第2話
朝、長谷部に蹴られた。
突然のことで、理由はわからなかった。いつものように話しかけたら、蹴られた。突然のことだったので、何故と問いただすこともできなかった。押し出されるように蹴られた腹が、ずきずきと痛んだ。何しろ突然のことだったから、俺はきっと間抜けな顔で固まっていたのだろう。長谷部は笑っていた。
一時限目が過ぎ、二時限目が過ぎ、三時限目が過ぎ、四時限目が終わって昼休み。今日は弁当がなかったので、購買でパンを買ってきた。急いでベランダに向かったが、誰もいない。教室を見渡すと、宮本が既に机で食べ始めていた。慌てて謝りに行ったが、何が、と言われた。ベランダに行くかと誘ったら、断られた。
遠藤と森田は教室にいなかった。勝浦と食べようとも思ったが、女子とわいわいやっているようなので諦めた。仕方がないので一人で食べる。ラップで包まれたカツサンドは不格好で、肉が冷たかった。
昼休み終了のチャイムが鳴ると同時に、遠藤と森田が教室に駆け込んできた。他のクラスで食べてきたのかもしれない。二人ともえらく楽しそうで、俺も声をかけようかと思ったがなんとなくタイミングを逃した。でへ、という小さい笑いが漏れた。
五時限目が終わって休み時間、俺は遠藤の机に向かった。話のネタを思いついたのだ。遠藤は女子と何やら話していた。俺が近づくと、女子が遠藤と俺を見比べて笑った。遠藤は半笑いだった。先日ドッジボールをしたときもそうだったが、遠藤は最近、よくその顔をするようになった。
俺は昨夜観た懐かしの歌を紹介するテレビ番組での、ひな壇の芸人がCHAGE and ASKAの曲を調子っぱずれに歌っていた一幕をものまねした。女子が何か言った。今度はネットの向こうじゃなかったのでちゃんと聞こえたが聞こえなかった。遠藤は「チャゲアス舐めんな」と言って少し笑った。それでも半笑いだった。遠藤は番組を観ていないのだと思った。俺は趣向を変えることにして、その番組内での芸人と女性タレントの馬鹿みたいなやり取りを笑い交じりに再現した。女子がキモいと言ったが聞こえなかった。さらに続けようとしたとき、遠藤が大声で叫んだ。
「お前キモい! ずっとキモい。何やってもキモい。いい加減、ひたすらスベってること気づけよ。やばいよお前」
馬か何かになったように、急激に視野が広がった。気がした。今この教室にいるほとんどのクラスメイトが、半笑いで俺のことを見ていた。俺にはそんな笑い方はできない。左右どちらかの口角だけを上げることが、俺にはできなかった。だから俺は笑った。声にならない声を漏らしながら笑った。クラスメイトたちのもう片方の口角が、一斉に吊り上がっていくのが見えた。たくさんの時計の分針が同時に動くようで怖かった。その場から逃げ出そうとしたとき、授業開始のチャイムが鳴った。放課後になったら、青木に電話しようと思った。
青木は電話に出なかった。恐らく、下校中なのだろう。じきに折り返しが来るに違いないが、このままトイレで待つわけにもいかない。俺は部室に向かうことにした。
今日の部活は映画を観る予定だったので、俺は歩くスピードを落とし、部室に辿り着くまでに電話がかかってくることに期待した。携帯を入れたポケットに手をやり、振動を待つ。一歩進めば。あの男子を追い越せば。次の角を曲がれば。職員室を横切れば。廊下を渡りきれば。階段を上っていれば。踊り場の途中で。上りきる頃には。かかってこなかった。
「……自転車か」
思い出した。青木は自転車通学で、片道だけでも三十分近くかかっていたはずだ。いくらなんでも、こんな短時間で折り返せるわけがなかった。全く、馬鹿馬鹿しい。無駄に部活に遅れてしまったじゃないか。先輩が怒ったらどうしてくれるんだ、この野郎。今度会ったらぶっ飛ばしてやる。
部室の前まで来たので、引き戸に手をかける。小窓から、先輩がプロジェクターをいじっているのが見えた。そのまま戸を開けて先輩に挨拶するのが流れだが、ふと、俺はゲームをしようと思い立った。
引き戸に手をかけたまま、俺は十秒待つ。その間に、先輩が俺に気づいてくれればゲームクリア、俺は戸を開ける。気づいてもらえなければゲームオーバー、俺は部活を休む。至極わかりやすい、フェアなゲームだ。一秒。二秒。三秒。そこまで数えてやめた。こんな真似、先輩に失礼だと思った。どうして急にゲームなんてしようと思ったのだろう。まるでわからなかった。
「あれ? 稔くん?」
先輩が俺に気づき、手を振った。俺は戸を開けた。がらがらという音と、先輩の「待ってたよ」という声が重なる。何故か泣きそうになった。
「……すみません、遅くなっちゃって」
俯きながら喋れば、表情も声色もわからないだろうと思った。バニラ色の廊下は擦り傷だらけで、自分の上履きが視界の端に映って邪魔だった。どうか、消えてなくなれ。そう念じるもう一人の自分こそを、先輩には見てほしかった。
先輩は、何も答えなかった。俺の様子を見て口を噤んだのだと思うと嫌だった。普段は話したいだけ話して勝手に自己完結しているくせに、時折こうして先輩ぶっては気を利かせる素振りを見せる。迷惑だ。やめてほしい。こんなの先輩じゃない。先輩のあるべき姿をしていない。狂っている。どちらかと言えば俺が狂っている。
しゅるしゅると、続いてからからと音がした。カーテンと窓が開けられる音だ。運動部の喧騒が、心地よい涼風が、俯いたままの俺の脇を通り抜けていく。「逆に落ち着かなかったら言って」と先輩が言った。そのときはじめて、涙が零れた。
「落ち着いた?」と先輩が聞いたので、俺は正直に「落ち着きました」と答えた。隣に座る先輩から、いつかも嗅いだ、女子特有の甘い匂いが香る。プロジェクターの二つ後ろ、その右隣。先輩がその席に座るのを、というより窓際以外の席に座るのを初めて見た。
「……すいませんでした。なんか」
「ううん、別にー」
俺は、先輩を見なかった。だから多分、先輩も俺を見ていない。となると、二人が見ているのは何だろう。少し不安になった俺は、つい尋ねてしまった。
「……何も、聞かないんですね」
先輩は、やはり俺を見ていなかった。黒板の横に貼られたまっさらな時間割を、その視線で埋めるように見ている、そんな気がした。
「弟が不機嫌だったり、気持ちが揺らいでいるとき、私が何か聞いたりすると逆効果なの。……それを思い出して」
俺に横顔を向けたまま、先輩は言った。先輩に弟がいたのは初耳だった。
「先輩、弟がいるんですか」
「うん。いるよ」
「仲いいんですか」
「どうかな。部屋も入らせてくれないから悪いのかも」
「……男の部屋は、みだりに入っちゃいけないもんですよ」
「そうなの?」
「そうですよ」
「ああ、だからかぁ……」
「なんかあったんすか?」
「……他人の家の事情は、みだりに踏み込んじゃいけないもんですよ」
「えぇ? うざ……」
「こら。先輩にそんな口きかない」
先輩が、やっと俺を見た。そして笑った。普段の顔とのギャップが大きい笑顔は、しかし長くはもたなかった。
「……それに稔くん、普段から自分のことあんまり話さないから。だから」
真下。次いで斜め下。再び、先輩の視線が移ろう。
「私がいろいろ聞いてもいいのかって、ちょっとわからなくて」
一巡したように、今一度俺を見つめる。微かな緊張をはらんだ、小動物を思わせるその目。俺は、いつの間にか俺自身が、先輩から視線を外せなくなっていることに気がついた。
「話さないって……先輩もおんなじじゃないすか」
「……おんなじ?」
「自分の好きなもののことしか話さないから。俺、先輩のこと全然知らないっすよ」
俺は先輩のことを知りたいのだろうか。自分の好きなもののことしか話さない先輩は嫌いだったのだろうか。
「そっか……そうだね。なんだ、私たちって似た者同士なんだね」
俺は遠藤にキモいと言われた。俺と先輩が似た者同士なら、先輩もまたキモいのだろうか。そうであるとしたら、俺は嬉しいのだろうか。悲しいのだろうか。
唐突に、自分の気持ちがわからなくなった。
好きなもののことしか。そう、ぼそりと先輩が呟いた。何を意図して発した言葉なのかがわからず、俺は相槌を打つべきか迷った。結局下校のチャイムが鳴るまで、俺と先輩はそれ以上の言葉を交わさなかった。今日は下校時刻がいつもより早かった。あっという間だね、と繕うように笑う先輩は俺を見ていて、その双眸に映る俺は、果たしてどんな顔で俺を見つめていたのだろう。
一週間が経った。あの日、青木から折り返しがあったのは夜になってからで、青木は遅くなったことを、俺は急に電話したことをお互いに詫びて笑った。何の用だったのかと聞かれたので、俺は近くまた遊べないかと尋ねた。来週の土曜。カレンダーに印をつけて電話を切った。
クラスメイトからは、すれ違う度に笑われるようになった。俺は、誰とも話さなくなった。思えば、元から俺に話しかける奴なんていなかったから、俺が自分から話しかけなければ、まるで知り合ってさえいないように何もなかった。物理的ないじめもなかった。だから、初めからこうだったのだと割り切ってしまえば意外と楽だった。
先輩との付き合いは、特に変わったところはない。あの日俺と先輩は、お互いのことを何も知らないことを確認しあったけれど、だからといって、普段話す内容に何か変化が起こったわけではなかった。先輩は専らホラーのことを話したし、俺も今まで通り聞き役に徹していた。それが一番の充足であると俺は確信していたけれど、といって幸せとは程遠いような気もしていた。心に開いた空白が広がっていく速度と、それを何とか埋めようとする速度とが完全に拮抗してしまっていて、一向にその差が縮まらない。そんな焦燥が常にあった。
その空白は、俺の思いもよらない形で埋まった。
「こんちはーっす」
放課後。いつも通り、部室の戸を開けた。俺には先輩がいる。その一事を確認するために開けた。
「……あ、こんにちは稔くん」
視界に飛び込んできた先輩の姿に、違和感を覚えた。濃紺のジャージ。二年生の色。
「先輩、どうしてジャージなんです?」
「……ん、ああ……。六時限目、体育だったの。えっと、それで」
わかりやすい嘘だったが、何も言わなかった。先輩が体育だと言えば、体育だったのだろう。そこに口を挟めないのが俺と先輩の関係であり、絆なのだと俺は理解している。
「そうなんすか」
先輩を一瞥すると、いつも座っている席に向かう。「ねえ」と呼び止められたので顔を上げると、どこか青ざめた顔に笑みを浮かべた先輩が俺を見ていた。
「……今日、何しよっか」
「え?」
縋るように揺れる瞳に、俺は多分棒立ちで映っている。
「……ほら! いつも私がその日何するか決めてるからさ、今日は稔くんも……」
「……ああ、そういうことですか」
少し考えて、俺は「図書館で借りた本を読む時間にしたい」と言った。返却期限が迫っていたからだ。「いいね」と先輩が頷く。俺は途端に、正解を引き当てたのかどうか不安になった。
「えっと……いいんですか?」
「え、なんで?」
「……いや」
沈黙が流れる。俺は不正解だったのだと思った。何が正解で、何が不正解なのかもわからなかったが、漠然とそう思った。しばらくすると先輩はスクールバッグから文庫本を取り出し、「読も」と振って見せた。つられるように「そうっすね」と答える。図書館で借りた二冊の内、「玩具修理者」は読み終わっていたから、「人獣細工」の方をスクールバッグから出し、栞を挟んでいたページを開きながら席につく。もう一度、先輩を見る。先輩は「屍鬼」を読んでいる。確か全五巻を一気に借りたはずだが、まだ三巻の途中のようだった。
「……えへへ。あと三日なのにね、返却期限」
俺の視線に気づいた先輩が、顔を上げて言った。
「『屍鬼』以外にも借りてませんでした?」
「全然手付かずだなぁ。ほんと、活字が苦手な癖して借りるときはがっつり借りちゃうの」
先輩が笑う。目の下にできる皺がいつもより薄く感じて、これは間違いなく先輩の顔だとすんなり受け止められた。
次の日、先輩は制服を着ていたが、その次の日は再びジャージだった。俺は理由を聞かなかったし、先輩も何も話さなかった。この二日間の部活はいずれも読書の時間になったが、先輩の「屍鬼」は三巻の真ん中あたりでずっと止まっていた。
返却期限の日。俺と先輩は連れ立って、再び図書館へ向かった。結局先輩は、「屍鬼」の三巻を読み終えることができなかった。外は先日よりぐんと気温が上がっていて、そのせいか先輩の足取りは重く、会話も弾まなかった。ひょっとしたら気温のせいではないかもしれない、未だにジャージを着ている理由と同じかもしれない、そのことを先輩に尋ねられない俺は、どうしてか異様に足取りが軽かった。
「大丈夫ですか、先輩。夏バテですか」
何度、そう気遣いの言葉をかけようと思ったか知れない。しかし、あまりに白々しいので我慢した。我慢しながら先輩に歩調を合わせる、その瞬間俺は言いようのない高揚感に襲われた。また自分の感情のメカニズムがわからなくなる。否、わかりたくないだけかもしれない。それはわからない。俺は先輩の横顔を見た。
翌日の昼休み。俺は二年生の教室に向かった。
先輩が何組かは聞いたことがなかったので、俺はしらみつぶしに全教室を回ることにした。廊下を歩いている途中、何度か二年生に訝しげな目を向けられたが、そんなことはどうでもよかった。A組から始めてB組、C組と回ったところで、一人の二年生に声をかけられた。
「どうしたの? 誰か探してる?」
垂れ目が印象的な、気のよさそうな女子だった。正直に答えて先輩を呼ばれても迷惑だし、無視してもよかったが、その人懐っこい笑みに俺もつい言葉を返してしまった。嬉しかったのかもしれない。
「はい、あの、部活の先輩を探していて。河合春奈先輩っていうんですけど」
先輩の名前をフルネームで憶えていたことは我ながら驚きだったが、先輩の名前を出した直後のその二年生の反応は、俺を更に驚かせるに十分だった。
「……ああ、河合春奈。あいつ探してんの?」
思い出したくないものを思い出すように、彼女の顔が歪んだ。そんな顔をする人だとは思わなかった。瞬きをして確かめる俺に、彼女はばつが悪そうにこう言った。
「あいつ、今いじめられてるから、あまり相手したくないんだよね」
――あいつ、今いじめられてるから、あまり相手したくないんだよね。
テストの答え合わせのように。パズルの最後のピースが埋まるように。先輩がいじめられているという言葉が、脳内のあるべき場所に鎮座した。
「いじめられてるって……どうして」
必死に表情を作る。声を震わせる。「純朴な後輩」を努めて演じる。
「……君、同じ部活にいるならわかると思うけど、あいつ、クラスでもあんな感じだったのよ。好きなホラーの話、席の近い子とかにずーっとして。一年のときからああでさ、みんな陰ではうざいとか色々言ってたけど、まあ遠巻きに笑いものにして許してる感じではあった。だから表面上は何もなかったんだけど、つい一週間くらい前かな、あいつ、一人の男子に告白されて、しかも振っちゃったのよ。ほらあいつ、顔はいいから。それにクラス替えもあって、その男子、まだあいつのことをよく知らなかったんだよね。だからあの調子で話しかけられても、むしろ変な勘違いしちゃったりして。だけどその男子ってのが、まあ学年の女子の間では人気というか、憧れというか、だから誰も抜け駆けすんなよみたいな、まあそんな人で。その人に告られて振っちゃったもんだから、もう女子総ギレ。今まで許してた分って感じでいじめ出して、他の男子もびびって相手にしなくなっちゃって。それで今あいつ、絶賛孤立中みたいな感じかな」
始終を話し終えた後、その二年生は「来る?」と俺に尋ねた。先輩の教室まで連れて行ってくれるのだろう。俺は迷わず「はい」と答えた。ここで行かないと言ったら、先輩がいじめられていると知ったから行かないのだと思われてしまう。それが癪だった。彼女は大きく溜息を吐くと、先導するように廊下を歩きだした。俺も後に続いた。
先輩のクラスはE組だった。案内してくれた彼女は先輩の席を指さすと「後は自分で行きな」と言って、廊下を戻っていった。考えてみれば、彼女は俺に先輩の組を教えさえすればよかったはずだ。それをわざわざ連れてきてくれたのは、自分から絡んだ以上という責任感だろうか。
教室でも、やはり先輩はジャージだった。弁当を食べるでもなく、誰かと話すでもなくぽつんと座るその後ろ姿は、どことなく縮こまって、猫背気味に見えた。そのせいなのか、それとも部活のときと同じく窓際に座っていたからなのかはわからないが、部活以外での先輩を見ていることの緊張はまるでなかった。ここからでは表情までは確認できないが、特に見たいとも思わなかった。何故先輩がジャージなのか、さっきの彼女に尋ねていなかったことに気づいたが、既に大方の予想はついていた。
体感で数十秒ほど先輩の後ろ姿を眺めて、俺は二年生の教室を後にした。俺を案内してくれた彼女に改めて礼を言おうかとも思ったが、逆に迷惑になると考えてやめた。この後すべきことが、俺にはたくさん浮かんでいた。昼休み終了のチャイムが鳴るのも構わず、やけに軽やかな足取りで教室へと帰る俺の口角は、恐らく片方が上がっていたのかもしれない。
六時限目、俺は体調が悪いから保健室に行くと言って授業を休んだ。人生で初めてのさぼりだった。保健室に向かうふりをしながら、俺はまずはどこから探そうか、と段取りを決めることにした。
やはり最初に思い付いたのは、敷地内にあるごみ捨て場だった。と言っても、先輩が初めてジャージを着てきたのはもう四日も前だから、ごみとして出されていたら既に処理されている可能性が高い。今日は金曜だが、何曜日にまとまった収集があるのかも俺にはわからなかった。
それでも一縷の望みにかけて、俺はごみ捨て場に向かった。一階の渡り廊下を横道に逸れて、体育館脇に回る。かつては焼却炉として利用されていたらしいその場所には、幸いにして可燃ごみを入れた青い袋が二つ無造作に置かれていた。
周囲に誰もいないことを確認し、俺はごみ袋の結び目に指を入れた。かた結びだった。僅かな逡巡の末、俺は結び目を引きちぎった。もう後には引けない。きゅっと心臓が縮まった気がした。躊躇うことなく手を突っ込む。臭気が散乱する。くまなく奥まで分け入って、俺は目当てのものを探した。
二袋とも引きちぎって探したが、見つからなかった。両手を見ると、訳のわからない液体が付着していた。今頃気持ち悪くなって、近くの水飲み場で手を洗う。干からびた石鹸を何とか泡立てていく内、俺は次の場所に思い至った。二年生のトイレ。その掃除用具入れ。便器に詰められている、という最悪の可能性も考えたが、それだと見つかったときに大ごとになる。いずれにしても、俺は二年生のトイレに行かなければならなかった。
校舎に戻るまでの植木にも注意を凝らしながら、俺は歩く。トイレに行く前に、敷地内の植木を全て回ろうか。そんなことを考えていると、目の前の体育館の扉が開けられる。慌てて茂みの中に身を隠す。ん、という声が聞こえたが、しばらくすると気配はなくなった。苔の生え散らかした茂みの中で、俺は両手を口に当てて必死に息を潜めている。心臓が高鳴るのがわかった。ふと、虚無感にも似た自己嫌悪に襲われた。俺はこの事態に浮き立っている。先輩の不幸を、イベントか何かのように楽しんでいる自分がいる……。
それでも、俺は先輩と対等になりたかった。先輩には弟がいた。だから先輩は気遣いができた。なっちゃんを奢ってくれて、俺が泣いていると優しく隣で見守ってくれる、その時点で先輩は俺より上で、俺は先輩と対等になりたかった。
部室の前で初めて先輩と話したとき、この人は俺と同類だと思った。思ったというより、心の奥の芯の部分が共感していた。気がする。自分を客観的に見られない、誰かに言われても気づかない、空気が読めない、厚顔無恥。ずっとキモい。何やってもキモい。いい加減、ひたすらスベってること気づけよ。やばいよお前。
ふと、視線を左に向けた。斜め前の植え込み、その茂みの中に、何か白いものが引っ掛かっているのが見えた。俺は息をのんだ。立って探していたときにはわからなかった。四つん這いになってワニか何かのように、俺は茂みの中に入っていった。枝がシャツに引っ掛かる。両手が土や苔にまみれる。そんなことはどうでもいい。俺は手を伸ばす。指の先が触れる。もっと腕を伸ばす。とうとう掴んだ。引き寄せる。枝に絡まる。思わず声を上げる。それでも諦めない。先輩は俺の女だ。誰にも渡さない。
茂みの中、ぼろぼろのセーラー服を抱きしめた。愛おしかった。本当に愛おしかった。顔をうずめる。少しすえた匂いがする。股間が勃起している。気づけば、俺は泣いていた。
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