第18話 「黒炎 滅」
空気が変わった。
鈴木先生の神社の境内に広がる不自然な静けさに、相良ハヤテは眉を寄せた。夕暮れの光が朱色の鳥居を照らし、長い影を地面に落としている。しかし、いつもなら聞こえるはずの風鈴の音や、小鳥のさえずりが一切ない。
「何かおかしいと思わないか?」
横にいる星乃リリィに小声で問いかける。金髪の少女は青い瞳を丸くして頷いた。
「うん...鳥の声がしないわ。それに...」
リリィの言葉が途切れた瞬間、ハヤテは背筋に冷たいものを感じた。忍びの家系に生まれ、幼い頃から鍛えられてきた直感が警告を発している。
「来るぞ」
ハヤテは無意識に手裏剣に手をかけた。二人は放課後の修行を終えて鈴木先生の神社に立ち寄ったところだった。先生は「今日は重要な話がある」と言っていたが、姿が見えない。
その時、神社の本殿から黒い煙が立ち上るのが見えた。
「先生!」
二人は走り出した。本殿に近づくと、煙の中から一人の大柄な男が現れた。顔を黒い布で覆い、全身を覆う黒いマントには赤い炎の刺繍が施されている。
「黒炎滅...!」
ハヤテの声に、男はゆっくりと振り向いた。
「月蝕の心臓はもらった。これで門を開く準備が整う」
黒炎滅の低い声が、不気味に響く。
「返して!」リリィが前に出る。「その結晶は、この神社の大切なものよ!」
「小娘が...」
黒炎滅が手を振ると、突然地面から炎の壁が立ち上がった。リリィを囲む火の檻。
「リリィ!」
ハヤテが駆け寄ろうとしたその時、鈴木先生が煙の中から現れた。眼鏡は割れ、服は所々焦げていた。
「相良...星乃...逃げろ...」
先生の言葉が終わらないうちに、黒炎滅が不敵な笑みを浮かべ、結晶を高く掲げた。
「もう遅い!月蝕の心臓の力、見せてやろう!」
結晶が赤く輝き始めた。空気が震え、木々が揺れる。
その時だった。
「まだだ!」
老人の声が轟き、境内に一筋の影が走った。相良守—ハヤテの祖父だ。
「守の爺さんか...久しぶりだな」黒炎滅が嘲るように言った。「今日こそ、三十年前の借りを返させてもらう」
その時、もう一つの光が現れた。煌めく金色の光線が黒炎滅の手を直撃し、結晶が宙に舞い上がる。
「あなたのような者に、月蝕の心臓を渡すわけにはいかないわ」
優雅な英国訛りの日本語。長い金髪の老婦人が、杖を掲げて階段を上ってきた。
「お婆ちゃん!」リリィが叫ぶ。
星乃エリザベス。リリィの祖母だ。その青い瞳には凛とした意志が宿っていた。
「エリザベス...」相良守が微笑む。「また共闘することになるとはな」
「ええ、守。三十年前と同じように」
二人の老人が並び、黒炎滅と対峙する。
「ハヤテ、リリィ」守が振り返る。「お前たちは下がっていろ。この男は強敵だ」
「だめだ、爺ちゃん!僕も戦う!」
ハヤテが前に出ようとした時、黒炎滅の周りに炎の渦が生まれた。
「老いぼれどもが...」
黒炎滅の手から次々と炎の球が放たれる。相良守はそれを手裏剣で切り裂き、エリザベスは魔法の盾で防ぐ。
「守、あなたが時間を稼いで」エリザベスが言う。「私が結界を準備するわ」
「了解だ」
相良守が手を合わせると、周囲の影が動き出した。「影縫いの術」—相良家代々の秘術だ。黒炎滅の足元の影が絡みつき、動きを鈍らせる。
その隙に、エリザベスが詠唱を始めた。金色の魔法陣が地面に広がる。
ハヤテは呆然と見ていたが、ふと気づいた。リリィの周りの炎の檻が、黒炎滅が相良守との戦いに集中するうちに弱まっている。
「リリィ!」ハヤテが声をかける。「感情を高めるんだ!」
リリィはすぐに理解した。彼女の「エモーショナル・マジック」—感情が高まれば魔力も上がる特性だ。
リリィは目を閉じ、ハヤテへの想いを胸に抱く。瞬間、彼女の周りに青い光が渦巻き、炎の檻を押し広げ始めた。
「ハヤテ!」リリィが叫ぶ。「結晶を!」
宙に浮いたままの月蝕の心臓。黒炎滅も手を伸ばそうとしている。
ハヤテは瞬時に判断し、忍術の身のこなしで空中へ跳躍。結晶へと手を伸ばす。
「させるか!」
黒炎滅の放った炎がハヤテを襲う。避けきれない—その時、リリィの魔法が炎を押しのけた。
ハヤテの手が結晶に触れる。同時に、エリザベスの魔法陣が完成し、金色の光が境内を包んだ。
「守!今よ!」
相良守が「影縫いの術・極」を放つ。周囲のすべての影が黒炎滅に絡みつき、動きを封じる。
「なんだと...!」黒炎滅が苦悶の声を上げる。
エリザベスの魔法と相良守の術が交わり、黒炎滅を光と影の牢獄に閉じ込めた。
ハヤテは結晶を手に、地面に着地する。
「終わったな」相良守が息を切らして言う。
黒炎滅の影が月蝕の心臓の赤い光を受け、神社の石畳に長く伸びていた。光と影の牢獄に閉じ込められながらも、彼の笑い声は止まなかった。
「私を倒せると思うのか?三十年前の二人はもっと力があった…今は老いぼれだ」
相良守は黙ったまま、両手で印を結び続ける。星乃エリザベスも金色の魔法陣を維持するために杖を地面に突き立て、呪文を唱え続けていた。二人の額には汗が滲み、明らかに体力の限界が近づいていることがわかる。
「爺ちゃん!」ハヤテが叫ぶ。手には月蝕の心臓を握りしめたまま。
黒炎滅の周りの炎が強さを増し、光と影の牢獄が少しずつ崩れ始めていた。
「このままじゃ…」鈴木先生が眉をひそめる。「彼の炎の力が結界を破る」
その時、リリィが前に出た。
「私、手伝います!」
金色の髪が風もないのに揺れ始め、青い瞳が輝きを増す。祖母から教わった魔術の詠唱を始めるリリィ。しかし、彼女の魔力はまだ未熟で、黒炎滅の炎に押されていた。
「リリィ!」ハヤテが月蝕の心臓を握りしめながら叫ぶ。「感情を…感情を高めるんだ!」
リリィはハヤテを見つめ、頷いた。彼女は目を閉じ、深く息を吸い込む。彼女の中の感情—ハヤテへの想い、家族への愛、そして守るべき世界への決意が膨れ上がる。
突然、リリィの周りに青い光が爆発的に広がった。
「エモーショナル・マジック・フルパワー!」
リリィの魔力が急激に高まり、金色の魔法陣に青い光が加わる。黒炎滅の炎が押し戻され始めた。
「子供の魔法如きで!」
黒炎滅が怒りに満ちた声を上げ、両手を広げる。彼の体から炎の鎧が形成され、さらに力を増していく。結界が揺らぎ、相良守とエリザベスの顔に焦りが見える。
ハヤテは月蝕の心臓を見つめた。結晶の中で赤い光が脈打っている。祖父から聞いていた言葉を思い出す—「この結晶は門を守る力を持つ」。
決意を固め、ハヤテは結晶を両手で掲げた。
「月蝕の心臓よ、力を貸してくれ!」
結晶が鼓動を打つように輝き、ハヤテの体に赤い光が流れ込む。相良家代々伝わる忍術「影縫いの術」が、新たな力を得て進化していくのを感じた。
「影月縫いの術!」
ハヤテの足元から、赤黒い影が渦巻くように広がる。それは通常の「影縫いの術」とは違い、月の力を帯びた影だった。影が黒炎滅に向かって伸び、彼の炎の鎧に絡みつく。
「なっ…何だこれは?」黒炎滅が驚きの声を上げる。
相良守が弱々しく微笑んだ。「さすがは我が孫だ…月蝕の心臓との共鳴を自ら発見するとは」
ハヤテの放った影が黒炎滅の炎を侵食していく。しかし、黒炎滅も簡単には負けない。彼の体から炎の柱が立ち上がり、神社全体を炎で包もうとしていた。
「このままでは神社が燃える!」鈴木先生が叫ぶ。「御神体がないと結界が崩れ、月蝕の門が開いてしまう!」
星乃エリザベスが決意に満ちた表情でリリィを見た。
「リリィ、聞きなさい。私たち星乃家に伝わる究極の魔法がある…『星の涙』。今のあなたなら、きっと使えるわ」
エリザベスがリリィに詠唱を教える。複雑な言葉を必死に繰り返すリリィ。その間も黒炎滅の炎と、ハヤテの月の影が激しくぶつかり合う。
境内の空気が緊張で満ちる中、相良守が相良ハヤテに向かって言った。
「ハヤテ、真の『影縫いの術』の秘密を教える。我らの影は単なる闇ではない…それは生命の影。敵の生命力そのものを縫い取ることができるのだ」
ハヤテは祖父の言葉に驚くも、すぐに理解した。影縫いの術の本当の力—生命の糸を操る力だ。
「しかし、それは…」
「そうだ、殺しの技だ」相良守が厳しい表情で言う。「だが今、彼を止めなければ多くの命が失われる」
ハヤテは苦悩の表情を浮かべたが、すぐに決意を固めた。黒炎滅の炎がさらに強まり、神社の柱が一本、燃え始めている。
リリィの詠唱が完了した瞬間、彼女の全身から星屑のような光が溢れ出した。
「『星の涙』!」
青い光の矢が無数に現れ、黒炎滅に向かって飛んでいく。炎の鎧に星の光が突き刺さり、黒炎滅が苦悶の声を上げる。
「今だ、ハヤテ!」相良守が叫んだ。
ハヤテは月蝕の心臓を握りしめたまま、両手で印を結ぶ。
「影月縫いの術・奥義…生命糸切断!」
ハヤテの足元から伸びた影が、まるで生き物のように動き、黒炎滅の体に絡みついた。影は彼の肌の下に潜り込み、体の内側から黒い線となって浮かび上がる。
「貴様ら!」黒炎滅が絶叫する。「『灼熱教団』は止められん!火野煌が…残りの門を…」
言葉の途中で、彼の体内の黒い線が一斉に締まった。血の気が引いた顔で、黒炎滅は静止する。体内の生命の糸が切断されたのだ。
炎の鎧が消え、黒い布で覆われた顔が露わになる。マスクの下には火傷で醜く歪んだ顔があった。その目から生気が失われていく。
「教団の…野望は…止められん…」
最後の言葉を吐き出し、黒炎滅の体が地面に崩れ落ちた。彼の体は徐々に灰となり、風に舞い上がっていく。
神社に静寂が戻った。
ハヤテは膝をつき、震える手で月蝕の心臓を見つめる。初めて人の命を奪った重みが、彼の肩にのしかかっていた。
リリィが近づき、静かに彼の肩に手を置く。
「ハヤテ…」
相良守とエリザベスは疲れ切った表情で、二人の若者を見つめていた。
「これで終わりではない」相良守が言う。「彼の言っていた通り、他の門も狙われている。『灼熱教団』は、まだ動いている」
鈴木先生が月蝕の心臓を祭壇に戻しながら言った。
「二人とも、今日からお前たちの本当の戦いが始まる。門の守護者としての…」
夜空に満月が昇り、神社を静かに照らす中、黒炎滅の灰は完全に消え去った。しかし、彼の最期の言葉は、これから始まる戦いの予兆として、空気中に残り続けていた。
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