。

「懐かしいね。彼女、昔はよく泣いてた。わたしたち、病院みたいな施設でよく一緒にいたよね。白い服、鉄のベッド……」

 彼女の瞳は微かに潤んでいた。

「じゃあ、なぜあなたの姿だけ、その記憶にないの?」

 エコーの問いに、フォックスは答えなかった。ただ、静かに呟いた。

「エコー。ガンインセクトって呼ばれてるこれはね、兵器開発の予算獲得戦争の裏にもう一つ、目的があるの。それは人間性の、観察。感情の分岐点を測るための、純粋なサンプル群。」

 そして、彼女は静かに歩み寄り、囁いた。

「君たちは……一度、死んでるんだよ。そしてわたしは“狐”。迷信を振りまく九尾の狐、狐の女王。この意味、あなたには分かる?」

 その言葉に、エコーは目を伏せた。

「――まさか!おまえは!?」

 フォックスは答えず、ただ微笑んだ。

「記憶は力になる。でも、同時に罰にもなるの。だからこそ、選ばれた。わたしは、覚えてなきゃいけなかったの。この“役割”のためにね。」


 エコーは再び背嚢を背負い、沈黙の中を歩き始める。彼女の手の中で、ギフトの頭部は静かに眠っていた。

 “72時間が終わったとき、誰も死んでいなければ──違う結末が来るかもしれない。”

 その微かな希望だけが、彼女の心を繋ぎとめていた。

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