第27話 事件



王宮の昼下がり。


香ばしい甘い香りが、執務室までふわりと漂っていた。


「……いい匂いだな。」


王宮の大きな厨房の片隅。リサに手伝ってもらいながら、紬は不器用ながらも一生懸命、クッキーの形を整えていた。


オーブンの前では、先に焼きあがった数枚が冷まされていて、ハートや星の形に抜かれたクッキーが並んでいる。


(レニオス様に渡したい……あの日、助けてくれたお礼に)


紬は、ほんのり頬を染めながら、最後の一枚に模様を描く。言葉がなくても、思いが伝わるように。


傍らではリサが見守りながら、焼き上がったクッキーをそっと袋に詰めていく。


「リボンも、可愛らしく結んでおきますね。」


(……ありがとう)


紬は口がきけない代わりに、リサの言葉に小さく頷きながら微笑んだ。


やがて、レニオスとヴァルトが厨房を訪れた。


「この香り……紬が作ったのか?」


驚きと喜びを含んだ声に、紬は嬉しそうに頷く。


レニオスは彼女の前まで歩み寄ると、そっと袋を受け取った。


「ありがとう。嬉しいよ……これは、俺とヴァルトに?」


ヴァルトも珍しく目を細め、「ありがたく頂戴します」と丁寧に頭を下げた。


すると、紬はそっと箱の中に残ったもう一つの小さな包みを指さす。


その包みには、ヒナリアの名前が小さく記されていた。


(……あの人にも。命を救ってくれた、お礼として)


リサがそっと説明すると、レニオスは少しだけ驚いたように目を見開き、やがて小さく頷いた。


「……わかった。一緒に届けに行こう」


――――――――――


陽の傾き始めた午後。王宮の庭園では、陽菜とクラウスがティーテーブルを囲み、優雅にお茶を楽しんでいた。色とりどりの花が咲き誇る中、陽菜は透けるような白いドレスに身を包み、笑みを浮かべてクラウスの言葉に相槌を打っている。


そこへ、レニオス、紬、ヴァルト、そしてリサが連れ立って現れる。


「……お邪魔するよ、ヒナリア。クラウス兄さんも」


レニオスの声に、陽菜がぱっと顔を上げた。クラウスもわずかに眉を動かしながら、立ち上がって迎える。


「珍しいな。お前がこんな場に来るとは。」


「紬が、ヒナリアに感謝の気持ちを伝えたいと言っていて。」


レニオスはそう言って、そっと紬の背中を押した。


紬は緊張した面持ちで一歩前に出ると、小さくお辞儀をする。リサがそっと手渡したクッキーを両手で差し出した。


それを侍女が受け取り、陽菜の元へ届ける。


「……これは?」


「紬が、ヒナリアに……命を救ってもらったお礼にって。クッキーを焼いたんだ」


「まあ……。」


陽菜は瞳を見開き、ゆっくりと受け取る。


「ありがとう、紬さん。嬉しいわ。」


その一方で、クラウスは黙ったまま、紬をじっと見つめていた。


無言の圧に、紬は少し肩をすくめながらも、陽菜の反応を見守っていた。


「せっかくだし、今いただこうかしら。」


陽菜が微笑みながら、袋の中のクッキーをひとつ手に取り、口元へと運んだ――


次の瞬間。


「……ッ!」


陽菜の表情が一変した。


唇に触れた瞬間、舌先にビリッとした鋭い刺激が走る。


「なっ……!」


彼女はとっさにクッキーを吐き出し、手で口を押さえる。


「ヒナリア!?」


レニオスが慌てて駆け寄る。


だがその直後、クラウスが椅子を勢いよく蹴って立ち上がり、紬へと鋭く視線を向けた。


「お前……何を食わせた……!」


腰に差していた剣が、音を立てて抜かれた。


「やめろ、兄さん!」


レニオスも剣を抜き、紬の前に立ちはだかる。


「彼女がそんなことをするはずがない!」


「ならば誰がこんな真似を!?」


クラウスは怒鳴りながらも、紬を睨み続ける。


そのとき。


「レニオス様、この者が!」


ヴァルトが駆け寄り、ある侍女の腕を掴んでいた。


「この者のポケットから、同じクッキーが……!」


「なっ……!」


侍女は顔を真っ青にして震えながら、陽菜の方を見た。


「ひ、ヒナリア様……! 私は……私はっ……!」


「……どうしてこんなこと…っ!」


陽菜は、苦しそうに呟く。


侍女の顔から血の気が引き、その場に崩れ落ちる。


「連れていけ!」


ヴァルトが短く命じ、兵が侍女を連行する。


静まり返った庭園。


緊張の余韻の中、レニオスはそっと紬の手を取り、その手が小さく震えているのを感じた。


「大丈夫……もう、何もさせない。」


紬は不安げに目を伏せながらも、レニオスの手を強く握り返した――

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