第18話 3日目
朝日が差し込む頃になっても、紬はほとんど眠れていなかった。
まぶたは重く、身体もどこか冷えているような感覚が残っている。
布団から出るのが怖くて、しばらく動けずにいた。
「おはようございます、聖女さま。」
部屋に入ってきたリサの明るい声が、ほんの少し、心を救ってくれる。
紬はゆっくりと身体を起こしたが、その表情はどこか青ざめていて、目元にはくっきりと疲労の影が浮かんでいる。
それを見たリサは、ふと手を止め、心配そうに彼女の顔をのぞき込んだ。
「……また少しお顔色が優れませんね。昨晩、眠れませんでしたか?」
問いかけに、紬は小さく首を横に振る。
けれど、その仕草さえも弱々しくて、無理をしていることが一目でわかる。
「…………。」
リサはそれ以上無理に聞かず、やさしく微笑んだ。
「では、お着替えを手伝いますね。今日も少しずつ慣れていきましょう。」
着替えを終え、今日も可愛らしいドレスに身を包んだ紬。
けれどその瞳はまだどこか曇っていて、笑顔も上手く作れない。
朝食の席でも、彼女の箸はほとんど進まず、ただ出されたものを少しずつ口に運ぶだけ。
リサの目が時折、そっと彼女を見守る。
——声が出せず、夜は眠れず、理由もわからないまま不安だけが積み重なっていく。
だけどそれを伝える手段もない。
少しずつ、確実に、紬の心が蝕まれていくようだった。
——————————
静かな執務室の中、机に向かっていたレニオスの元に、一人の青年が現れる。
無駄のない動きと低い声—
紬の報告をしにきたヴァルトだった。
「レニオス様、失礼いたします。聖女さまの今朝の様子について、ご報告を。」
レニオスは顔を上げると、書類から視線を外し、短く頷いた。
「……どうだった?」
「お召し物を整え、リサ殿と朝食を共にされたとのことでしたが、食事はほとんど召し上がらなかったようです。顔色も優れず、睡眠も浅かったようで……。」
ヴァルトの報告を聞き、レニオスの指先がほんのわずかに止まる。
「召喚時の影響がまだ……?」
低く漏らしたその声には、焦りと悔いが滲んでいた。
「無理に近づくことは逆効果になると思います。ただ、このまま様子を見るだけでは……。」
「……分かっている。何もしないことが正しいとは限らない。だが、ヒナリアの言葉を信じると決めたのは、俺だ。」
レニオスの眉間に深い皺が刻まれる。
「……ヴァルト。彼女の様子を、今後も見守ってくれ。何かあれば、すぐに知らせてほしい。」
「承知しました。」
そう言って一礼すると、ヴァルトは静かにその場を下がっていく。
ひとり残された執務室で、レニオスは深く椅子にもたれ、天井を仰いだ。
彼の心の中には、焦りと責任、そして確かな不安が静かに広がっていく——。
——————————
夕刻。
豪奢な食卓には、今宵も王族が顔を揃えていた。
長いテーブルの中央には、香ばしい料理が並び、侍女たちが手際よく皿を運んでいる。
だが、華やかな雰囲気のなかにあって、紬の姿はどこか影を落としていた。
席に着いたものの、彼女の手は一向に料理へと伸びない。
食欲がないどころか、湯気の立つスープの匂いに、胃がきゅっと縮こまる。
「お口に合いませんか?」
陽菜の柔らかい声が隣から届く。
けれど、紬は首を振ることしかできなかった。
一口でも、と無理にフォークを持つが、手が震える。
その様子に気づいたリサが心配そうに視線を送るが、紬はただ俯くばかり。
――ガタ、と音を立てて椅子を引く。
紬が急に席を立ったため
会話が一瞬止まり、皆の視線が集まる。
それでも紬はうつむいたまま、小さく礼をしてその場を後にした。
「……聖女さま!」
リサが慌てて彼女の後を追う。
背後で、陽菜の目元がわずかに歪むのを、誰も気づく者はいなかった。
レニオスはただ、沈黙したままグラスの水に視線を落とす。
ナイフとフォークを持つ手は、微かに止まっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます