第31話 外出
扉の外に立っていたリサは、紬の気配に気づくとすぐに振り向いた。
「どうかされましたか?紬さま。なにか欲しいものでも?」
紬は、こくんと小さくうなずいた。
それから、紙と鉛筆を取り出し、少しだけ時間をかけてゆっくりと書き記した。
『刺繍糸を買いたいです』
それを見たリサは目を丸くし
――すぐにやさしく微笑んだ。
「なるほど。なにか作るのですね?」
紬は、ぱっと目を輝かせてうなずいた。
「かしこまりました。じゃあ、明日の午後にちょっとだけ街へ出かけましょう。わたしも一緒に行きますので、安心してください。」
紬は胸の前で手を合わせ、感謝を示す。
「ふふ、そんなに丁寧にしなくて大丈夫ですよ。」
リサは微笑みながら、準備に向かっていった。
(自分にできることが、見つかった――)
そんな気がして、紬の心の奥に、ほんの少しだけあたたかい光が差し込んでいた。
――――――――――
「お忙しいところすみません、レニオス様。」
リサは執務室の扉をノックし、静かに入室した。机の前には、難しい顔で書類を見つめるレニオスの姿。
「……何かあったのか?」
「いえ、ただ、紬さまを街へ連れ出してもいいか、お伺いを…」
レニオスはぴたりと手を止めた。
「街へ? 何のために?」
「ちょっとした買い物です。刺繍糸が欲しいそうで――」
「いや、危険だ。城の外に出る必要はないだろう。私が戻ったときにでも代わりに……」
「それじゃ意味がないんですってば!」
リサの口調が、珍しく少し強くなる。
「自分の手で選んで、自分の足で歩く。それが、今の紬さまには大事なんです。ずっと落ち込んでいたんですから。」
レニオスは視線を逸らし、唇を少し噛んだ。
「……だとしても、今は危険が多い。あの毒の一件だって――」
「じゃあレニオス様は、一生紬さまを部屋に閉じ込めるおつもりですか?」
レニオスが驚いてリサを見る。
「紬さまを大切に思っているのはわかります。でも、その『大切』が、彼女の世界を狭めてるって気づいてください。」
沈黙。
やがて、レニオスは大きく息を吐いて、机の上の許可証に印を押した。
「……必ず、ヴァルトを同行させろ。あと、私が戻る前には城に戻っているように」
「了解いたしました!」
リサは、くすっと笑いながら部屋を後にした。
――――――――――
街の広場は、昼を過ぎても賑わいが収まらず、店先の呼び声や人々の笑い声が響いていた。
その喧騒のなか、リサが目を離した一瞬の隙に、紬はふと目についた刺繍糸の露店に引き寄せられていた。
カラフルな糸に目を奪われていた紬だったが、周囲の景色が見慣れないものになっていることに気づく。
どこでどう曲がったのか、見覚えのない細い路地。人の姿もなく、辺りはしんと静まりかえっていた。
不安にかられながらも、紬がきょろきょろと周囲を見回していると――。
「…迷子か?」
低く、どこか乾いた声が背後から響いた。
振り返ると、そこにいたのは黒いローブをまとった人物。顔は深くフードに隠れていて見えない。
それでもどこか、紬はその人物に恐怖を感じなかった。ただ、直感的に“普通ではない”と感じた。
紬は丁寧に礼をした。声は出せないけれど、仕草に込めた誠意は伝わるはずだと信じて。
「……声が、出ないのか?」
男はポツリと呟き、少しの間だけ紬をじっと見つめた。
その目の奥に、ぞくりとするような光を宿して。
「世界は、何かを奪うことで均衡を保っている……。不思議なことじゃないだろう?」
意味深なその言葉に、紬はきょとんとした表情を浮かべる。
「だが、奪われたものを返される日が来るかもしれない。…あるいは、その代償を誰かに背負わせたとき、な」
ローブの男はそう言い残すと、ふいに踵を返し、細い路地の奥へと消えていった。
直後――
「紬さま!!」
焦った声とともに、ヴァルトが駆け寄ってくる。
安堵の色を顔に浮かべながら、紬の両肩を掴み、胸をなでおろす。
「はぐれたら困ります…本当に。リサ殿が探し回っておられますよ。」
紬は小さくうなずき、ヴァルトのあとを静かに歩き出す。
その背後、魔術師の姿はもうどこにもなかった。
ヴァルトに連れられ、広場へと戻る紬。
陽が傾き始めた街角には
まだ人の賑わいがあった――
「紬さまーっ!!」
その声に紬は思わず顔を上げた。
走り寄ってくるのは、息を切らしたリサだった。両手を広げるようにして駆け寄り、紬の姿を確認した瞬間、膝に手をついて深く深呼吸する。
「どこに行ってたんですか…! 心臓が止まるかと思いましたよ…!」
半ば泣きそうな顔で怒るリサに、紬は申し訳なさそうに視線を伏せ、小さく首をすくめる。
「落ち着いてください。怪我もなく無事に見つかりましたから。」
ヴァルトがなだめるように声をかけるが、リサはぷいっとそっぽを向く。
「そういう問題じゃありません! 見失ったのはわたしですけど…でも…でも……っ」
リサは唇を噛みしめ、もう一度、紬の顔をじっと見つめる。
「本当に……無事でよかったです……。」
ぽつりと漏らしたその言葉には、怒りでも責任感でもなく、心からの安堵が滲んでいた。
紬はそっとリサの手を取ると、笑みを浮かべてうなずく。その小さな仕草に、リサの目が少し潤んだ。
「はぁ……今後は絶対に、絶対に目を離しませんからね。お買い物だって、トイレだって、ずっと一緒ですから!」
「それはさすがに…」
ヴァルトが思わず笑いを漏らすと、リサは顔を赤くしながら彼を睨みつけた。
「ヴァルトさんだって、もうちょっと早く見つけてくれたらよかったんですよ!」
「ははは……。」
そんな軽口の応酬に、紬もふふっと笑を浮かべ、三人は連れ立って再び城へと向かって歩き出す。
けれど、紬の心の奥では、先ほどの“謎の魔術師”の言葉が微かに残り、薄く影を落としていた――。
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