薬売りの少女

第8話

平穏な生活を送る。その目標を達成するのならば僕は選択を誤ったのかもしれない。

後悔したわけではない。ただ、一瞬。ほんの一瞬だけ脳裏にその考えが過ってしまった。

目の前の彼女が「トラブル」の雰囲気を纏わせていたからだ。


森の奥にポツンと建つ小屋は言ってみれば僕の要塞である。立てたのは祖父だし、所有者も祖父だが、亡くなった時に自動的に引き継いだ。


前世の僕にも実家と呼べる家があったのだろうがその存在も薄れ、ただ僕の目標を定める方向指針と化している今、「家」と呼べるのはこの小屋だけである。


その小屋には当然扉が付いている。木製の古びた扉で、開くたびにわずかに軋みかん高い音を立てる。頼りなく見えるが、僕にとっては外と内を分ける唯一の仕切りであり、要塞を守る砦だった。


その貧相な砦の前に彼女が現れたのは何日か穏やかな日常を過ごした後のことだった。扉のノック音に反応し、無防備に立っていたのは若い女性。顔見知りである。

とはいえ古い仲というわけではなく、つい最近知り合ったばかりだ。そして「もう会うことはないだろう」と楽観的に思っていた相手であった。


この森は迷いやすい。森になれた猟師ですら、滅多に奥までは入ってこない。

しかし、一度小屋までたどり着いた人ならばある程度方向感覚が優れていれば辿りつけるようだ。


走って来たのか彼女の呼吸は僅かに弾み、額にはうっすら汗をかいていた。そういえ近頃は随分と温かくなった。何か冷たい飲み物でも出すべきか。

突然の訪問者に驚きつつ、そんな呑気なことを頭に思い浮かべていると彼女、リリアは短く言った。


「ご迷惑なのはわかっています。でも……どうか、力をお貸しください」


瞳は真剣に僕を見つめていた。焦っているのか声色はやや上ずっていて、彼女自身も落ち着かない様子だ。その雰囲気に嫌な予感がした。せっかく築きかけていた平穏が崩れ落ちる音がする。


その気配は一瞬で消えた。脳裏に浮かんだ考えを表情には出さないように気を付けつつ、彼女を小屋の中に迎え入れた。

彼女を助けたのは僕の意思だ。救ったことにも、薬を渡したことにも後悔はしていない。

もしもそれが原因で彼女が新たなトラブルを持ち込んだのだとしたらその責任も僕にあるだろう。

そのトラブルを解決した後に再び平穏を取り戻そうではないか。


まだ彼女が何の目的で来たのか聞いてもいないのに、僕はそう意気込んでいた。


部屋に通し、椅子に座ってもらう。少し前まで祖父と二人暮らしだったので椅子が二つあってよかった。

清涼感のある人心地で作った冷たいお茶を二人分用意し、彼女の前に腰かける。


お茶を飲んでひとごこちしたのか、彼女の呼吸はもう整っていた。

ハーブのさわやかな香りが鼻をくすぐる。美味しそうに目を細め、もう一口お茶を飲んでから彼女はゆっくりと語り始めた。


「まずはお礼を言わせてください。いただいた薬のおかげで祖母はゆっくりと回復に向かっています」


話の入りはそうだった。

その後、彼女は言われた通り僕のことは誰にも話していないこと。それとは別に余った薬を他の家の人にも配ってしまったことを話した。


リリアの話によれば貧民区では常に病が絶えない環境にあるという。オッコムの領主であるゼンテリヤ家という貴族様もこの状況を重く受け止めているらしい。


とはいえ、貧民区の人全員に無償で薬を配れるほど財政は良くない。個人個人で薬を買ってくれと突き放すわけにもいかず途方に暮れているらしい。


リリアは貧民区で育った。より安定した収入を求め、試験をクリアして兵士になった今は兵舎で暮らしているが、彼女の祖母はまだ貧民区に家を持っていた。


隣人たちとも子供の頃からの付き合い。貧民区と言えば荒れた場所を想像するが、オッコムでは貧しくても心は豊かな人が多いらしい。特にリリアの周りには。


優しくしてくれた人たちの中にも病にかかり、苦しんでいる人がいる。そんな人たちを彼女は見捨てられなかった。


僕が渡した薬は多種に渡る。彼女の祖母には効果が薄くても他の病には効く薬もあった。

彼女は薬を独り占めすることなく、近隣の苦しんでいる人に配って回ったらしい。


立派なことだと思う。正直僕は渡した薬を彼女がどうしようと勝手だと思っていた。少し話しただけでも彼女がいい人だと十分にわかる。祖母にすら使わないなんてことは考えてもいなかった。余った薬を返してほしいとも思っていなかったし、それを売ってお金にすればいいと思っていたくらいだ。


しかし彼女は困っている人たちからお金を受け取らなかった。


「当然です。私とてアレンさんの好意で頂いたものですから、それを売りさばくなんて罰が当たってしまいます」


と彼女は言った。

とにかく、彼女が無償で配ったことで渡した薬はすぐにほとんどなくなったという。

そのおかげで彼女の周りで病に苦しんでいた人たちは彼女の祖母と同じく回復に向かっているようだ。


そこまで話を聞いて正直ホッとした。彼女がいなくなった後も僕がやきもきしなくて済むようにと十分すぎるくらいの薬を渡したが、その結果が直接聞けて良かった。


だが、何故彼女がここまで来たのかはまだ明かされていない。

僕は少なくなったお茶をつぎ足しながら話の続きに耳を傾けた。

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