第25話 穏やかな時間
呪いの余波が去り、重苦しい空気が嘘のように薄れていく。
照明の明かりも穏やかに戻り、静寂だけが残っていた。
ベッドの上、紬の呼吸は浅く弱々しいものの、確かに落ち着きを取り戻していた。
そのそばには、レニオスが静かに腰を下ろし、彼女の手を包み込むように握っている。
「……もう大丈夫だ。もう誰にも、君を傷つけさせない。」
その声に応えるように、紬のまぶたがわずかに震える。
目を開くまではいかないが、意識がゆっくりと浮かび上がってきているのがわかる。
「レニオス様、お水を――。」
部屋に入ってきたリサが、カップを差し出す。
レニオスはそっと紬の頭を支え、彼女の唇に水を当てた。
わずかに――ほんの少しだけ、紬はそれを飲み込む。
「……飲めた……。」
リサが安堵の声をもらす。
紬は、視界の端にレニオスの姿を捉え、かすかに微笑んだ。
声はまだ戻らない。だけど、彼の存在が、何よりの安心になっていた。
「ゆっくり休め。俺はずっとここにいる。」
レニオスはそう告げると、紬の額にそっと触れ、深い祈りを捧げるように目を閉じた。
――――――――――
少しずつ体調を取り戻し、
立ち上がれるほどに回復したある日――
紬は、リサが用意してくれた温かいお茶を手に、ふと視線を窓の外へ向けた。
(……本が、読みたい)
言葉にはならない。けれど、その想いは胸の奥で静かに灯っていた。
リサがカップを片づけようと近づいたとき、紬はそっとリサの袖を引いた。
そして、手で“ページをめくるような仕草”をする。
「……? 本……?」
紬は頷いた。
「……図書館…ですか?」
目を丸くしたリサに、もう一度、強く頷く。
「……わかりました。レニオス様に確認してきます!」
リサはすぐにレニオスへ伝えに行った。
彼は紬の意志を聞いて、驚いたように目を見開き、すぐに静かな微笑みを浮かべた。
「……歩けるようになっただけでなく、自ら外に出たいと思えるようになったんだな。」
午後の穏やかな陽が差し込む中、紬はリサの肩に寄りかかるようにして歩き出した。
レニオスもそっと寄り添う。
初めて自分の意思で出る部屋。
少しずつ歩みを進めながら、辿り着いたのは、静かな空気の漂う王宮図書館だった。
「王宮の子どもたちが使う、読み書きの教本も置いてありますよ。」
と、リサが案内する。
やがて、レニオスが一冊の絵本のような図表を見つけてきた。
それは、鮮やかな色で装飾された、音の一覧――“音の図表”だった。
「これは、文字を覚える最初の本だ。……順番に並んでいる。指でなぞって学ぶんだ。」
紬は椅子に座り、興味深そうにページを開いた。
リサも隣で、指を添えながら、丁寧に紬の指と一緒に文字をたどっていく。
「もし知りたい音があれば、そこを指差してくださいね。」
紬は真剣な眼差しで図表を見つめ、ひとつひとつの音に目を走らせていく。
たまにリサに音を教えてもらいながら
やがて――
「つ」「む」「ぎ」
3つの音を、順番に指差した。
「つ……む……ぎ……? これは……」
レニオスが、そっと紬の瞳をのぞき込む。
「……君の名前、か?」
紬は、静かに頷いた。
その目には、少し照れたような、けれど喜びに満ちた光が宿っていた。
「紬さま……。」
リサの声が、少し震える。
レニオスも、ゆっくりと、その名を大切そうに繰り返す。
「紬……ようやく、呼べるようになったな。」
その名が、紬という一人の人間をこの世界に刻む――
小さくて、でも確かな第一歩だった。
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