第11話 彼女の秘密

 夕灯との約束の日。拓海は航に呼び出された。

 いつもの大学最寄りの駅前。航は出口のすぐ傍にいた。

 空はすでに暗くなっている。

「航。どうしたんだ?」

 航は顔を青くして渋い顔をしていた。

「いや、急に不安になって」

 腕を組んで指でトントンとたたく。

「……ど、どっか行くか?カフェならすぐそこに――」

「園田さんち行くの止めないか」

 早口で言われ、え、っと小さな声をこぼした。

「なんで、急に」

「昨日会ったんだよ。不敵な笑みを浮かべて、嬉しそうに、もうすぐ手に入るって。背筋が凍った。邪魔するなとも言われた。なあ、やっぱりやめようぜ。それがお互いのためだよ」

 そのようなことを急に言われても、じゃあ止めよう、とはならない。

 大学に入って一目ぼれして、片思いがやっと叶って幸せいっぱいの中、急に別れろと言われても、おいそれと承諾することはできない。

 それだけ拓海は夕灯のことが好きなのだ。

 航が嘘をついているとも思えない。ただ夕灯のことをすぐにあきらめる気もない。

「とにかく会ってくるよ」

 拓海の答えを聞いた航は唇をかみしめ、悲しそうな笑顔を見せた。

「……そうか。そうだよな。こんなこと急に言われても困るし、ずっと好きだった奴を簡単には諦められないよな。ごめん」

「良いんだ。でも三人ともどこかおかしいよ。航も美夏さんも夕灯さんも。俺が初めて会った時よりピリピリしてる。なんで、俺は何もわからないんだ」

「ッ……それは」

 航は顔をそむけた。拳を力強く握る。

 拓海はそれに気が付いたが、それ以上聞かなかった。

 何か葛藤するものがあるのだろうとは思う。それでも、今は夕灯の元へ行き、航の言うことが真実なのかも知りたい。

「ありがとう、心配してくれて」

「するに決まってんだろ。何年親友やってんだよ」

「高校からか?」

「大学見学の時な。本当に、これだけ気が合うやつが世の中にいるんだな、って驚いた」

 航は深呼吸をする。迷う思考を落ち着かせて、拓海の幸せの方を願う。

「ありがとう。時間空けてくれて」

「良いんだ。航とも話したかったし」

「園田さんといい話ができるといいな。俺は……俺は、拓海の幸せを誰よりも願ってる」

「ははっ、本当にありがとう。かなり肩の力が抜けたよ」

「そうか。じゃあ、そろそろ時間だろ、行ってこい」

「そうだな。じゃあ!また……落ち着いたら会おう!」

「落ち着くといいけどな!」

 二人は握手を交わす。

 手を離すと、拓海は手を振りながら夕灯宅の方面へ歩みを進めた。

 航はその場で大きく手を振っていた。

「いいんだ。これでいいんだ。今のあいつは、園田さんに会いたいんだから」

 航は拓海の姿が見えなくなってから自宅へと帰った。



******



 約束時間の十分前に夕灯宅へ着いた。

 呼び鈴を鳴らすと、すぐに夕灯が出てきてくれた。

「こんばんは!ごめんね夜遅くで」

 夕灯が開けてくれた門と玄関を抜けて廊下へ入る。

「大丈夫。それで、用事って何かな」

 夕灯はニコニコ笑顔で居間の方へ向かう。

「まだ内緒!とりあえずこっちで少しお話ししよう?」

 拓海は違和感を覚えながら、彼女に付いて行く。

 水を出されてしばらく駄弁っていた。

 そして来てからずっと気になっていたことを口にした。

「最近会ってくれなかったけど、何かあった?」

「ううん、特に変わったことは何も?」

「そっか。俺は結構航と遊んでたけど」

「ごめんね、あの二人と遊ぶのに私も誘ってくれたのに行けなくて」

「あ、うん。良いんだ。……あと、最近服の趣味変わった?」

 拓海は違和感の正体を訪ねる。

「どうして?」

「袖が、長くないし。どこでもきつめの服だったろ?」

 白い手袋は付けたままだが、袖は手首までの普通の長袖だった。

 夕灯は笑顔のまま答える。

「今日はもう袖は良いかな、って。あと、最近お腹締め付けないで、って言われてるの」

「そう、なんだ。でも、どうして?」

 その言葉を聞いて、夕灯は壁掛け時計を見上げた。

「もうすぐ二十三時だね」

「え……ああ、本当だね」

「もう少ししたら、地下に行こっか」

「え、地下あるの?」

「うん。先生が私たちのために作ってくれた特別な地下室」

「先生?病院の?」

「そうだよ。拓海君も見たらきっと喜ぶよ!」

 ウキウキしながらそう伝える。

 拓海は小首をかしげる。彼女が何をしたいのかますますわからない。

「三つ、伝えたいことがあるの。地下室で」

 無邪気な笑顔が可愛いな、と思いつつ、どこか不気味だとなも思う。

「ここじゃダメなのかな」

「うん。見てほしいの」

 こう言われては断る気にもならない。

 夕灯は立ち上がり、お互いのコップを手に取る。

「もう飲み物は良いかな?」

「うん。ありがとう」

 台所へ向かう夕灯の後ろへ付いて行く。

 彼女が洗ったコップを食器布巾で拭いて彼女の指示で棚へ戻した。

 そうこうしているうちに、いつの間にか二十三時を回っていた。

「じゃあ、行こうか」

 居間を出て、廊下の先にある物置部屋へと入る。

 その部屋のカーペットの下にある床扉を開けると、梯子が現れた。

 降りようとした時、拓海の電話が鳴った。

 画面には母さん、の文字が浮き出ていた。

「ごめん。……もしもし?」

『良かった、繋がった。拓海、あなたいつ帰ってくるの?明日から仕事でしょう?』

 用事があると言い出てきたが、娘が行方不明な親だから余計に心配になるのか、少し声が震えているような母親の声が聞こえた。

「あー、夕灯さん家。もう少し時間かかりそうだから、先に寝てていいよ」

『そ、そう?お父さん、帰るの明日になりそう』

 母がそういうと、少し声のやり取りを聞いて、父親の声が鮮明に聞こえてきた。

『あまり邪魔になるようなことはするなよ』

「分かってるよ。小学生じゃないんだ。用事が終わればすぐに帰る」

『……そうか。じゃあ、彼女さんと両親によろしく言っておいてくれ』

「ああ、分かった。じゃあお休み」

『ああ、お休み』

『拓海、早く帰ってくるのよ。園田さんにも好子さんにも迷惑をかけたらだめよ』

「分かってるって、お休み」

 少し長くなりそうなので、電話はそこで切った。

 両親とも夕灯と面識があり、家族で住んでいることも知っている。

 滅多に深夜まで出歩かない息子がよほど心配だったのだろう。母親の方の声がわずかに震えていた。

 スマホ画面を消す前に、メッセージが来ているのが見え、確認した。

『もう帰ったか?何事もないならいいんだ。不安にさせるようなことばかり言って悪かった。今度何か奢るよ。また遊ぼう』

 メッセージを読んでいると、夕灯に呼ばれた。

 拓海は、少し待ってもらうように伝え、速度を上げて文章を打つ。

『この間、少し高めのレストラン見つけたんだ、そこで仕事の話をしよう。何でもいい。不満でも楽しいことでも。航といると楽しいからな。今日はもう少し夕灯さんと一緒にいる。大丈夫。航が心配することなんて何もない。じゃあ、また今度。お休み。明日から頑張ろうな』

 メッセージを送ると、すぐに返事が返ってきた。

『おう!明日からが本番だ!お前もさっさと帰って寝ろよ!初日から遅刻するぞ!おやすみ!』

 その返事に、拓海はイラストのハンコを返した。

 どんな明日になろうとも、大切な家族がいて、親友がいて、大好きな彼女がいるのなら、きっと未来は明るい。そう希望を胸に、拓海は梯子を下る夕灯の後を付いて行った。

 梯子を下り、暗い廊下へと足を着けた。

「初めにね。ママとパパに会ってほしいの」

 そう言われて、間抜けな声が出た。

 そのような話は聞いていない。

 先に教えてくれていればもっと気合の入った服装で来たのに。そう思い、とっさに服のしわを伸ばすような動作をとる。

「ふふふ、大丈夫だよ。ママとパパには拓海君の良いところ全部聞いてもらってるから」

 そう言われても、会ってそうそうダメ出しをされたくはない。人は見た目から入るのだからと、拓海は髪型もなんとなく整える。

 しかしそんな簡単な身だしなみを整える時間もなく、すぐに部屋の扉が目の前に飛び込んできた。

 夕灯がドアノブに手をかける。鍵を取り出し、拓海の方へ振り返る。

「あんまり驚かないでね」

 そう言い、彼女は扉を開いた。

 開けた先の部屋は暗かったが、夕灯が部屋の明かりをつけた。

 目がくらむ。

 慣れるまでに少し時間がかかった。徐々に瞼を開ける。

 目の前は白。

 何もない壁だった。

「ごめんね。こっちにいるの」

 夕灯は目の前の壁で左に曲がる。拓海は後ろへ付いて行く。

 付いて行った先には、大きなカーテンが二枚下がっていた。

 右手には大きなソファー。そしてそのソファーには二人の人物。

「ママ!パパ!拓海君連れてきたよ!」

 夕灯は母親と思われる女性の方へ駆けつけ、ソファーの後ろへ回る。

 二人に違和感を覚えつつ、とりあえず挨拶をしようと近づく。

「えっと。こんばんは……。このような時間に……あの、寝てる?」

 夫婦はお互いに寄り添い眠っているように見える。

「ううん。二人とも起きてるよ。深夜だけど、拓海君が来るって聞いて、楽しみにしてたんだから!」

「そ、そうなんだ」

 どうしても起きているようには見えない。

 二人で手をつなぎ、添い遂げながら眠っているようにしか見えない。

「……だよね!二人とも拓海君のこと気に入ったって!もう結婚もいいよ!って!ふふふ、良かったね!」

 知らぬ間にどんどん進む話についていけなくなり、夕灯を制止させる。

「まって!話が見えない。今だれと話をしたんだ」

「え?ママとパパとしたけど。聞こえない?」

「何も聞こえないよ」

「そっか、やっぱり聞こえないんだ。先生と一緒だね」

「先生が何かあるの?」

 夕灯はソファーの前に回り、拓海の方へ近づく。

「二人がここにいることは私と先生しか知らないの。私はいつも二人とお話しできるのに、先生は聞こえないっていう。でもそれは私がとびきりに愛されている証拠!だって私はあの時から消えない愛を手に入れたんだもの!」

 拓海は夕灯の気迫に押させて後ずさる。

 何かがおかしい。自分の知っている夕灯ではない。そう思うが、驚きと困惑で何も言葉が出てこない。

 何やら話し続ける彼女から視線をそらし、両親の方へ視線を向ける。

 今感じている違和感の正体を掴みたい。

「拓海君、どうしたの?」

「え、いや。何でもない。夕灯さん。少しおかしくない?」

「何が?何もおかしいことなんてないよ?だって私はこれが普通だもの」

「そ、そっか……」

 目の前の夕灯から少し視線を逸らせ、再び夫婦の方を観察する。そして一つ気が付いた。

 先ほどからあの夫婦は動いていない。寝ていても動くはずの胸と肩すらも微動だにしない。口や鼻が動くわけでもない。

 その状況はいったいどういう時なのか。人が一切動きを足らない時。

 それは――

「――ッ!」

 拓海は夕灯の横をすり抜け駆け足で夫婦の元へ近づいた。

「まって……」

 後ろで夕日が静止を呼びかける。

「おかしいと思ったんだ」

 男性の方の肩に手をかける。

「ダメ!」

 夕灯が駆け寄ろうとした時には遅かった。

 拓海が触った男性は力なくソファーで倒れ込んだ。

 少しして女性の方も後を追うようにして倒れた。

 しばしの沈黙。

 重い空気が流れる。

「なあ…………これ、どういうことだよ」

 夕灯からの返事はなかった。

 拓海はしゃがみ込み、男性の頬へ手を当てる。

 冷たい。固い。生を感じることのできない肌は、人形と嘘を吐かれても信じられるものではなかった。

「なんで。これ……ねえ、人形だったりは――」

「人形なんかじゃない!そんなこと言わないで!」

 人形ではないとうすうす気が付きながらも、そう尋ねられずにはいられなかった。

 夕灯は駆け足で両親の元へ近づき、二人を元の状態に戻す。

「……いつから」

 この状態なのか、そう言葉を続けようとしたが、夕灯が顔を上げ目が合ったことで言葉に詰まってしまった。

 二人を元に戻した夕灯は、再び両親に話しかける。

「大丈夫だった?ごめんね急に。…………ううん。大丈夫。拓海君すっごく素敵な人だから、少し驚いただけだろうから」

 しゃべらない両親へ話しかける彼女を見て、拓海は不気味さを覚えた。異常だととらえられる現状に、言葉が出ない。

 これはいつから続いていたのか。

 あの医師はいつから知っていたのか。

 そして、目の前のそれらは本当に人間だったのか。

 考えれば考えるほどわからなくなる。

 これ以上考えてはいけないと警鐘を鳴らす。

 それでも、知りたい欲が勝ってしまう。

「……はあ」

 夕灯は両親と話し終わったのか、溜息を吐きながら立ち上がる。

「急に触らないでね」

「……ご、ごめん」

 それしか言えなかった。

「先生にね、拓海君に両親紹介するって言ったの。でもやめとけって言われた。それでも合わせたかった。報告もあったし、きっと喜んでくれると思ったから」

 確かにこの部屋に入るまでは嬉しかった。

 一度も会えていなかった夕灯のご両親に会える。もしかすると交際の果ての結婚まで許してもらえるのではないか。そう飛躍した喜ばしい考えもよぎった。

 しかしそれはこの光景を前にして消え去った。

 夕灯が人形ではないと言い張るのなら。恐らく本物の両親なのだろう。

 生きていたのだろう。

 しかし今は、どう考えても死んでいる感触に、両腕が震える。

「でもね、私は拓海君のこと愛してるから、怒らないよ。拓海君も私のこと愛してくれてるよね?」

「え……も、もちろん」

 そこでいいえ、と答えられないのは、それほどに彼女のことを好きだったからだろう。

 短い恋人生活の中で、確かに愛を育んでいた。彼女と人生を共にしたいと思っている。今の彼女はきっと何か事情がありおかしくなってしまっているのだろう。そう言い聞かせるしかなかった。

「でしょ!良かった!初めはね、両親は死んだんだ、って皆いうけど、私わかってる。二人ともずっと私と一緒にいて、お話聞いてくれて、笑って、たまに怒られて、それでも一緒に暮らしてくれてる。だって二人はここにいるから、一緒にお話しできる。なのに皆死んでるっていうの。そんなわけないのにね」

 夕灯は両手を後ろへ持って行き、拓海へ近づく。

「先生はわかってくれた。でもこの部屋から決して出してはならないと言うの。他人に両親のことをしゃべってはいけないとも言われた。外から見たら変なんだって。そんなことないのにね」

「……じゃあ、なんで二人は動かずに、ここで…………ここにいるんだ」

 夕灯は後ろ手に合った手を目に前へ出した。

「だって、これで刺したから」

 目の前に現れたのは赤黒く染まった包丁と彼女の両手。

 肘まで血に染まった腕はもはやいたたまれないほどに変色しているように見えた。

 拓海は息を呑む。

 それしかできない。

 疑問を投げかけることすらできない。

 夕灯は話を続ける。

「生き物ってね、刺すと動かなくなるの。近所の仲良くしてくれた猫ちゃんがね、怖いおじさんに刺されて動かなくなっちゃった。おじさんは猫ちゃん連れて帰って、たくさん愛でて、皮にしてた。三味線に貼って、愛おしそうに弾いてた。これだ!って思ったの――」



============



 きっと、動かなくなればその人の愛をいつまでも受け取ることができる。

 いつも仕事で忙しい両親がずっと家にいてくれる。

 それがどれほど嬉しく幸せなことなのか。

 味わいたい。

 皆が持っているモノを自分も持ちたい。

「私がずっと一緒だったらママもパパも喜んでくれるよね」

 月に一回の家族団欒も毎日できる。

 一緒に遊んで勉強もする。料理も洗濯もかくれんぼだってできる。

 五歳の夕灯はそう考えながら、怖いおじさんが持っていた同じ包丁を手に持ち、夜帰宅の遅い両親を待っていた。

 初めに帰ってきたのは母親の奈々子だった。

 面倒を見ていてくれていた祖母は、母が三分ほどで帰ってくることを知り、近くの住まいであるアパートへ、祖父の様子を見に行った。

 いつもそうだ。誰かの帰りが三分前になると、祖母は祖父が心配になり一旦帰宅する。

 それが今回は仇になったのだ。

「ただいまー。夕灯ー?まだ起きてるのー?」

 明かりの点いた玄関と居間を見て、奈々子はそう問いかける。

「起きてるよー」

 幼い夕灯はそれだけを言って、扉の前までやってきた。

 ガチャリと音を立てて開け放たれた先には、疲れ切った母の顔。

 それでも夕灯の顔を見れば、たちまち明るくなり、奈々子は彼女を抱きかかえた。

「んー!ただいまー!夕灯ー会いたかったー!」

「本当!?」

「本当よ。いつも一緒にいられなくてごめんね。今度約束してた遊園地には皆でいけるからね。あー、楽しみ!」

「私も!ママ大好き!」

「ママも夕灯が大好きよ。愛してる」

 奈々子は疲れ切った体で娘を抱えたまま来るっと回る。

 クラっときて机に手をついて娘を下した。

「ご、ごめんね」

 辛そうな様子を見た夕灯は、早くこの辛さから解放してあげたい。永遠の愛が欲しい。そう思うと、母の手を握っていた。

 奈々子は精いっぱいの笑顔を向けて心配させまいとする。

「大丈夫よ……」

 とてもそうとは見えない様子に、夕灯はグイっと腕を引っ張った。

「ママ!私プレゼントがあるの!きっと喜ぶよ!」

 そう言いながらソファーへ連れていく。

 瞼を瞑ってというと、奈々子は言われた通りにして、ワクワクして娘の行動を待った。

 夕灯は隠し持っていた包丁を取り出した。

「なにかなー。ママは夕灯から貰えるなら何でも嬉しいなー」

「本当?」

「うん。この間の似顔絵も可愛かったよ。金メダルも嬉しかったな。本当に自慢の娘。寂しい思いさせてるのは本当にごめんね」

「大丈夫!もうそんな心配ないよ!これからはずっと一緒に居られるから!」

「そ……なに……?」

 それはどういうこと?と聞く前に、腹部に強い痛みが走った。

 気持ち悪さと違和感から瞼を開けた。

 視線を落とした。

 違和感のある腹部には、満面の笑みで母を見上げる娘と、彼女が握りしめている包丁が刺さっているのが見えた。

「な、に……何をしたの!」

 娘の腕を掴む前に、彼女は包丁を腹部から抜いた。

 血が流れる。

 疲れて貧血気味な体は、すぐに悲鳴を上げた。

 スマホを取り救急車を呼びたいが、体がうまく言うことを聞かない。

 匍匐前進をして助けを求める母を見て、夕灯は彼女の脚を何度も刺した。

「動かないようにしなきゃ。動かないようにしなちゃ。動かなくなればずっと一緒にいてくれる。愛してくれる。もう寂しくない、寂しくない」

 夕灯は無我夢中で刺していた。

「ゆ、ひ……なんで……」

 奈々子は最期の力を振り絞り、娘の顔を見ようと仰向けになった。

「ママ!これで大丈夫!ずっと一緒だよ!寂しくないよ!これからずっと一緒に居ようね!遊ぼうね!私ママのこと大好き!」

 無邪気に笑う娘の頬に、母は手を添える。

「夕灯、ごめんね……寂しい思いさせてごめんね……ダメなママでごめんね」

 奈々子は涙を浮かべて声を絞り出す。

「どうして?ママはダメじゃないよ?ママは世界で一番のママだよ!お料理上手で奇麗でお裁縫得意な自慢のママだよ!」

「そ、っか……ありがとう。ごめんね。………………夕灯、愛してる……」

 彼女はそこで力尽きた。手が頬から滑り落ちる音がした。

 愛してる。その言葉が聞けただけで今はよかった。

 夕灯の腕と服は血だらけになっていた。

 夕灯はあのおじさんのように腹を楽器に張り付けたりはしない。

 このまま、奇麗な姿のまま一緒に過ごすのだ。

 それにはどうすればいいのか。夕灯は思考を巡らせたが、そんなこと知らなかった。そこまで考えていなかった。

「そうだ!凍らせたらそのままになるよね!おさかなさんも姿変わらないもん!」

 夕灯は母の腕を掴み、冷凍庫へ引きずろうとするが、重くて動かない。

「んー。まあ後でもいいよね。パパまだかな」

 そう言うと、玄関の方から音が聞こえた。

 何か話をしているようだが、よく聞こえない。

 足音が近づいてくる。

 扉が開かれると、大好きな父親の優大郎の顔が見えた。

「パパ!」

 夕灯は父の足元へしがみつき、顔を上げる。

「おかえり!会いたかった!」

 半分だけ開かれた扉の前で娘だけが見える。

 彼は娘を抱き上げる。

「ただいま。会いたかったよ。いつも帰りが遅くてごめんな」

「ううん。私パパ大好きだから大丈夫!」

「そっか、ありがとう。今度夕灯の好きないちごケーキ買ってくるからな」

「やったー!いちご大好き!」

 父は娘の顔だけを見ていたせいで、彼女のおかしなことに気が付くのに遅れた。

 そして彼は夕灯の腕と服を見てしまった。

「夕灯、その腕どうしたんだ」

「これ?ママにプレゼントしたの!」

「……プレゼント?」

「うん!これでずっと一緒に居られてずっと愛してくれるの!」

 父は嫌な予感がして、恐る恐る扉の向こう側へ視線を送った。

 扉の先に、足が力なく床に転がっているのが見えた。

 父は娘を下し、扉を開け放った。

 絶句した。目の前に横たわるのは、血だまりの中で眠る妻だった。

「あ、うわああああぁぁ!奈々子!奈々子!」

 優大郎は鞄を投げ出して奈々子へ一目散に駆け寄る。

 体はまだ暖かい。目元と頬に涙の跡がある。

「な、なんで……誰が……ッ」

 目の前の妻の変わり果てた姿にうろたえていると、背中で何度も痛みと不快感が走る。

 何度も何度も、背中と足、腕も刺された。

 疲れた体で力を振り絞り、振り返った。

 そこには包丁を持ってぽかんとした表情の娘がただ立っているだけだった。

「な、んで。……夕灯……?」

 脱力感に襲われ、力なく横へバタンと倒れた。

 刺された箇所が悪かったのか立ち上がれない。

 何より娘に殺されそうになっていることに頭が付いて行かない。

「これでパパもずっと一緒だね!もう寂しくないよ!朝に悲しい顔で寂しいって言わなくていいんだよ!これでずっと一緒!ずっと愛して!」

 笑顔で指摘され、優大郎は衝撃を受けた。

 確かに、夕灯となかなか遊べなくて悲しいな、と娘を抱きしめていったことは何度もある。

 しかしそれも心配させないようにと気を張って言っていたはずだった。

 悲しい顔を見せるときはいつも妻にだけ、娘のいない時だけだった。そのはずだった。

「子は、よく見てるんだな」

 優大郎はそうつぶやいた。

「パパ!パパも私を愛してる?」

「……ああ、もちろんだとも。これまでもこれからも、ずっと愛してる」

 でも、と続ける。

「どこで、育て方を間違えたのか」

 聞こえるはずのない声量で呟いたが、娘のきらきらした顔を見てその考えを捨てた。

(違う。……寂しくさせた俺たちが悪かったんだ)

「……ごめん、夕灯」

 優大郎は娘の頬に手を伸ばして撫でる。

「謝らないで。私ママもパパも大好きだから!これでこれからはずっと一緒だから!いつまでも幸せに暮らそうね!」

 なぜ娘がこのような思考をするようになってしまったのか、掠れた思考で考えるが、寂しくさせたから、という理由以外が思いつかなかった。

「ゆう、ひ……大好きだ」

「私も!ずっと大好き!生まれ変わってもママとパパの子になるもん!」

「そう、か……夕灯、愛してる…………しあ、わせ、に……」

 そこで力尽きた。

 夕灯は笑顔のまま両親を奇麗に横たわらせた。

 これから二人をどう奇麗においておこうか。そう考えながら、左手に母の血を、右腕に父の血を塗った。

 興奮から考えがまとまらず、固定電話から祖母を呼んだ。

 そこからは早かった。

 血まみれの孫と息子夫婦を見て、倒れそうになった祖母はすぐに救急車を呼んだ。

 五分ほどで救急車が到着。その後警察も到着。

 その時、夕灯は必死に両親を連れて行かないでくれと懇願したが、それはかなわなかった。

 それでも体に着いた血を洗い流されることだけは必死に抵抗した。

 様々なやり取りをこなしていくうちに、夕灯の人生を決定づける人物に出会った。

「こんにちは」

 話しかけてきたのは白衣を着た男性医師。

 彼の勤める病院で、夕灯は彼と出会った。

「……だれ?」

「私は吉野忠義。両親を殺したのは君だね」

 夕灯は小首をかしげた。

「少数の人物が君を怪しいと考えている。君はこれから警察にお世話になる可能性がある」

 夕灯は何を言われているのかわからないのか、キョトンとしたまま忠義の顔を見上げている。

「でも大丈夫。私が手回ししておいた。君が犯人だと言われるような証拠はすべて偽造して消した。……一つ質問良いかな」

「なに?」

「君は、両親を殺したと思っているのかな」

 忠義は笑顔で質問をする。

「殺してないよ。だってずっと一緒にいるために刺しただけだもん。それにママとパパはずっと私といるよ。さっきも少しお話したの」

「……そうか。君は私の見立て通りの子みたいだ」

「よくわかんないけど、ねえ、ママとパパ返して?家に一緒に帰りたいの。警察さんたち返してくれなくて困ってるの」

 忠義は顎を撫でて一つの考えを夕灯へ問いかけた。

「いいよ」

 夕灯の顔がぱっと華やぐ。

「でも一つ私のいうことも聞いてくれないかな」

「いいよ!」

「では、君はこれから私のいうことをよく聞くんだよ。一般の世では人を刺して動かないようにしたら殺しというんだ。君はそのあたりゆがんでいるようだから一から教えてあげよう。そして、私の実験に付き合ってくれ。それができれば、君の両親は大切に、長生きできるように施してあげよう」

「本当!?二人と一緒に居られるなら何でもする!先生、これからよろしくね!」

 それが彼女たちの出会い、そしてとある姉弟を巻き込むことになる話の出発点。

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