楽園

桜実華弥

第1話

 全くの偶然だった。西棟三階の選択教室。ホラー愛好会の部室であるその場所は、俺が用のあった第二化学室の手前に位置していて、通りがかったときにようやく気づいたのだった。ちょうど廊下を進んだ突き当りだから、授業などがない限り生徒は滅多に訪れないのであろう。ひっそりと佇む教室は、無機物であるはずなのにどこか寂しげに見えた。

 まだひと月も経っていないはずなのに、あの日講堂で先輩方に紹介された部活動のラインナップは既に半数近く記憶から抜け落ちている。何しろ学校から認可を受けていない同好会、愛好会の類もあったから、とても憶えきれる量ではなかったのだ。俺の隣に座っていたクラスメイトも、興味のあるものだけメモして後は流し聞きだった。

 ホラー愛好会は、俺が憶えていた数少ない部活、もとい愛好会の一つだった。といっても、これ以外に憶えている愛好会はないのだが。確か漫画研究同好会があったっけ、などと記憶を手繰り寄せながら、やはり顔か、と俺は思った。

「……以上で、部の紹介を終わります。ホラー愛好会は、西棟三階の選択教室でやってます。えーっと、階段を上がって左の廊下を進んで、突き当りの手前です。突き当りは化学室なので、はい。間違えないでください。化学室、中学の頃は理科室、でしたけど。まあ、うちの高校のは特に怖くないです。中学の理科室とか、怖かった人、いますか? 私は怖かったです。人体模型とかあったんで、はい。ちなみにさっきお話しした古賀新一先生の漫画でも、よく出てくるんですよ、理科室。主人公が理科室に呼ばれる。室内には、動物のはく製とかがあったりして。展開上、理科室である意味が特にないときもあるんですけど、きっと雰囲気作りですよね。廊下で話すのと、理科室で話すのとどっちが怖いかって言ったら、やっぱり理科室でしょう。そうです。恐怖というものは、場所にも宿るんです。皆さんも……」

 確かこの辺りで、進行から話が長すぎると釘を刺されていた。講堂が笑いに包まれたのを憶えている。まだ話し足りないといった様子で引き下がる彼女は、やはり可愛かった。童顔で整った目鼻立ち。くりくりした目は、疑うことを知らない雛鳥を思わせた。他の部活の先輩方と比べても抜群の容姿だったから、俺は彼女が紹介した部を憶えていたのだろう。

 ちらりと、引き戸の小窓から部室内を覗く。カーテンが閉め切られているのか、えらく暗い。見たところ人はいないようだが、活動もしていない普段からカーテンが閉まっているとも思えない。

「入部ですか?」

 すぐ後ろで声がした。反射的に振り向いた。右手を胸の前で遊ばせた、ひどく格好のつかない姿勢で俺は固まった。

「……あ」

「ホラー愛好会に、入部ですか?」

 俺を逃すまいと打たれた杭のような、そんな視線だった。講堂で遠目から見たときより、その目は大きく見える。嵌め込まれた瞳はきれいに澄んでいて、もう少し近づけば、きっと俺が映り込んでいるのも見えるだろうと思った。

「いや……えっと」

 俺が曖昧な否定を返すと、彼女は刺していた杭を抜いた。自由になった左右の目で、反射的に彼女を舐めまわすように見る。ぽってりとした唇。大きめの胸。軽く内に巻かれたミディアムヘアは、きれいなたまご型の輪郭を包んでいる。学校指定ぴったりの丈のスカート、そこから伸びる細く白い脚。ぐんと解像度の上がった視界で、俺の中の彼女がアップデートされていく……。

「そうですか。じゃあ、通らせてもらえますか。今からドラマを観るので」

「あ、すいません」

 すれ違いざま、ふんわりと甘い匂いが香る。引き戸を開けて部室に入っていく彼女は、もはや俺のことなんて見てはいなかった。

 からからからからから。

 振り向くこともなく後ろ手に、彼女は戸を閉めていく。

「ドラマって?」

 気づけば、声を発していた。

「……え?」

「ドラマ……ってなんですか」

 もう後には引けない手前、自然と声のボリュームが上がる。彼女が、ゆっくりと俺に振り向いた。また、目と目が合った。

 あ、と思わず声が漏れた。

「『ザ・スタンド』。九四年版です」

 その瞳に俺を宿して、彼女は初めて笑った。目の下にできる皺が意外と太くて、真顔とのギャップが大きかった。




「でさ、その人に俺、聞いたのよ。マリオの本名。そしたらミスター何とかって、そんなこと言ってきたからさ、俺それはないだろって! それはないだろって、思ったわけ。だってどう見てもさマリオってさ、イタリアとかフランスとか、そっち系なわけじゃん。血。だからもっと他にあるだろって、そう言ったわけですよ。そしたら二階堂にかいどうさん、あ、その人二階堂さんっていうんだけど、んなもん事実なんだから仕方ない、じゃあウィキで調べてみろって、そんなこと言うからさ、俺調べてみたらやっぱ違うっていう」

 まだ口の中に唐揚げの残骸を残しながら、俺は爆笑した。中学の頃から擦り続けている話だが、まあウケないことはないので使い倒していた。ただ今回は、まだ知り合って一か月ちょっとということもあってか、反応は今一つだった。

 昼休み、いつもの狭すぎるベランダ。入学以来、席が近いのもあって度々この四人で集まる。と言っても俺は社交的だから、同じ面子にこだわらずに普段は方々に話しかけに行っている。せっかくの高校生活、友達は多いに越したことはない。

「……その後、部活はどうすか」

 左隣の宮本みやもとが、いつもの低いテンションで話しかけてきた。ひび割れた床をカリカリと引っ搔いていて、お前ベランダ崩れたらどうするんだよ、と突っ込んでやろうかとも思ったが、今は質問に答えることにした。

「んーまあ楽しくないわけじゃないんだけどぉ。やっぱ先輩がさ、その、言ってること全然わかんないからさ。ホラーとか俺、興味ないし。ひぐらしは見てますっつったらさ、そもそもひぐらしをホラーと呼ぶのか、とかそんなことで延々、ほんと延々喋り続けるわけ。だからだと思う、俺以外部員いないの。まあ幽霊部員はいるらしいけど。でもやっぱ可愛いんだよなー先輩。マジで可愛い」

 ホラー愛好会に入部したのは三日前だった。あの日、部室前で先輩に声をかけられた、その翌日には俺は入部届を顧問の教師に提出していた。もうとっくに定年を迎えていそうな白髪の爺さんで、俺が入部届を手渡すと、「個性的な子だからね、まあ悪い子じゃないんだけどね」とやけに高い声で話した。恐らく先輩のことを言っているのだろうと思った。

「目がこう、くりくりっとしててさ。俺それ、部活説明会のときから思ってたの。やばくね? 俺ら結構後ろだったじゃん。でも見てたから。いや変態じゃない。変態じゃないんですよ。運命? わかんないけど。いやキモいとかなしで。キモいとかなしだから!」

 チャイムが鳴るのと、宮本が立ち上がるのが同時だった。俺は右隣の遠藤えんどう森田もりたに、「もうそんな時間?」と慌てて尋ねた。遠藤は「早いな」と言って立ち上がり、森田もそれに倣う。まだ玉子焼きが残っているが仕方ない。というかご飯も残っている。俺は弁当箱をしまうと、三人の後に続いて教室に入った。



 日曜遊ばないかという青木あおきからのメッセージに、俺は了承と返した。携帯をしまうと、西棟への渡り廊下を進む。青木は俺の中学時代の友人で、別々の高校に進んでからもちょくちょく会っては遊んでいる。まあ、親友と言って差し支えない奴だろう。

 三階へと続く階段を上りながら、中学時代のことを考えた。友人は多かったが、連絡先を知っているのは青木を含めても限られる。だから俺は、みんなが今どこで何をしているのか、ほとんど知らない。

 思えば俺は、友人の進路に興味がなかった。自分の進路でいっぱいいっぱいだったというのもあるが、何より他人の選んだ道を一々詮索する気になどなれなかった。進学したければすればいいし、働きたければ働けばいい。偏差値ぎりぎりの高校を選んで苦労したければそれでいいし、余裕で受かる高校を選んで遊び倒すのもいいと思う。友人だろうと何だろうと、各々の取る選択は自由なはずだ。そこに踏み込みたくはなかった。

 そんなことを考えていたら、部室の前だった。戸の引手に手をかけ、がらがらと開ける。既にカーテンが閉め切られた室内は暗く、ちょうど中央の机に設えられたプロジェクターは、黒板手前に垂らされたスクリーンに昨日と同じく「ザ・スタンド」の九四年版を映し出していた。多分昨日の続きだとは思うのだが、既に見始めてしばらく経っているようで俺にはシーンが繋がらなかった。

「あ、こんにちはみのるくん。ごめん、もう見ちゃってた。今戻すね」

 窓際の席に座っていた先輩は、そう早口で言ってリモコンをいじり始めた。スクリーンに映る映像が、しゃかしゃかと巻き戻されていく。別にいいですよ、と言おうとしたが、ホラーに興味のないことがばれると思ったのでやめた。

 プロジェクターの二つ後ろの席に、俺は腰かけた。やはり先輩の隣はためらわれた。長浜ながはまだったら座れるのかな、なんて思ったりした。長浜というのは青木と同じく俺の中学時代の友人で、俺の記憶している限り三回は彼女が変わっていた。

 巻き戻しが終わったらしく、ドラマの再生が始まる。今度は、シーンが繋がった。悪役がバイクで走っている、そんなシーンだった。

 暗い教室の中、俺と先輩は何も言わずドラマを観ていた。鑑賞中は喋らない、それが先輩のルールのようだった。入部して三日も経つのに、俺は先輩の声よりもドラマの主人公の声の方に聞き馴染みを覚えていた。名前はちゃんと覚えた。先輩の名前は、河合春奈かわいはるなという。

 ちらりと、先輩の方を見た。先輩はドラマに夢中で、俺の視線には気づいていないようだった。先輩はじっとしているのが苦手なのか、ゆっくりと体を前後に揺らしながらドラマを観ている。セーラー服にできた皺が、大きな胸の形に合わせてゆっくりと変わっていった。Dカップくらいかな、などと考えた。前にどこかのサイトで、男の想像するカップ数と現実のカップ数は大きさが違うと書いてあったのを思い出して、となるとEとかなのかな、なんて思ったりもした。

「……どうして、窓際に」

「え?」

 しまったと思った。先輩を見ていたら、つい口が開いた。俺は先輩のルールを破ってしまった。不機嫌になるかと思ったが意外にも、先輩はきょとんとした顔で固まっていた。

「どうして窓際の席なんですか? 見づらくないですか?」

 先輩が怒っていないことに安堵した俺は、言葉を続けた。先輩はリモコンを操作してドラマを一時停止させると、顎に手を当てて考える素振りを見せた。

「……子供の頃に、『オズの魔法使』が好きで毎日のように観ていたの。でも、一か所だけすごく怖いシーンがあって。魔女のお婆さんが、テレビの向こうのこっちを見てにやにやと笑うの。すごく怖くて、私いつもそのシーンになるとテレビの端に寄っておっかなびっくり観てた。それでもね、駄目なの。お婆さんの視線は変わらず私に注がれていて、私は結局逃れることはできなかった。それ以来かな、私が映画を観るときに、できるだけ画面端で観るようになったのは。怖いからじゃないの。もう一度、同じことが起きないかって期待しているの」

 首だけを俺の方に向けると、先輩は笑った。やはり、普段の先輩の顔とはギャップがあった。

「わかってるよ。あれは魔法なんかじゃない。多分テレビのレンズとか、画角がどうとか、そういうことが関係してるんだよね。詳しくないけど。映画の中の人に意思があってとか、そんなことじゃないんだよね。でも私が端っこで待っていたら、いつか応えてくれるんじゃないかって思うの。今度は見つめるだけじゃない、自分に話しかけてきてくれて、映画の中に連れて行ってくれるんじゃないかって。きっとそう思うこと自体が、楽しかったりするんだよね」

「先輩は、ホラー映画の中に入りたいんですか?」

 俺が尋ねると、先輩は真剣な顔で宙を睨んだ。目の下の太い皺は消えていた。

「入りたい作品と入りたくない作品がある。怖い怖くないとか、面白いつまらないに関係なく、入りたい入りたくないがある」

 そうなんすか、と言ったきり俺が黙ったのを見てか、先輩はドラマの視聴を再開した。その体が再び前後に揺れ始めるのを見て、メトロノームみたいだなと俺は思った。




 青木との日曜日は、全くもって今まで通りだった。俺の家に青木が来て、駄弁って、いつものゲーム。青木が持ってきたソフトを青木がプレイして、俺は突っ込みながら見ている。その平常運行が、まあそれなりに楽しいのだ。

 中学時代、俺の家は学年の男子が一度は遊びに来たことのある場所だった。それなりにリビングが広いため、一度に六、七人が遊びに来てカードゲームの大会を開いたこともあった。そんな俺の交友関係の広さが、親は自慢のようだった。俺自身も、本当に友人に恵まれたと思っている。特に中三の頃は、毎週月曜日が楽しみだった。

「……そうだね。確か『永遠の月曜日』が、私が初めて読んだ井口かのん先生の作品だった。他の作家さんとのアンソロジーの中に入っていたのかな? その中でもかなり異色というか、珍しいジャンルだったのは憶えてる。多分九〇年代のあの当時って、ホラー漫画はスプラッターが主流だったように思うのね。その中での『永遠の月曜日』だからさ。きっとリアルタイムで読めたらもっと衝撃だったんだろうな。その後他の短編目当てで井口先生のコミックスを買ったとき、裏表紙に『サイコロジカル・ホラー』って書いてあってさ、最初は何じゃそりゃって思ったんだけど、後から考えると言い得て妙というか、やっぱり当時のトレンドじゃなく、違ったところを突いてきたんだ! っていうのは言っておきたかったんだろうなって」

 放課後。西棟三階の選択教室。先輩の話を聞きながら、ちょうど今日が月曜日か、なんて俺は思い返していた。

 今日の部活は映画ではなく、先輩が自宅から持ってきたホラー漫画を鑑賞する時間だった。わりかし最近の漫画もあれば、俺や先輩が生まれてもいない頃のものもあった。

「もちろんそういうキャッチコピーみたいなものって、作家さん本人が書くものじゃないんだろうけどね。でも私は、裏表紙に書いてあるあらすじとか、結構読む方だからさ。そこに一言『ホラー』って書いてあったら、安心して買える、みたいなとこあるじゃない? 逆に『サスペンス』だったら買うか迷う、とかも。私気にするんだよね、そういうの。稔くんもそうじゃない?」

 先輩の話をほとんど聞き流していた俺は、動揺してすぐに言葉が出てこなかった。それでも先輩が俺に話を振るなんて今まで滅多になかったからか、申し訳なくなった俺は正直に聞いていませんでしたと口にした。先輩は怒らなかった。

「稔くんが唯名論者かどうかって話。……あれ、この場合って実在論だっけ。わかんなくなっちゃった」

 先輩は困ったように笑うと舌を出した。ピンクというには少し濃くて、ぬらぬらとてかっていた。俺は股間が勃起していくのを感じ、前傾姿勢を強めた。

 急に、先輩は月曜日が楽しみなのだろうかと思った。普段クラスメイトと話すときも、先輩はこんな感じなのだろうかと思った。自分の話したいことを話せて満足ならば、この先俺は誰よりも先輩を満足させられるのではないだろうかと思った。この世界には俺と先輩しかいなくて、先輩が話して俺が聞く、そんな授受の関係が成立していて、きれいな円形のように完結している、そんなことを考えている俺は、多分月曜日が楽しみじゃない。



細谷ほそや、パース」

 遠藤はそう言うと、俺にボールを投げた。半笑いだった。表情に気を取られた俺は、ボールをキャッチし損ねて落とした。慌てて追いかける。体育館脇まで走った。やはり、ドッジボールは苦手だ。

 四時限目の体育だった。雨の日はドッジボールになるという方程式が、まさか高校でも通用するとは思わなかった。時間が遊べばドッジボールという慣習は、いつの時代のどの学校で生まれたものなのだろうか。確か中学では、学期末の学活もほとんどがドッジボールだった。

 ボールを取って戻ると、増えていた。遠藤だけではない、森田も長谷部はせべ勝浦かつうらも、皆半笑いで俺を見ていた。左右どちらかの口角と目尻を釣り上げた、そんな笑い。俺は、少しボールを拾うのに手間取り過ぎたかなと思った。

「悪い悪い! こっから俺、覚醒すっから! しちゃうよ覚醒!」

 覚醒、と長谷部が追従して少し笑った。ウケたようで、俺は嬉しくなった。体育館中央に垂らされたネットの向こうで休憩していた女子が、何か言った。それは聞き取れなかった。俺が勇んで投げたボールは、狙いのクラスメイトのかなり手前でバウンドしてキャッチされた。今度はどっと笑いが起きた。

「細谷ああー!」

 顔を手で覆う仕草をして、勝浦が叫んだ。再びの笑い声。俺は正直むっとしたが、ウケた嬉しさの方が勝った。その後、俺にパスが回ることは一度もなかった。




「今日は図書館に行きます」と先輩が言ったので、俺は先輩に付いて駅の反対側、市立図書館へと続く並木道を歩いている。

「どうしても借りたい本があって。『屍鬼』っていうんだけど、稔くん知ってる?」

 俺が知らないですと返すと、漫画化、アニメ化もされたんだけど、と先輩が言うので、いつのアニメですかと聞いたら、十五年前だった。

「私もねー最初に読んだのは漫画版なの。次にアニメを観た。私活字が苦手でさー。ホラーが好きだって言っといて、観るのはほとんど画像、映像媒体なのね。この前観た『シャイニング』もさ、あれ映画版が好きかドラマ版が好きかって話したけど、そもそも映画ドラマ以前に原作の小説があるわけなんだよね。でも全然読んでなくって。ちなみに前にも言ったっけ、ドラマ版の監督、ミック・ギャリス監督っていって私の大好きな監督なんだけど、その人小説家としても活動されていてね。これも気になってはいるんだけど、あいにく日本語訳が出ていないみたいなんだ」

 先輩は話すことに夢中なのか、ふらふらと歩いた。並木道の道幅はそれなりに広いし、道路側は常に俺が歩くようにはしていたが、それでも俺は何度も振り返っては安全を確かめた。そのせいか、やはり先輩の話が耳に入ってこない瞬間があった。気づけば別の小説に変わっていたり、聞いたことのない人名が出てきていたりした。電車の窓を流れる景色、ふとそんな比喩が浮かんだが、それならば終点は一体どこにあるのだろう? 既に新緑となったこの延々と続く桜並木のように、先輩の話はまるで途切れることを知らない。

 俺は、先輩にいつまでも話していてほしかった。先輩には、自分の好きなものに自信を持ってほしかった。自分の好きなものが他人も好きであるということに一片の疑いも抱かないでほしかった。何故そう思うのかはわからなかった。

 着いたよと先輩が言うので、俺は視線を先輩から右手にそびえる建物に移した。俺の地元の図書館よりも大きく見えた。道路に面した一階部分の壁は一面ガラス張りになっていて、ソファに腰掛けて新聞を読む男性が何人か見えた。

「入る前に、何か買ってこっか。喉渇いちゃって」

 先輩が指さす先に、自販機が二台並んでいた。俺はさほど渇いてはいなかったが、話通しだった先輩は別だろう。初夏の日中ということもあり、じりじりと照らす日差しに体温も上がっている。喉が渇いていなくてもこまめな水分補給が必要だと、昨日もニュースでやっていた。

「稔くんは、何飲む?」

 先輩はスクールバッグから財布を取り出すと、俺に尋ねた。先輩が奢るつもりなのだと思った俺は、

「俺も財布持ってますし、自分で買いますよ」

 と答えた。答えた後で、ただ何を飲むか聞かれただけだと気づき、急に恥ずかしくなった。そんな俺を見て、先輩は笑ったようだった。

「今日は私のわがままで連れてきちゃったんだし、私が払うよ」

 先輩が元からそのつもりだったのか、それとも俺の勘違いに合わせてくれたのかはわからなかった。耳の辺りがやけに熱かった。俯きながら先輩の後を追い、自販機の前まで来たところで、改めて何が飲みたいかを聞かれた。ラインナップを確認するために顔を上げると、先輩と目が合った。慌てて視線を外す。今度は確かに、先輩が笑った。

「……水、で」

「え? なあに?」

「水……で、お願いします」

「水でいいの?」

「……はい」

「わかった。じゃあ私はなっちゃん」

「え」

 途端に、先輩が噴き出した。え、って何、と繰り返しながら先輩は、自販機に小銭を入れていった。俺はまた俯いた。見知らぬ中学校のステッカーが貼られた自転車が、自販機のそばまで停めてあって邪魔だった。ガシャンという音が間隔を置いて二回、少しして俺に振り返った先輩が抱えていたのは、二本のなっちゃんだった。



 自動ドアから外に出る直前、ちょうど閉館時刻を告げるアナウンスが館内に流れた。もうそんな時間なのかと思うと同時に、ドアが開いてむわっとした熱気が体を包む。暑、と先輩が呟いた。それが誰に向けられた言葉でもないことを理解しながら、そうですねと俺は返した。

 一時間弱はいたことになるのだろうか。その間に、俺と先輩の体はすっかり冷房に慣らされてしまったようだった。活字が苦手だと言っていた先輩は、それでもホラーを目の前にすると我慢できなかったようで、逡巡の末、目当ての「屍鬼」の他に三冊のホラー小説を借りていた。俺も市内の学校に通っているということで貸出カードを作ってもらい、先輩おすすめのホラー小説を二冊借りた。「玩具修理者」と「人獣細工」。どちらも同じ作家によるもので、先輩曰く、短いから読みやすいとのこと。漫画化もされているらしかった。

「小林泰三先生の作品はね、とにかく映像が浮かぶの。といっても私この二作しか読んだことないし、だから正直偉そうなことは言えないんだけど、ああ今こういう状況なんだろうな、主人公がいるところはこんな場所で、そこはこんな色でこんな動きで、っていうことがすぐに浮かぶの。だから小説を読んだ後に漫画版を読むと、このシーン自分の思ってたのと同じだとか、逆に全然違うとか、そういうことがあって面白いんだよ。稔くんも読み終わったら言ってね。漫画版持ってきてあげるから」

 基本的に私語が厳禁の図書館は、先輩にとっては苦しい場所だったに違いない。外に出るなり堰を切ったように話し始める先輩を見て、俺はそう思った。

「漫画版を担当しているのはMEIMU先生っていってね、他にも映画の『リング』シリーズや『呪怨2』のコミカライズもされている人なんだ。そういえば『リング』も私、原作ちゃんと読んでたなあ、珍しく。あれはね、すごかった。ほら、ビデオのシーン、あるでしょ? 映画でもあったやつ。もちろん原作でもあるんだけどね、ビデオ。そこのシーンがね、すごいの。本当にそんなビデオが存在するんじゃないかってくらい、一つ一つの描写が明確で、緻密なの。映画とは結構内容が違うんだけど、それは多分、文章であるはずの原作が既に映像としての答えを出してしまったからじゃないかなって、私思ってるんだよね」

 頬を紅潮させながら話す先輩の口から、唾が一滴飛んだ。俺は少し興奮したが、先輩が特に気にしていなかったようなのでそれに倣った。ふりをした。

 帰りの並木道は、夕陽を受けた木の一本一本が影を落として、まるで果てしなく続く横断歩道を思わせた。その影に触れるたびに俺と先輩はくすみ、影から出るたびに輝いた。だからといって、そこに何か意味を見出すようなことはなかった。くすんだ先輩も、輝いた先輩も等価だと思った。

 先輩は話し続けた。まるで世界を書き換えているようだった。すれ違う、犬を散歩させた老婆やジョギング中の青年さえも、出来上がった新世界の住人だった。先輩は王であり、神だった。なっちゃんを奢ってくれた先輩が、今目の前にいる先輩と重ならなかった。俺はもしかしたら、もう一度先輩になっちゃんを奢ってほしいのかもしれなかった。

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