第5話 エコーの画策

 風が木々の隙間を抜ける音すら、彼女の耳には届かない。金髪ロングヘアーで金眼の少女、コード・エコーは今、完全に風景の一部だった。

 支給された兵装は光学迷彩外套――ただそれだけ。

 銃もナイフも持たず、火力も、反撃手段も持たない。

 光を屈折させ、姿を消す。匂いを絶ち、音を絶ち、気配を絶つ。

 完璧なまでの潜伏性能。しかし、それは戦うための装備ではなかった。

 エコーは、薄く息を吐くと、木陰に身を沈めながらスマートウォッチを起動した。

「コード・エコー、通信。オペレーター、応答を」

 数秒の静寂の後、呑気な口調が耳に届く。

《はいはーい、こちらイージー。どうよ、透明人間ライフは?快適?》

「質問に答えてくれ。私の武装はこれだけなのか?」

《そ。あとは君の発想力次第だね。ま、いざとなったら他の連中をぶつけ合って生き残ってくれたまえ。火力が無いなら頭を使いなさい、ってことだね》

「……要するに、使い捨てか」

《そうとも言うし、そうじゃないとも言うかな。とにかく、“見つからない”ってだけでも相当なアドバンテージだよ?》

 通信が切れる。

 軽薄な言葉に苛立ちを覚えたが、それを感情に昇華する余裕はなかった。冷静であれ、と自らに命じる。現状を否定しても何も変わらない。


 ――ならば、この状況で、何ができる?


 エコーは迷彩外套のセンサーを切り替え、周辺の反応を拾い始めた。戦闘音、振動、熱源。機械音の走るノイズ。それらを繋ぎ合わせる。

 (市街地に機械兵装。荒野に高出力の熱源――何かが再生している? 森林地帯には複数の交戦反応。狙撃点も、ひとつ)

 直接戦えなくとも、情報は得られる。

 情報を得れば、戦いを誘導できる。戦いを誘導できれば、生き残れる。

「……よし」

 エコーは木の根元から身を起こした。完全な沈黙と共に動く。誰にも知られず、誰の目にも映らずに。

 自分は戦うのではない。敵と敵とをぶつけ合わせる、黒い導火線だ。

 エコーは既に次の一手を思い描いていた。

 この“戦場”そのものを利用するという選択肢を。

 しかし。


 (全員、異常だ)


 エコーは静かに、だが確実に追い詰められていた。

 光学迷彩服の効果を最大限に活かし、彼女は無人島を巡った。風に紛れて移動し、草の揺れを読み、熱源と振動から他のテスターたちの戦闘痕跡を追ってきた。だが、その成果がもたらしたのは絶望的な情報の山だった。

 《コード・アルファ――多脚戦車。あれはもう戦術兵器そのものだ。火力、防御力、機動性、そして何より“頭脳”が突出している。正面から当てるべきではない、だが誘導も難しい。あれは狙いを定めた瞬間に、戦場を制圧してしまう》

 《コード・ビルド――格闘戦特化。兵装は戦闘スーツ。機動も反応速度も、通常の人間とは到底思えない身体能力だ。密林の中であの女に接近を許せば終わりだ》

 《コード・キャスター――中距離火力支配型。サブマシンガンに無限装填装置? なんだそれは?確認しただけで数百発は撃っている。しかも反応速度が異常に高い。銃撃線に誘導すれば確実に何者かが潰されるが、その代償も大きい》

 《コード・ダイバー――狙撃と索敵に特化。ドローンを用いた周辺支配。……あれは敵を撃つだけではない、“見る”ことで圧をかけてくる。射程外に逃げたと思っても、奴のドローンが空を押さえている限り安全などない》

 エコーは息を潜めながら思考を巡らせた。

 そして、問題の存在に突き当たる。

 《コード・ギフト――頭部と心臓を撃ち抜かれても蘇生。薬物兵装。恐らく体内に投与された薬物が、異物を分解・排出しつつ再構築している。正直に言って、意味が分からない。銃撃も致命打にならないなら、一体どうすれば……》

 さらにまだ見ぬ“存在”がもう一人。


 情報の断片は揃った。しかし、結論はひとつだった。


 ――誰もぶつけられない。

 ――誰も潰し合わない。

 ――誰もが異常で、均衡が成立していない。


 もはや“敵同士を誘導して共倒れさせる”という初期の計画は、理想論にすぎなかった。

「……どうする?」

 初めて、思考が止まった。

 行動を支えていた冷静さが、足元から崩れそうになる。

 オペレーター・イージーの軽薄な声が、脳裏に浮かぶ。

 《他の連中をぶつけ合って、生き残ってくれたまえ》

 (簡単に言ってくれる。まるで“こっちの状況”を想定していない)

 不意に、周囲の空気に異常を感じた。

 木々が、音もなく揺れている。微かに、だが確実に。

 誰かが近くを通った?

 エコーは光学迷彩の最適化を再調整しながら、無意識に呼吸を整えた。

 (待て。逆に言えば、奴ら全員が“危険すぎる”ということは、どれか一つでも崩れれば連鎖が起きる)

 《戦術ではなく、連鎖反応。偶発的な衝突と、連鎖的破壊》

 エコーは目を伏せ、葉の影の中で静かに微笑んだ。

 (――ならば、誘導ではなく、点火だ)

 エコーの中で、“導火線”の意味が変わった。

 もはや繊細な戦術では届かない。ならば、火種を放り込む。

 その先で何が起ころうとも、自らの痕跡だけは残さずに。

 再び、影が森の中を滑るように動いた。


 (……音がしない)


 葉の擦れる音も、枝を踏む音も、風に紛れる足音も、なかった。

 エコーは土の上で片膝を立てたまま、まるで死体のように身じろぎ一つせず、森の気配に意識を集中していた。

 視覚、聴覚、嗅覚、振動。どの感覚にも異常は無い。にもかかわらず――「何か」が近づいている確信だけがある。

 そして。

「ねえ、キミ、さ。隠れてるけど、別に殺さなくていいよね?」

 すぐ後ろ。耳元すれすれに降りかかった声は、少女のものだった。音量はかすかで、それでいて不可避だった。

 (どうやってここまで……!?)

 エコーの喉奥に、呼吸の代わりに冷気が満ちた。

 光学迷彩外套の性能は完璧だったはずだ。匂いも音も熱源も、気配も遮断していた。それを、“見つけた”この存在は――。

「動かないんだ。えらいね。逃げても、たぶん間に合わなかったと思うけど」

 ゆっくりと、エコーは上半身だけを僅かに捻り、背後を――その存在を、確認する。

 そこに立っていたのは、少女だった。

 白いパーカーに包まれた体躯。黒髪黒目のツインテール。顔立ちは幼く、瞳は無色のガラス玉のように感情を示さない。

 口元に笑みを浮かべてはいたが、それは“機械が模倣した笑顔”のように、どこか歪で、薄い。

 (こいつが……フォックス……)

 エコーの脳裏にあった戦力評価は、静かに崩壊した。

 見た目に異様な点はない。装備も武器も見当たらない。

 だが、直感が告げていた――目の前の存在は、“世界の側”が異常なのだと。

「ねえ、ケアパッケージって、どこに落ちたか知らない?」

 まるで知人に天気を尋ねるような調子で、フォックスが言った。

 何の下心もなく、ただ疑問だけを口にする。

「市街地区に、一基。五分前に落ちた。大きさからして補助兵装か食料備品のどちらか」

 フォックスは、聞いた瞬間、視線を空へと向けた。

 まるでエコーがそこにいないかのように。

「そっか。じゃあ、そっち行く」

 それだけを言い、彼女は草を踏まずに去っていった。

 歩いているようで、移動しているように見えない。ただ、消えた。

 風が戻ってきた。鳥の声が、何もなかったように再開された。

 エコーは膝をついたまま、汗に濡れた首筋を押さえた。

 (……気づいていた。最初から。こっちの気配を。最初から……殺すつもりだった。たぶん、会話する前までは)

 フォックスは、“選んだ”のだ。

 殺さないという選択肢を。

 それが一番、恐ろしかった。

 エコーの中で、ギフトの再生能力やビルドやキャスター、ダイバーの戦闘能力が、“理解できる脅威”へと後退していく。

 理解不能の“選択する殺意”の前には、理性すら無力だった。

 《コード・フォックス――殺戮特化。奴だけは異質だった。他のどのテスターとも違う。生存ではなく殺害、勝利ではなく破壊を目的としている。兵装も読みきれない。戦闘に意味や戦略が存在しない。“本能”で動いているのだ。――何かが、壊れている》

 心の奥底で、自分の戦略がまた一つ、破綻していく音を聴いた。

 エコーは静かに、そして確実に、戦場の構造そのものが崩れてきているのを感じていた。

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