最終話

 その後、俺は近くの植え込みからもう一着の先輩の制服を見つけ出すと、六時限目が終わる前に部室へと向かい、誰もいないことを確かめて適当な机に制服を置いた。引っ付いた枝葉を落とし、わからないなりに丁寧に畳んだ。最後にもう一度誰もいないことを確認し、廊下に出たところで授業終了のチャイムが鳴った。俺はトイレにこもり、放課後まで時間を潰すことにした。

 放課後。普段俺が部室に向かう時間まで待って、俺はトイレを後にした。クラスに戻って荷物をまとめると、再び西棟三階へと向かう。挨拶をして部室に入ると、案の定、先輩は既に窓際の席に座っていて、二着の制服はなくなっていた。先輩は俺を見ると、少し驚いたような、あるいは怯えたような、それでいてほっとしたような不思議な表情を浮かべた。

「……稔くん」

「どうしました? 先輩」

 平静を装ったつもりだったが、少しわざとらしい台詞かもしれなかった。先輩は「ううん」とかぶりを振ると、俺から視線を外した。床に置かれた、先輩のスクールバッグが少し開いている。中を覗こうとしたが、この距離と角度では何も見えなかった。視線を上げると、先輩が再び俺を見ていたので、体が少し強張った。

「稔くん、それどうしたの?」

 先輩は、左肘を俺に突き出すと軽く右手で叩いた。俺は自分の左肘を確認した。見ると、切れて出血していた。恐らく植え込みに入ったときに、枝か何かで切ったのだろう。そういえば、やけにずきずきするなとは思っていた。

「ああ……。何かにぶつけたんすかね。まあ、大したことないっすよ」

「駄目だよ! 切り傷は怖いんだから」

 先輩はそう言うと、スクールバッグを開けた。セーラー服が見えた。先輩が奥に押しのける。そのまま中をまさぐると、しばらくして先輩は消毒液と絆創膏を取り出した。

「別にいいっすよ。もう渇いてきてるし」

「まずは水で洗ってきて。そしたら消毒するから」

 俺の言葉に被せるように、早口で先輩は言う。

「破傷風にでもなったら大変だよ」

「破傷風って」

 俺は笑ったが、先輩の表情は真剣だった。射すくめるようなその目はひどく澄んでいて、綺麗だった。改めて先輩を可愛いと思った。キスが、したかった。俺は一言「わかりました」と言って、部室を出るとトイレに向かった。



 先輩は、脱脂綿に含ませた消毒液を器用に俺の傷口に塗ると、花の模様がプリントされた絆創膏を貼り、「これでよし」と笑った。

「弟が小学生の頃、よく怪我して帰ってきてて。お母さんが手当てするところを何となく見てたら、次からはあんたがやりなさいって教えてくれた」

「どうりで、慣れてるんすね」

「稔くんは、兄弟いないの?」

「いないっすねー。ザ・一人っ子っす」

「あー。だと思った」

「……それって、俺が甘やかされてる感出ちゃってるってことですか?」

「違う違う! ただ何となくだよ」

「ほんとっすかー? 怪しいな」

「ほんとだよー! だって稔くん、面倒見よさそうだと思うもん」

「えぇ? 冗談でしょ。誰からも言われたことないっすよそんなの」

「そうなのー? 後輩とかに慕われてそうだけどな、なんか」

「あ、明確な理由はないんですね」

「……だ、だって稔くん全然自分のこと話さないから! この前も言ったじゃん、もー」

 頬を軽く膨らませ、気恥ずかしげに顔をそらす先輩。僅かな沈黙の後、目だけをちらりと俺の方に向ける。それが合図だったかのように、俺と先輩が吹き出すのは同時だった。

「……こんな風にさ」

「え?」

「こんな風に、稔くんのこと聞いていってもいいかな、これから」

 俺は先輩を見た。先輩は、俺の肘を見ていた。先輩のまつげはぴんと反っていて、どちらかというと長めだと思った。

「……全然、構いませんけど」

 けど、の部分がやけに小さい声になった。先輩が俺を見た。「ありがとう」と一言発した先輩は、再び俺の肘に視線を戻した。なんだ、先輩も消えそうな声じゃないか。俺は少しほっとした。肘を見ると、生白い肌にピンクの花柄がいやに浮いて見えた。




 先輩は、よく俺のことを聞いてくるようになった。

 稔くんて、休日って何してるの? あ、ゲームやるんだ。スマホ? え、PS5持ってるの。すごい。うちも弟が欲しがってさー。何やるの? あ、それCMでやってるやつだよね。えへへ、私だってちょっとは知ってるんだよ。

 テストどうだった? 私は全然。……え、できそうだと思った? うそー。稔くんこそなんかめっちゃ勉強してそうじゃん。してない? しなくても授業で十分ってこと?……あ、うそうそ。冗談だよ。怒らないでってば。……ごめんなさい。えへへ。

 稔くんってさ、気が長いのか短いのかわからないよね。あ、その顔。もうちょっと怒ってるよね。怒ってない? そうなのー? なんか「ふにぇっ」てなってるよ、眉。うん、なんか「ふにぇっ」て。鏡見る? えぇ、煽ってないよー! 稔くんがこだわるから。「ふにぇっ」に、ふふふ、こだわるから、ふふふふっ。

 先輩はよく笑った。一方で、ホラーについて一心不乱に語り倒すことは少なくなった。部活が終わると、「駅まで一緒に帰らない?」と誘ってくるようになった。帰り道、先輩は部室にいるときよりも大きな声で話した。周囲に人がいても構うことはなく、むしろ人がいるからこそ大声になっているようにも見えた。

 先輩は哀れだった。哀れで、無様で、そして必死だった。そんな先輩のことが、たまらなく愛おしかった。先輩は俺を必要としていて、俺もまた間違いなく先輩のことが必要で、俺が必要としている先輩と、俺を必要としている先輩はきっとイコールに違いなくて、だからこそ、こうして二人は今、楽園を謳歌しているんじゃないか。

 休日、俺は先輩と一緒に新作のホラー映画を観に行った。先輩の私服は控えめで、先輩自身の可愛さがより引き立っていた。先輩は俺に密着して歩いた。恥ずかしくなった俺が顔だけでも逸らそうとすると、先輩はひどく蠱惑的な目で俺を見上げた。映画を観終わった頃にはちょうど昼過ぎで、俺と先輩は館内のフードコートで昼食をとった。向かい合わせの席に座り、先輩は海鮮丼を、俺はとんかつ定食を頼んだ。出来上がりを知らせる機械が鳴るのを待つ間、先輩は机に肘をつき、両手で顔を支える姿勢で俺を見ていた。時折、上唇で下唇を噛む仕草が可愛かった。そのままわざと横を向いて、目だけを俺の方に向けたりもしていた。先輩は楽しそうだった。俺も楽しかった。円はきれいに完成し、何一つの不足も感じないはずだった。

「映画、どうでした?」

 俺が振らなければ、先輩は何も映画についての感想を言わないのではないかと思った。

「あ、うんすごくよかった。えっと、ここ数年のあの監督の作品は正直微妙だと思ってたんだけど、今回のはすごい観に来てよかったよ。出始めの頃のなんというか、じめっとした感じが戻ってたと思う」

 先輩は、それ以上の感想を言わなかった。俺は楽しかったから、とてもとても楽しかったはずだから、そのときだって努めて楽しいままであろうとした。

「……先輩って、基本批判的なこと言わないですけど、たまにぐさっと刺しますよね」

「えぇ? そんなきつい言い方になってた……?」

「んーまあ、普段あんま言わない分、たまに言うとびびるというか」

「そ、そっかあ……」

 先輩は口元を両手でおさえると、上目遣いに俺を見た。俺が視線を外すと、くすりと笑って手を離した。きっとしあわせだった。手元の機械が大声でとんかつ定食の完成を叫んだ。一瞬、自分の声かと思って、内心少し慌てた俺は馬鹿みたいだったと思う。




「……儂に何か用か」

「いや、用という用は特に。なんか話したかった」

「キモっ」

 ほぼ同じタイミングで、俺と青木は笑った。映画館を出て、駅で先輩と別れて帰宅すると、俺は一つの漠然とした決意を胸に、青木に電話をかけていた。

「なあ」

 ひとしきり笑った後、青木に尋ねる。声は多分、少しだけ震えていたと思う。

「どした?」

「……俺さ」

「んん?」

「……やっぱいいわ」

「何その逆に気になるやつ」

「いや、だって」

「話せよ、気持ち悪いから」

「えぇ……?」

「親友にも話せないような話題ですか~?」

 親友。青木のいつもより低く、どこか茶化したような声から転がり出たその四文字が、俺の心の中でバネのように跳ね回った。それがあまりにもやかましくて、俺はとうとう、喉の奥で詰まっていた言葉を吐き出した。

「俺さ、中学の頃、キモがられてたのかな」

 一瞬の間。思ったけれど、一瞬って何秒だろう。一秒? それともコンマ? 少なくともこの一瞬には、そんな場違いなことを考える余裕も空気が変わる余裕も十分にあった。

「……きゅ、急にどしたぁ?」

 笑い交じりの青木のリアクション。やんわりと含んだ拒絶。

 友達として許される話題の「外」に出たことを感じ、体が急激に委縮するのがわかった。

「いや、なんか」

「なんかで話す話題じゃなくね?」

 携帯の向こうの声のトーンは、微かに、しかし明らかに下がっていた。

「……すまん、答えて欲しい」

 もはや俺は、声の震えを隠せなかった。懇願にも似たその響きに何かを感じ取ったのか、青木は一呼吸置いて話し始めた。

「……まあお前、いつもスベってたからな。それなりに笑ってる奴らはいたよ」

 覚悟なんてできちゃいなかった。そんなわけないじゃん、なんて虫のいい言葉をこの期に及んで欲していた。

「……そっか」

 それでももう、後戻りはできなかった。

「滑稽だったろうな。気付かないのは当の俺だけで」

「まあ……仕方ないんじゃね? そういう役目があっただけでもお前、恵まれてた方じゃん」

 瘡蓋を剥がし、傷口を抉り出したのは俺の方だ。

「……そうだな」

 傷口に触れれば、きっと自分の本心がわかるから。

「そうそう。どこでもさ、いじられキャラって大事じゃん」

「……そうだよな」

「そうだよ」

 宥めるような青木の声は、友情の一つの形なのだろう。当然だ。俺たちは親友なのだから。

「……青木は、どうだったんだ?」

「……え」

「青木は、俺のこと笑ってた?」

「……それ、聞く?」

「……悪い」

 先程まで跳ね回っていたその四文字は、今やすっかりおとなしくなっていた。もはや青木の言葉に何の期待も持てない俺は、実は相当な薄情者なのかもしれないとぼんやり思った。

「……笑ってたよ」

「そっか」

「だってお前、キモかったんだもん」

「おう」

「俺だって、お前だけが友達じゃねえし」

「ああ」

「誰かいじめられてる奴がいてもさ、巻き添え食らいたくないから関わらない。それって普通だろ? 全体のバランス。安全な『枠』の中。中坊なんて、そんなこと考えて生きてくしかねえじゃんか」

「……だな」

「だろ? だから、仕方なかったんだよ。逆にそういうこと考えてなかったお前は、みんなから笑われた。キモがられた。当たり前のことじゃねえか。いじめられなかっただけマシだと思えよ」

「うん」

「そうそう。そんなこと、今更気にしたってしょうがねえよ」

 自らに言い聞かせるように、青木は言葉を続けた。対して俺は、相槌を打つことしかできないロボットと化していた。

「……なぁ稔、もうそろそろいいか? 飯温めてんだ」

「ああ、悪かったな。急に電話して」

 俺が青木と友達でいたければ、ここで通話を切るべきなのだろう。

「青木、最後に一つだけいいか?」

「……何?」

 ここで、通話を切るべきなのだろう。

「俺は、これからも俺のままでいた方がいいと思うか?」

 しばしの沈黙の後、ひときわ大きな溜息が聞こえ、ややあってどこか吐き捨てるような声が続いた。

「……お前、多分そういうとこだわ」

 この日から、青木とは疎遠になった。



 六月も後半に入り、文化祭が近づくと校内はにわかに活気づいた。俺のクラスでもアトラクションをやることに決まり、総合の時間や放課後になると皆、準備に余念がなかった。俺も輪投げの班に決まり、メンバーの女子たちは俺と一緒だとわかると一様に嫌悪の表情を浮かべたが、それでも特に波風も立たず、準備は順調に進んでいた。

 俺は、同じ班の鈴木すずきという男子とよく話すようになった。鈴木は普段はほとんど誰とも喋らず、クラスの隅で一人本を読んでいるような男だった。最初に話しかけてきたのは鈴木の方で、サランラップの芯にラッカースプレーを吹きかける作業をしているときだった。休日は何をして過ごすのかという鈴木からの問いに、俺は先輩に答えたときと同様、ゲームと答えた。フリーゲームはやるかと聞かれ少しはやると答えたところ、お互いのプレイしたゲームのラインナップが見事に被っていることがわかり、意気投合したのだった。

 昼休みは、俺の席で鈴木と一緒に食べるようになった。俺の前の席は女子だったが、鈴木はその椅子に座ることを恐れていなかった。鈴木には、俺はマリオの本名の話をしなかった。前日に見たテレビ番組のことなんて話さなかった。俺はどちらかというと、鈴木の話をよく聞いた。それでも話している内に、鈴木自身も聞き役というか、ツッコミの方に身を置きたがっているのがわかったので、俺も適度に話題を振るようになった。それでも俺は、やはりマリオの本名の話はしなかった。昼休みが終わって五時限目に入り、そんな自分を客観視する時間が訪れたとき、決まって浮かぶのは先輩の姿だった。先輩は俺の頭の中で、ひぐらしはホラーか否かを延々と語っていた。それは紛れもなく先輩で、どうしようもなく先輩ではなかった。

 俺は安堵していた。失望していた。苛立っていた。浮ついていた。恐れていた。有頂天だった。怒りさえ覚えていた。不安で仕方がなかった。先輩と映画を観に行った日、頑なに気づかないふりをし続けた感情が、青木との会話の中で凝固しかかっていた感情が、俺の中で奔流となって暴れていた。もう見て見ぬふりはできない。視界のきかない霧の中で、ただ触感だけがそこにあるように、俺は自分の想いを悟った。



「あ、稔くん!」

「先輩、こんちはっす」

 放課後。クラスでの準備が一段落したのを見計らって、俺は西棟三階の選択教室に向かった。あまりにもいつも通りの部室だった。先輩は一人でホラー漫画を読んでいて、俺の姿を見とめると、ぱっと笑顔になった。

「クラスの準備は大丈夫?」

「はい、抜け出してきました」

「ええー? それって大丈夫じゃないじゃん」

「嘘です」

「もー、稔くんてば……」

 あまりにも、いつも通りのやり取りだった。

「……いつ来ても、ここは変わらないっすね」

「ふふふ。文化祭でも、何も出し物やらないからねー」

 ホラー愛好会は、今年の文化祭では何も発表しないことになった。実質部員が二人しかいない上、二人ともクラスの出し物の準備で忙しく、またホラー愛好会として発表できるまとまったネタがないというのが主な理由だった。

「去年はやったんだけどね。『日本のホラー漫画の歴史』ってやつ。西棟の渡り廊下の壁にずらっと紙貼らせてもらってね、結構力入れたんだよ」

「今年は『ホラー映画の歴史』でいいんじゃないすか?」

「あはは。私、語れるぐらい知ってるのって漫画だけなんだよねー。もちろん映画も観るんだけどさ、漫画みたいにまんべんなく観てなくて。有名どころだけとか、この監督の映画だけとか、そういう偏った観方をしてきたから、全体として歴史を語れるほどのものがないんだよ。小説はもっと読まないしね」

 先輩の目は、どこか遠くを見ているようだった。だからいくら視線を追っても、その先にある何かは先輩の見ているものではないのだと思った。

「……じゃあ、先輩が好きな監督の映画だけまとめればいいんじゃないですか?」

 ちらりと、先輩を見る。俺の言葉を受けて、先輩が伏し目がちになるのがわかった。

「……えぇー? そしたらわからないって人も出てくるし……」

 先輩の言葉は、弱弱しく落下していく。

「来年入学する子とかにも、興味を持ってもらわないと……」

「別に、いいじゃないすか」

 落ちた先が、果たして先輩にとっての楽園なのか、俺は知らない。恐らく、先輩も知らないのではないかと思う。

「今までずっと、そんなこと関係なかったじゃないすか」

 それでも落ちていく先輩を、俺は受け止めたかった。棘だらけの手を伸ばして受け止めたかった。

「自分の好きなものを、誰にも遠慮しないで話すのが先輩だったじゃないすか」

「……あはは。そうだったね」

 棘が強く強く刺さって、これ以上落ちないように。皮を裂き、肉を抉り、絶対に忘れないように受け止めたかった。

「俺には遠慮しなかったのに、不特定多数に見せるとなったら、違うんですか?」

 俺は、本当に言いたいことが言えているのだろうか。

「そんなこと……」

「じゃあ、何かが変わったんですか?」

 俺は、こんなことが言いたかったのだろうか。

「どうしたの? 稔くん、なんか……」

「俺、クラスでキモいって言われているんです」

 進むべき方向がわかっても、霧が晴れなければいつかは迷う。

「……え?」

「中学のとき、俺はみんなの人気者でした。本当は、人気者だと思い込んでいただけだったんですけど。勘違いしたまま高校に入って、でも中学のようにいかなくて、何かがかみ合わない違和感がずっとありました。最近になってクラスメイトにキモいと言われて、やっと俺は全てに気づきました。自分の立ち位置も、中学の頃の勘違いも、全部」

 霧の中で、俺は必死に方向修正を試みる。

「先輩のこと、俺は自分と同類だと思ってました。はっきり思ったわけじゃなくて、なんかシンパシー感じるみたいな、そんな感じで。だから入部したんだと思います。失礼だとは思いませんでした。先輩が自分の好きなものを一方的に喋れば喋るほど、俺はなんだかほっとするというか、まだ自分は大丈夫というか、そんな気持ちになっていたように思います。もしかしたら、俺は先輩を同類でなく、下に見ていたのかもしれません」

 先輩の表情は、明らかに凍りついていた。それでも、俺は藻掻き続けた。いつ足場を踏み外すともわからぬ霧の中で、ただひたすらに走り続けた。

「でも先輩は、俺になっちゃんを奢ってくれました。俺が部室に来るなり泣き出したときも、優しく見守ってくれました。俺は嬉しかった。同じくらいに悔しかった。先輩と親しくなりたかったけど、先輩にはあくまで俺と同類で、そして対等であってほしかった。そんな欲望が叶えられたのは、先輩がいじめられ出してからでした。……ごめんなさい。俺、知ってるんです、そのこと。……先輩は俺にすり寄るようになった。俺と接することで自分は孤独ではないのだと、いじめられてはいないのだと、そして『枠』から外れてはいないのだと、自身に、そして周囲に宣言しているようでした。先輩は俺を必要としている。俺が先輩を救っている。そう実感できて初めて、俺は先輩と対等になれたと思ったんです」

 全てを吐き出し、さらけ出しても、俺に泣く資格なんてなかった。滲むことのない鮮明な視界は、先輩の頬を伝う一筋の涙をはっきりと捉えていた。

「俺は満足です。先輩も満足そうに見えます。……そんな俺が、そんな先輩が、俺は今、多分、きっと、……嫌いなんだと思います」

 俺は先輩から目を逸らさなかった。先輩の目を見て、はっきりと「嫌いだ」と言わなければ、全てが嘘になってしまうような気がした。それでもよい、と思ってもいた。一体俺は、何を言いたいんだろう。大好きな先輩を泣かせてまで、俺が言いたいことって何だろう。

「先輩には、いつだって自分の好きなものを、一片の疑いもなく相手も好きだと思い込んで、うざがられてるとか、キモがられてるとか、空気読むとかスクールカースト弁えるとかそういうこと一切気づかずに、たとえ気づいたとしてもそんなくだらないこと一切構わずに、ずっと、ずっと話していて欲しいんです。実際、先輩はそういう人だと思ってました。俺と同じような人だとは思っていませんでした」

 俺はどこかで、道しるべを求めていた。夜闇の中、ただ北極星の灯りを頼りに北へと向かう旅人のように、いつまでも煌々と輝く先輩を求めていた。たとえ俺が変わっても、先輩だけは変わらないという安心が欲しかった。それは単なる願望で、結局俺は、自らの願望で塗り固めた偶像の先輩を求めていただけだった。

「……そっか」

 絞り出すように、先輩が言った。俺を見つめるその目は、しかし決して俺を責めてはいなかった。つらかった。怒り、罵ってほしかった。そう思ってしまう俺は、最後まで先輩に甘えていたのかもしれない。

「……こんな先輩で、ごめんね」

 先輩は笑った。くしゃっと潰れたように顔が歪み、目元に大きな皺が寄る。紛れもなく先輩の顔だと思った。俺は先輩を踏みにじってしまった。その一事が、俺の中で波紋のように広がっていった。もう何を言い繕うこともできない。俺と先輩は下校のチャイムが鳴るまで、窓からの強すぎる夕陽に晒されながらその場に立ち尽くしていた。




 文化祭を待たずして、俺はホラー愛好会を辞めた。

 あの日から、先輩とは会っていない。入部届を出したとき以来会っていなかった白髪の顧問は、俺が退部届を出すとうんうんと頷き、一言「わかりました」と言っただけだった。待ちに待った文化祭はクラスの出し物で忙しく、あまり他所の催しを見に行くことはできなかった。昼過ぎの小一時間ほど、鈴木と一緒に飲食店を中心に巡った。目の前の非日常に、鈴木も俺も浮ついていた。お化け屋敷でぎゃあぎゃあと叫びまわる鈴木が可笑しかった。売れ残りを捌くために買わされたゴーヤ炒飯は結構うまかった。駄弁りながら校内を歩いていると、二年生の教室の並びに看板を掲げた男子生徒が立っていて、見ると「2E 甘味処」とあった。先輩のクラスだった。鈴木が興味を示したので、俺は自分に何かを言い聞かせながら教室に入った。ちょうど二人席があったので座った。室内を見回したが、先輩らしい人はいなかった。注文を確認しに来た女子生徒も先輩ではなかった。俺は少しほっとするのを感じて、鈴木と室内の装飾についての感想を語り合った。注文したクレープを食べ終え、会計を済ませて教室を出るときだった。ちょうど交代の生徒が急ぎ足で駆け込んできた。先輩だった。先輩は俺に気づかず、早口で「ごめんなさい」と言って教室に入った。後ろで「遅えよ」という声が聞こえた。先輩はまた「ごめんなさい」と言った。そのとき、もう一人分の「ごめんなさい」が重なった。振り返って見ると、先輩の他にもう一人、おとなしそうな女子生徒が先輩と一緒に交代の準備をしていた。タイミングを考えるに、先輩と一緒に文化祭を回っていたのかもしれないと思った。鈴木の催促する声が聞こえた。人の波がどっと押し寄せる。すぐに先輩は見えなくなった。

 二日間にわたった文化祭が終わり、生徒も、そして学校も、まるで何事もなかったかのように普段の生活のサイクルへと戻っていった。ある日の放課後、俺は駅前で鈴木と別れると、ふと思い立って図書館へと向かった。日は高く、歩いているだけで汗が噴き出した。タオルか何かを持ってくればよかった。並木道は、一人で歩くには道幅が広すぎる気がした。短いようで長いような道程を辿って図書館に着くと、やはり最初に目に入ったのは自販機だった。なっちゃんを買うかどうか迷ったが、水にした。四分の一ほど飲んでスクールバッグにしまうと、軽く深呼吸をしてから館内に入った。

 館内の冷房は、以前に来たときよりも強いように感じた。人はどちらかというと少なかった。脇目も振らずに歩く。俺が向かう先は決まっていた。一階西側の壁一面に展開された、文庫本の棚。作者名は確か、小野不由美。

「……あ」

 新潮文庫。屍鬼全五巻。棚にあったのは一巻と二巻だけで、三巻以降は借りられていた。咄嗟に天井を見上げる。堪えきれずに頬が濡れる。

 人目も憚らず、俺は嗚咽した。涙で思い出は流れないことはわかっていた。だから泣いたのかもしれない。中庭の噴水の音が、窓ガラス越しに聞こえていた。目を向けると、ちょうど数羽の鳥が飛び立っていった。




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楽園 桜実華弥 @oujitsu

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