第33話

数刻前。

日が沈み始めた頃。雨と風が強くなり、嵐が本格的になり始めた後である。


ミシミシと森の中に響く断裂音をジークは聞いた。

長年の経験からジークにはそれが木の根が引きちぎれる音だとわかったらしい。


夕飯の材料を探しに森で釣りをしている時だった。すぐ近くには動物たちの住処があった。

ジークは走った。

草木をなぎ倒すように。枝が肌をひっかこうとも気にしなかった。


土砂崩れが起きる。ジークの目の前でである。

伸ばした彼の手の先に、シカの親子がいた。


逃げ遅れたのは子供の方だ。しきりに急かす母親に触発されて、わけもわからずパニック状態になっていた。


ジークの手が間一髪で間に合った。

子ジカは土砂崩れに巻き込まれないギリギリのところに押し出され、その代わりにジークが押し流され、飲み込まれてしまった。


それが今回の顛末らしい。

ジークはベッドの上で僕に成り行きを話した後、「よかった」と心底安心したように脱力する。

シカの親子の無事を噛みしめているようだ。


彼の命が助かったのはほとんど奇跡に近いと思う。倒木を含む土砂に押し流されながらも、その倒木が作った隙間のおかげで窒息せずにすんだ。


腹部に刺さった枝も臓器を外れ、致命傷にはならなかった。

それでも、災害に飲み込まれるというのはかなりの恐怖に襲われると思う。


それなのに意識を取り戻してすぐに動物たちの心配をする彼をすごいと思った。


「……待ってくれ」


何かを思い出したようにジークが言った。

彼の両手が恐る恐るというように自分の顔に触れる。


自分が布で顔を隠していないことに気付いたらしい。驚いた顔で咄嗟に顔を隠すが、すぐに無駄だと気づいたのか腕の間から顔をのぞかせる。


「見たのか?」


ジークが尋ねる。

返事をしなくても答えは明白だろう。彼にとっては恐らく知られたくないことだったのだろう。緊急事態だっとはいえ、気まずい空気が流れる。


僕がわずかに頷くとジークは深くため息を吐いた。


「すまない。怖い思いをさせて。俺はもう大丈夫だ。君はもう帰りなさい」


態度が急に他所他所しくなる。


「え、ちょっと待ってよ。まだ嵐だからできれば雨が止むまで待たせてほしいんだけど」


僕がそう言うとジークはハッとしたように窓の外を見た。嵐のことなんて忘れていたようだ。


外では依然として雨が降っている。風も強い。

ピークに急かされて店を飛び出してきた僕がいうのもおかしな話だが、今外に出て町に帰るのは危険だろう。

リリアには朝までには戻ると言った。心配はするだろうが、朝になれば嵐は過ぎ去るかもしれない。


ジークは少し狼狽した。


「そ、そうか。……なら俺が外に居よう。嵐が止むまで鍵をかけていなさい」


そう言ってベッドから降りようとする。

もしかすると人を自宅に泊めるのが嫌なのかと思ったがそうではないらしい。


僕のことが嫌いなわけでもないだろう。嫌いなら、問答無用で追い出せばいいだけだ。

それよりも彼はどこか僕を気遣っている印象を受ける。


何かがおかしい。自分の姿を晒したと気づいてからの態度が変だ。


痛みに顔を歪ませながらも気合でベッドから降りようとするジークの両肩を僕が抑えつける。彼の身体がビクッと震えた。


「ジーク、何か考えすぎてない? 一人で完結させないで、説明してほしいんだけど」


僕がそう言うと、ジークは僕の目をまっすぐに見た。それから両肩に触れる僕の手に目を向ける。


「君は、怖く……ないのか? 私が……」


そして、信じられないとでも言いたげに再び僕を見つめた。


ジークの生まれはここよりもずっと遠い。海の向こうにある国らしい。

そこは決して豊かとは言えない国だったが、貧しいながらに人々は一所懸命に働き、わずかな幸福で笑みが生まれるような温かい国だった。


ジークは山の中に住む狩人の一族で、幼少の頃より弓を教わり僕くらいの年齢の頃には一人で狩りも経験していたらしい。


弓の腕は一族の中でも上の方で、彼自身も狩りで森の中を変えまわるのが好きだった。

動物は好きだが、生きるためには狩らねばならない。生命への感謝も忘れたことはない。


ある日のこと。

いつものように狩りをしようと森の中に入ると動物の足跡を見つけた。

クマのものだった。


クマは食肉として重宝されるし、毛皮も高く売れる。こんなに人里の近いところに足跡があるということはいつか村の皆が襲われてしまうかもしれない。


様々な理由からジークはその日、クマを狙うことに決めた。


足跡をたどり、森を進んでいく。

やがて、滝の真横にできた洞穴を見つけた。


巣穴か、と思ったがそれにしてはやけに綺麗で人の手が加わった形跡がある。

少し不可解だったが足跡は洞窟の中に続きていて、クマが中にいるのは確実だった。


もしかすると中には人もいて、今まさにクマに襲われそうになっているのではないか。

ジークはそう考え、その人を助けるために中に入っていく覚悟を決めた。


弓を握る手に力を込めて、矢をつがえていつでも準備しておく。

なるべく音を立てないように気を付けながら一歩ずつ洞穴に近づく。


入り口の前にたどり着いた時、中から血の匂いがした。

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