第36話 新月の夜
空には月がない。
星も、雲に隠されていた。
新月の闇は、音さえも飲み込むように深く、静かだった。
王宮の一角
――誰も近づかぬ塔のてっぺんに、陽菜と術師はいた。
空気は重く張り詰めている。
「……本当に、やるのですね?」
術師の声はかすかに震えていた。
フードの奥に覗くその目には、迷いと、恐れと、少しの怒りが混ざっている。
「ええ、お願い。
アナタにしかできないのよ。」
陽菜は静かに頷いた。その瞳は冷たく、執念の色を帯びている。
「どうしてそこまで……。
命を代償にする術です。
わたしの精神も……
魔力も、消耗する。
制御を失えば、どうなるか――」
「分かっています。でも、それでもいいの。」
陽菜は術師に歩み寄り、そっと囁く。
「彼が、わたくしを見てくれないの。……あの子さえいなくなれば、すべて元に戻るのに」
「彼女が……そこまで脅威なのですか?」
「脅威なんかじゃない。
……邪魔なの。
彼を惑わせる“存在”でしかない。
だから、消えてもらうの。
ねぇ……お願い
アナタだけが頼りなの。」
術師は一瞬、目を閉じた。
その胸には、主として仕える者への忠誠と、術者としての理性が激しく衝突していた。
「……新月の夜は、もっとも魔力が澱む。術の暴走も、起こりやすい。」
「ええ…運命が隠れる闇のなかで、すべてを終わらせるのよ。」
「……分かりました。ですが、もしわたしの意思が失われたときは、わたしを止めてくれる者など……いない。」
「そんなこと、起こらないわ。だって、あなたはわたくしの味方でしょう?」
陽菜は微笑んだ
――その笑みに、温かさはなかった。
術師は、静かにうなずいた。
そして、魔法陣の描かれた床に手をかざす。
「では、新月の夜。全ての命脈が静まるときに――“奪う術”を、開始する…」
その言葉とともに、空気がぞわりと波打つ。
沈黙と闇のなか、運命はゆっくりと狂い始めていた――。
――――――――――
その夜は、不思議なほど静かだった。
虫の声も、風の音もない。
いつもなら感じる夜の気配が、
まるですべて遮断されているような
――そんな、不自然な静けさ。
紬はベッドに横になっていたが、眠れずにいた。
胸の奥がざわざわと落ち着かず、何かが迫ってきているような感覚に包まれていた。
(……なに、これ……)
身体は冷えていないのに、首筋にひやりとした感覚が走る。
まるで…見えない何かがそっと背後から触れてくるような
――そんな嫌な感覚。
ベッドの脇に置いたミサンガの入った小箱を、思わず抱きしめるように両手で包む。
そのとき。
「……っ」
胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
熱いわけでも冷たいわけでもない、ただただ苦しい痛み。
(……誰かが、泣いてる?)
言葉にならない想いが、どこか遠くから流れ込んでくるような感覚。
それは…
怒りと
悲しみと
諦めと
――絶望の混じったものだった。
紬はふらりと立ち上がり、窓の方へ向かう。
外は月のない闇に覆われていたが、どこか、塔の上から薄い光が揺らめいているのが見えた。
(あの塔……)
何かが起きている。
それだけは、確信できた。
その瞬間――
小箱の中のミサンガが、わずかに光を帯びた。
それは、紬が無意識に込めた癒しの力が、何かを感じ取り、共鳴した証だった。
(行かなきゃ……!)
声は出せなくても、胸のなかに確かに芽生えた衝動。
誰かが助けを求めてる
――その想いに突き動かされるように、紬は部屋を飛び出した。
――――――――――
静まり返った城内――
人の気配もまばらな廊下を、小さな足音が駆け抜けていく。
紬はただ、胸の奥のざわめきに突き動かされるままに、塔の方向へと歩を進めていた。
まるで導かれるように、迷いなく。
そんな彼女の姿を、たまたま巡回中だったヴァルトが見逃すはずがなかった。
「……紬さま?」
その小さな背中を認めた瞬間、ヴァルトの眉がぴくりと動く。
こんな時間に
こんな場所で
しかも一人で
――ただならぬ気配に、彼は咄嗟に声をかける。
「紬さま、どこへ――!」
しかし、紬は立ち止まることなく、そのまま塔の方向へと進んでいく。
背中には、いつもの穏やかさではなく、何かに抗うような強い意志が宿っていた。
(……何かが、起きている)
ヴァルトは即座に判断し、紬を尾行する形で距離を取りながらも、別の方向へと足を向ける。
――レニオス殿下を呼ばねば。
その思考は、迷いのないものだった。
数分後。
ヴァルトは、勢いよく扉を開けると執務室に飛び込んだ。
「レニオス様!紬さまが――塔へ向かわれています!」
「……!?」
レニオスは驚きに目を見開いたが、すぐに立ち上がる。
「理由は?」
「分かりません。ですが、ただならぬ様子でした。まるで、何かに引き寄せられるように……」
一瞬の沈黙のあと、レニオスは短く息を吸い、剣に手をかけながら言った。
「……分かった。すぐに向かう!」
「はっ!」
夜の闇を切り裂くように、二人の足音が塔へと向かって走り出す――。
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