第20話
運動神経が良くないことは自覚している。記憶は鮮明じゃないが、それは恐らく前世の僕も同じこと。
それでも、直前に彼の動きを見ていたのが良かったらいい。伸ばした腕は塀を掴み瞬時に身体を持ち上げた。
農作業のおかげか筋力に不足はない。身体が軽いのも幸いした。自分でも感動を覚えるほどに僕の身体は塀の上に持ち上がった。
目の前のお手本ほどスムーズではないかもしれない。それでもタイムラグはほとんどない。
彼の背中が近づいた。後は足を踏み込んで、彼がしたように塀から塀に飛び移ればいい。
着地したばかりの彼は勢いを失って減速している。追いつける。
強く塀を蹴った。感じたことのない浮遊感と共に視界がスローモーションになったと錯覚する。
彼の背中がぐんぐんと近づいて来る。頭ではわかっていた。
なぜ彼が減速したのか。飛び越した勢いをそのままに駆け抜ければ僕が塀を上る僅かな隙で距離を離せたはずだ。
しかし彼はそうしなかった。いや、できなかった。安定した地面の上とは違う。細い塀の上は不安定だからだ。
勢いを殺しさなければ上手く着地はできない。前のめりになってバランスを崩す。
頭ではよくわかっていた。しかし、身体がついてこなかった。
着地の一歩目は上手い具合に塀の上に乗った。僕の運動神経で言えばほとんど奇跡だ。そして奇跡は二度は起こらない。
勢いに乗って自分では止められなくなった二歩目は塀の中心を捉えていなかった。
身体が右に傾く。倒れる時には腕を前に出して衝撃を吸収する。そのくらいの反射神経は持っている。しかし、腕を突ける場所がない。
伸ばした腕は空を切り……。ほとんど事故だった。伸ばした腕は目の前にいた彼の服にかすった。
指先が引っかかる感覚。
「おわっ」
短い悲鳴。バランスを崩した僕に巻き込まれる形で二人して塀から落ちる。
衝撃は強くなかった。
塀の下に茂みがあったのだ。その草が僕たちを受け止めてくれた。
「あー! マロンさんの庭が荒らされたー!」
そう叫んだのは僕たちが突っ込んだばかりの茂みの精霊たちである。どうやらマロンさんという人の庭に落ちてしまったらしい。
丁寧に育てられた茂みをダメにしてしまったことを心の中で謝罪しつつ、大きな怪我をしていないことにホッとする。
「痛……」
呻くような声が漏れる。僕ではない。追いかけていた彼だ。
落ちた拍子に帽子が落ちた。その帽子で上手く纏めていたのか、赤く長い髪がはらりと茂みの上に落ちた。
日に光に晒された顔に見覚えはない。しかしわかったこともある。彼ではない。彼女だ。
「あんたやるな……。今まで私に追いつけた人はいないのに」
悔しそうに彼女が言う。僕はと言えばずっと男性だと思って追いかけていた人が女性だったことに衝撃を受けて上手く話せずにいる。
彼女にもう逃げる気はないようだ。観念したのか茂みから抜け出るとその場に胡坐をかいて座る。
僕でも追いつけると思った足の速さは女性だったからか。いや、それにしてもあの身軽さは凄まじい身体能力だ。
と頭の中に関係のないことが巡る。
少し時間を置いてようやく頭の中が落ち着いて来た時、僕は彼女にまず名前を聞いた。
「私はシュリ。なぁ、今更どんな言い訳をしても信じられないかもしれないけどあんた達に危害を加えるつもりはないんだ」
彼女は僕の問いに素直に答えた上でそう言った。
その表情は嘘をついているようには見えない。さすがにその言葉だけで警戒を解けるはずもないが、僕の警戒レベルが勝手に一つ下がってしまう。
「アレンさーん!」
庭の向こうから声がする。リリアのものだ。どうやら僕たちを追ってきたらしい。
そういえばここは私有地だったと思い出し、それから茂みのことを家主に謝罪しないとなと思いながらシュリを連れて家の表の方に回る。
「アレンさん! 良かった御無事で」
僕を見てリリアの表情が明るくなる。反対に顔が引きつったのはシュリの方だ。
原因はリリアが腰に下げた剣だろう。鞘に収まっていても武力的な雰囲気を強く発している。
「リリア、その剣は?」
持ってきた理由を察しつつ尋ねる。彼女は今の今まで腰に剣を差していたことなど忘れていたかのようにハッとして
「え? ああ、護身用です。アレンさんが危ない目に合っていたらまずいので、除隊した時に貰った飾りの剣を持ってきました」
そう言って剣を抜いてみせる。見た目はかなり物騒だが、剣に刃はついていないらしい。兵士が除隊するときに貰う兵士だった証のようなもので、高価な代物ではないが石で作られた装飾が施されていた。
「あれ、その方は……」
リリアの視線が僕の後ろにいたシュリに向く。肩越しに彼女がドキリと身を縮こまらせたのがわかった。
さて、どう説明しようかと悩む。事実をそのまま伝えてもいいのだが、そうするとリリアは彼女に嫌悪感を抱くかもしれない。さすがに装飾の剣で斬りかかったりはしないだろうが連行して兵士に突き出すと言い出すかもしれない。
僕にシュリをかばう理由はない。しかし、出会ったばかりの彼女がどうも悪人のようには思えず、この出会いは何かもっと違う物を生み出しそうだと予感していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます