第10話 すれ違い
お風呂から上がり、ふかふかのバスローブに包まれたまま部屋に戻った紬は、しばらくベッドの端に腰を下ろしてぼんやりしていた。
異世界。召喚。婚約者。魔法。
全部が、現実感を伴わないまま押し寄せてくる。湯気の余韻に包まれながらも、心は少しずつ冷えていく。
「……夢だったら、
どれだけよかったか……。」
ぽつりと漏れた言葉は、やはり声にはならなかった。まだ喉の奥がざわついているような、うまく音にならない感覚が残っている。
そんな中、ふと思い返したのは、バスルームに向かう途中でリサがそっと教えてくれたことだった。
『王族の方には、基本的に頭を下げて敬意を示すのが礼儀です。』
『それから、立場のある方には、目を合わせて軽く一礼するのがこの国での基本ですわ。』
――やっぱり、王子様にもお辞儀しなきゃ、だよね。
素直にそう思った。教えられたことに疑問を持つ余裕なんて、今の紬にはなかったからだ。
無意識に、胸の前で手をぎゅっと握る。
言葉も満足に出せないこの状況で、自分が失礼のないように振る舞えるか、不安は消えない。
(ちゃんと……できるといいな……。)
そんな折、扉の向こうからノックの音。
戻ってきたリサが、銀のトレイに紅茶の香りを乗せて微笑んでいた。
――――――――――
執務を終え、ようやく一息つけたレニオスは、紬のことが気がかりで部屋を訪ねようとした。
その途中で、廊下の角を曲がった先にいたのは、ふんわりと微笑む陽菜。
「レニオス。彼女のことでしょう?」
その言葉に、レニオスは目を細めて頷く。
心配の気持ちと、理性との狭間で一瞬迷いが見える。
「そうだ。召喚されて間もないし、体調も心配だ。
……君は、彼女に会ったか?」
陽菜は少しの間、わざとらしく眉を下げて、柔らかな声で答えた。
「ええ。ほんの少しだけ顔を見に行きました。最初は驚いていましたが……わたくしのことを覚えていてくれたようで、安心しました。
ただ、やはりまだ混乱している様子で……。
声も、出せないみたいなんです。」
レニオスの表情がわずかに曇る。
「……そうか。やはり、転移の影響が残っているのか?」
「はい。だから今は、あまり刺激を与えない方が良いかと。
お休みになっているかもしれませんし、無理にお会いするのは……」
「…………。」
陽菜の言葉に、レニオスは少しだけ逡巡するが、やがて小さく息を吐いて頷いた。
「……わかった。今は控えよう。」
「ありがとうございます。
もしよろしければ、この後少し、お茶でもいかがでしょうか?
久しぶりにクラウス、ノアも一緒に――。」
レニオスは静かに目を伏せると、わずかに微笑んだ。
「……そうだな。彼女が休めているのなら、それでいい。」
微笑む陽菜の言葉はどこまでも穏やかで、まるで気遣っているように見える。
けれど、その奥にある意図には気づかず、レニオスは小さく息を吐いた。
――――――――――
小さなノック音の後
扉が静かに開き、リサが戻ってきた。
「お待たせいたしました。」
柔らかく微笑む彼女に紬は少し安心する。
それでも、視線はふと扉のほうへと向かってしまう。
レニオスは来ない。
リサも同じようにちらりと扉を見て、首をかしげた。
「おかしいですね……。
レニオス様、お見えになる頃かと思ったのですが…。」
そう言いながら、彼女は小さく肩をすくめて、再びにっこりと笑う。
「きっと、何か急な用事が入ったのでしょう。大丈夫です、すぐに来られます!」
――その言葉に、うん、と小さく頷こうとして、
喉がうまく動かないことにまた気づく。
唇を引き結びながら、紬は視線を落とした。
それでも、テーブルに並ぶカップから立ちのぼる香りが、
少しだけ心を和らげてくれる気がした。
――――――――――
一方その頃――
王宮の一角にある、格式ばらず静かな応接間。
陽菜はカップを手に取りながら、上品な笑みを浮かべていた。
「それにしてもレニオス、今日は随分と静かですね。」
陽菜が柔らかく問いかけると、レニオスはカップを見つめたまま、わずかに首を傾けた。
「少し、考えごとをしていただけだ。」
「……もしかして、聖女さまのこと?」
ノアが無邪気に身を乗り出して問いかける。
大きな栗色の瞳が、興味そのままにレニオスを見つめていた。
「お兄さま、召喚された子が気になるんでしょ?
でも会わない方がいいってヒナリア様が言ってたもんねー。」
その言葉にクラウスが眉をひそめるが、ユリウスは気にした様子もない。
陽菜は笑みを崩さず、「まあ、ノアったら。」と軽くたしなめる。
「彼女は、まだ混乱している。そっとしておくのも、優しさだろう。」
レニオスは静かに言ったが、その声にはどこか引っかかりが混じっていた。
自分の中で揺れる何かを
言葉にできずにいる――
そんな様子を、陽菜はただ微笑を浮かべたまま見つめていた。
――――――――――
「……まだ、来ていないのですか?」
カップを片づけて戻ってきたリサが、そっと問いかける。
ベッドの端に腰かけていた紬は、微かに首を横に振った。
「そうですか……お疲れなのかもしれませんね。
それに…聖女さまを想って、ヒナリア様が止めたのかも……。」
リサはそう言って、ぎこちない笑を浮かべた。
「でも……レニオス様は、優しい方ですから。
明日にはきっと……会えますよ。」
その声に、紬は微かに目を伏せた。
胸の奥に、期待とも不安ともつかない感情が渦巻く。
(会いたい……けど、迷惑だったら……?婚約者と言われているけど、ほかに想い人がいるかもしれない。)
言葉にできない思いが、喉の奥でくすぶる。
けれど、リサの整えた寝具の温もりが、少しだけその気持ちを和らげてくれた。
「おやすみなさい。明日が、少しでも穏やかでありますように」
部屋の灯りが落ち、静寂が訪れる。
紬は目を閉じ、来なかった人を想いながら、ゆっくりと眠りへと沈んでいった。
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