第17話 「紅園 灯」

相良ハヤテは教室の窓から見える夕焼けを眺めていた。秋の風が校庭の木々を揺らし、まるで何かを告げようとしているかのように葉が舞い上がる。

「ハヤテくん、また一人で考え事?」

振り返ると、金色の髪を揺らしながら星乃リリィが笑顔で近づいてきた。彼女の青い瞳は、夕日を受けてさらに鮮やかに輝いていた。

「ああ...少し気になることがあってな」

実のところ、ハヤテは昨夜から感じていた違和感について考えていた。忍の血を引く彼には、危険を察知する鋭い直感がある。何か大きな動きが始まろうとしているのを感じていた。

「今日も修行する?森の聖地で」リリィが楽しそうに尋ねる。

「ああ」

短い返事だったが、リリィはハヤテの性格を理解していた。二人は放課後になると、よく学校の裏手にある小さな森で修行をしていた。ハヤテは忍術を、リリィは魔法を。

「じゃあ、いつもの場所で待ってるね!」リリィは明るく告げると、教室を出ていった。

その背中を見送りながら、ハヤテはため息をついた。彼女が近くにいるだけで、何故か心が落ち着くと同時に警戒心が高まる不思議な感覚があった。


「相良、星乃、残ってくれ」

帰りのホームルームが終わり、生徒たちが次々と教室を後にする中、鈴木先生がハヤテとリリィを呼び止めた。

黒縁眼鏡の奥の目は真剣な色を帯びていた。教室から全員が出て行くのを確認してから、鈴木先生は声を落とした。

「二人とも、今夜は私の神社に来てくれないか。相良の祖父と星乃の祖母から連絡があった」

ハヤテとリリィは顔を見合わせた。二人の祖父母が接触することは珍しくなかったが、鈴木先生の神社に呼ばれるのは初めてだった。

「何かあったんですか?」リリィが心配そうに尋ねた。

鈴木先生は窓の外を見やり、「詳しくは神社で話そう」と言うだけだった。


夕刻、郊外の小さな神社に到着したハヤテとリリィを出迎えたのは、相良守と星乃エリザベスだった。

「来たか、ハヤテ」背筋をピンと伸ばした相良守が厳しい目でハヤテを見た。

「リリィ、よく来たわね」エリザベスは温かな微笑みを孫娘に向けた。

神社の本殿に通され、二人が座ると、鈴木先生が緑茶を運んできた。

「お前はエモーショナル・マジックの才能がある。感情の力を使った結界術を教えよう」エリザベスが優しく言った。

「ハヤテ、お前には忍術の極意、『影縫いの術』を伝授する」相良守が厳かに告げた。

鈴木先生はお茶を啜り、「二人とも、明日から放課後は修行に充てることになる。大変だが、頼りにしているよ」


その夜、帰り道で二人は沈黙を保っていた。やがてリリィが口を開いた。

「ねえ、ハヤテくん...怖くない?」

ハヤテは少し考えてから答えた。「怖いさ。でも、守るべきものがあるから、前に進むだけだ」

リリィは彼の真剣な横顔を見つめ、胸の内に温かいものを感じた。その瞬間、彼女の周りに青い光が漂い始めた。

「あ...また魔力が...」リリィが慌てて感情を抑えようとする。

ハヤテはため息をつき、手を伸ばしてリリィの頭に軽く触れた。「落ち着け。感情に流されるな」

その言葉と触れた感覚に、リリィの心臓が高鳴り、魔力の光が一層強くなった。街灯が一斉に明滅し始める。

「いや、増えてる...」ハヤテは呆れたように言ったが、口元には微かな笑みがあった。

翌日から二人の特別な修行が始まった。学校が終わると、まず鈴木先生の神社で基礎訓練を受け、その後、祖父母からの特訓を受ける日々。

「集中しろ、ハヤテ!」

神社の裏手で、相良守は厳しい声でハヤテを叱咤していた。ハヤテは目を閉じ、両手で特殊な印を結んでいる。周囲の影が微かに揺れ動き、まるで生命を持ったように彼の足元に集まり始めていた。

「『影縫いの術』は忍の中でも高度な技だ。敵の影と自分の影を繋ぎ、動きを封じる。さらに発展すれば、相手の力を一時的に奪うことも可能になる」

ハヤテは汗を流しながら集中を続けた。祖父の言う通り、この術は簡単ではなかった。影を操る感覚は、まるで自分の体の延長のように感じなければならない。

一方、リリィは神社の本殿で、エリザベスから感情魔法の制御を学んでいた。

「感情は力になるけれど、それに飲み込まれてはいけないわ」エリザベスは穏やかに諭した。「特に恋心は強力な魔力の源になるけれど、制御が最も難しい」

リリィの頬が赤く染まった。ハヤテのことを考えると、どうしても魔力が暴走しそうになる。

「こうやって...」エリザベスは手のひらに小さな光の球を作り出した。「感情を抱きながらも、それを形にする。そして、意志で方向づける」

リリィは深呼吸をし、ハヤテを思い浮かべた。すぐに彼女の周りに青い光が広がり始める。今度は恐れるのではなく、その感情を受け入れ、手のひらに集中させようとした。

修行の合間、鈴木先生は二人に『月蝕の心臓』についての知識を教えていた。

「この結晶は、月の満ち欠けに呼応して力を増減させる。特に新月の日は最も力が弱まり、その時が『灼熱教団』にとっては最も狙いやすい時だ」

「次の新月は?」ハヤテが尋ねた。

「一週間後だ」鈴木先生は眉をひそめた。「それまでに二人の力を高める必要がある」


放課後の修行が続く中、学校でも二人の間に微妙な変化が生まれていた。

「ハヤテくん、お弁当一緒に食べよ!」

リリィは毎日のように、ハヤテを誘っていた。初めは無言で頷くだけだったハヤテも、最近では少し表情が柔らかくなっていた。

「ありがとう、リリィ」

その日の昼食時、リリィが手作りのおにぎりを差し出すと、ハヤテは珍しく名前を呼んで礼を言った。リリィの心臓が跳ね、机の上の水の入ったコップが突然沸騰し始めた。

「あ!」リリィが慌てて魔力を抑えようとするが、今度は窓の外の木々が一斉に花を咲かせ始めた。

教室の生徒たちが窓の外を指さして騒ぎ始める。

「おい、落ち着け」ハヤテは小声で言い、そっとリリィの肩に手を置いた。

その瞬間、彼女の魔力が静まった。しかし、ハヤテの手の温もりが伝わり、今度は頬が熱くなる。

「リリィ...お前の魔力のコントロール、まだまだだな」

「ご...ごめんなさい」リリィは恥ずかしさのあまり、頭を下げた。

ハヤテはため息をついた。「でも、力そのものは増しているようだな。修行の成果が出ているということか」

その言葉に、リリィは顔を上げて明るく笑った。「うん!がんばってるよ!ハヤテくんも忍術の修行、進んでる?」

ハヤテは少し考え、「ああ、少しずつだが」と答えた。実際、彼も『影縫いの術』を少しずつ会得していた。まだ完全ではないが、小さな動物の影を捉えることができるようになっていた。


修行の五日目、夕暮れ時の神社。ハヤテとリリィは本殿の前で向かい合っていた。

「今日は実践的な練習をしよう」鈴木先生が言った。「二人の力を合わせる訓練だ」

「合わせる?」ハヤテが眉をひそめた。

「そう。忍術と魔法は異なる力だが、共鳴させることができる。特に月蝕の心臓を守るためには、二つの力が協力する必要がある」

エリザベスが説明を続けた。「リリィの感情魔法は結界を作り、ハヤテの影の術はその中で敵を捕らえる。二人の力が重なれば、強力な防御と攻撃が可能になるわ」

相良守は厳しい表情で付け加えた。「昔、私とエリザベスも同じように力を合わせた。だが、今回の敵は当時よりも強いかもしれん」

「では、試してみよう」鈴木先生は本殿から少し離れた場所に移動した。「私が敵役になる。二人は私が本殿に近づくのを阻止してみなさい」

リリィはハヤテを見た。「私たち、できるかな?」

ハヤテは真剣な表情で頷いた。「やるしかない」

鈴木先生が突然、驚くべき速さで本殿に向かって走り出した。その動きは普通の教師とは思えない俊敏さだった。

「リリィ!」ハヤテが声をかける。

リリィはハヤテを思う気持ちを力に変え、両手を広げた。青い光の幕が広がり、本殿の周囲にドーム状の結界が形成される。

鈴木先生はその結界に近づくと、一瞬止まった。しかし、彼はすぐに手を翳し、何かの呪文を唱えると、結界に亀裂が走り始めた。

「ハヤテくん、結界が...!」リリィが不安げに叫ぶ。

「今だ!」

ハヤテは印を結び、地面の影が鈴木先生の足元に向かって伸びていく。影が先生の影と接触した瞬間、鈴木先生の動きが鈍くなった。

「影縫いの術...なかなかだ」鈴木先生は苦笑した。「だが、まだ完全ではないな」

確かに、鈴木先生は完全に動けなくなったわけではなかった。彼はゆっくりと歩を進め、結界の亀裂に向かっていく。

「リリィ、もっと集中するんだ!」ハヤテが声をかける。

リリィは瞼を閉じ、ハヤテを思う気持ちだけでなく、守りたいという強い意志を込めた。すると、結界の青い光が深まり、亀裂が修復され始めた。

ハヤテも全力を出し、影の力を強めた。鈴木先生の影をしっかりと捉え、その動きを止めようと集中する。

二人の力が共鳴するように、結界の中に影のような模様が浮かび上がった。鈴木先生の動きが完全に止まる。

「見事だ」鈴木先生は満足そうに言った。「二人の力が一つになったね」

練習が終わると、二人とも疲れ果てていた。特にリリィは魔力を使い過ぎて、座り込んでしまった。

「大丈夫か?」ハヤテが心配そうに近づく。

「うん...ちょっと疲れただけ」リリィは弱々しく笑った。

相良守とエリザベスは二人を見つめながら、静かに話していた。

「昔の私たちを見ているようだな」相良守がつぶやいた。

エリザベスは微笑んだ。「ええ、でも彼らはもっと素直かもしれないわね」

修行の六日目、新月の前日。ハヤテは学校で妙な気配を感じていた。廊下を歩く時、何かに見られているような感覚。昼休み、彼は校舎の屋上で周囲を警戒していた。

「ハヤテくん、何してるの?」

後ろからリリィの声がして、振り返ると彼女が二人分のお弁当を持っていた。

「気配を探っていた」ハヤテは簡潔に答えた。

「何か感じるの?」リリィも少し緊張した表情になる。

「ああ...誰かが学校を見ている。敵の気配だ」

リリィはハヤテの横に立ち、周囲を見回した。彼女も魔法使いとして、普通の人間には感じ取れない気配を察知できるようになっていた。

「確かに...何か違和感がある」

二人が屋上の端に立ち、学校の周囲を見渡していると、校門近くの木陰に赤い髪の少女が立っているのが見えた。

「あれは...」ハヤテの目が鋭くなる。

「赤い巻き髪...」リリィが息を呑んだ。「紅園灯?」

二人が見つめる中、少女は二人の方をじっと見上げ、不気味な笑みを浮かべると、人混みの中に消えていった。

「警戒を強めないと」ハヤテは緊張した面持ちで言った。「明日が新月だ」


放課後、神社に急いだ二人を出迎えたのは、緊張した面持ちの鈴木先生だった。

「来たか。状況が変わった」

相良守が厳しい表情で言った。「東京の『月蝕の門』は重要だ。五つの門の中心に位置し、最初にここが開くと、他の門も開きやすくなる」

「そして、先ほど確認したが」鈴木先生が言った。「紅園灯が明日の夜、必ずここを攻撃してくるだろう」

ハヤテは思い出し、「今日、学校の近くに赤い髪の少女がいました」と報告した。

「間違いない、紅園灯だ」火神燈が言った。「彼女は炎を操る魔術師で、若いが『炎の五芒星』の中でも危険な存在だ」

雪村凛が静かに言った。「『炎の五芒星』の一人、琥珀焔は既に死亡した。灰塚燃は強制帰還され、もうこの世界には関わらない。残るは紅園灯、黒炎滅、火野煌の三人だ」

「情報によると、紅園灯は単独で動いている」火神燈が言った。「彼女一人でも十分危険だ」

鈴木先生は真剣な表情で二人を見た。「ハヤテ、リリィ、明日の夜は総力戦になる。二人には本殿での防衛を任せたい」

「私たちは結界の強化を担当する」相良守が言った。「鈴木先生、雪村さん、火神さんと共に、外周の防衛を固める」

エリザベスがリリィの手を取った。「リリィ、最後の仕上げとして、特別な結界術を教えるわ」


その夜、修行を終えた後、ハヤテはリリィを家まで送ることにした。いつも以上に物静かなリリィに、ハヤテは珍しく口を開いた。

「心配しているのか?」

リリィはハッとして顔を上げた。「う、うん...明日、本当に私たちで守れるかなって」

ハヤテは真剣な表情で言った。「お前の力は確実に成長している。俺も全力を尽くす。二人で必ず守り切る」

リリィは彼の言葉に勇気づけられ、少し笑顔を見せた。「ハヤテくんがそう言ってくれると、なんだか安心する」

夜空を見上げると、月はほとんど見えなかった。明日は新月。最も危険な夜になる。

「リリィ」ハヤテが突然、彼女の名を呼んだ。「明日は...必ず守るから」

その言葉に、リリィの胸が高鳴り、周囲に青い光が漂い始めた。今度は以前より明るく、より制御された光だった。

「私も...ハヤテくんを守る」リリィは決意を込めて言った。

二人の間に流れる静かな空気。これまでの日々の修行が、二人を強くしていた。それは単に力だけでなく、二人の絆も。

新月の日、学校は普段通り進んでいたが、ハヤテとリリィは常に警戒を怠らなかった。鈴木先生も、授業中は普段と変わらない様子を見せながらも、二人と目が合うと小さく頷いて確認し合っていた。

放課後、急いで神社に向かう二人。

「今夜は絶対に勝つ」リリィが決意を込めて言った。

「ああ」ハヤテは短く答えたが、その目は強い意志を宿していた。

神社に着くと、既に準備が進められていた。相良守とエリザベスは神社の四隅に特殊な護符を配置し、雪村凛は神社の周囲に薄い氷の膜のような結界を張っていた。火神燈は本殿の周りを歩きながら、何かの呪文を唱えていた。

「来たか」鈴木先生が二人を出迎えた。「すでに結界の準備は整いつつある。だが、最も重要なのは本殿内の御神体、『月蝕の心臓』を直接守ることだ」

鈴木先生は二人を本殿に案内した。中央の台座には、月の光を帯びたような青白い結晶が置かれていた。『月蝕の心臓』—五つの門を制御する鍵の一つ。

「これが...」リリィは息を呑んだ。

「美しいだろう」鈴木先生は静かに言った。「だが、今夜は最も弱まる時。紅園灯は必ずこれを狙ってくる」

ハヤテは結晶を見つめながら尋ねた。「彼女はどうやって侵入してくるのでしょうか?」

「恐らく正面からではない」鈴木先生は言った。「『灼熱教団』は古い魔術を使う。空間を歪める術や、分身の術などを使うかもしれない」

「二人にはここで結界を張り、御神体を守ってほしい」鈴木先生は続けた。「私たちは外部からの侵入を阻止する」


夜の帳が降り、新月の夜が始まった。

神社は静寂に包まれ、ただ風の音だけが聞こえる。本殿内で、ハヤテとリリィは『月蝕の心臓』を中心に、特殊な陣形を組んでいた。

「準備はいいか?」ハヤテがリリィに尋ねた。

リリィは深呼吸して頷いた。「うん。エリザベスおばあちゃんから教わった通りに、結界を張るよ」

リリィは両手を広げ、感情を力に変える魔法を発動させた。青い光が広がり、結晶を囲むようにドーム状の結界が形成される。

ハヤテは印を結び、「影縫いの術」の準備をした。彼の足元から黒い影が広がり、本殿の隅々まで伸びていく。侵入者があれば、すぐに感知できるように。

外では、相良守とエリザベス、雪村凛、火神燈、そして鈴木先生が神社の周囲を固めていた。

突然、空気が重くなり、風が止んだ。

「来るぞ...」火神燈が警戒の声を上げた。

神社の鳥居の前に、赤い炎の渦が現れ、その中から一人の少女が姿を現した。赤い巻き髪、可愛らしい顔立ちだが、その目には残酷な光が宿っていた。

「こんばんは、皆さん」少女—紅園灯が甘い声で言った。「『月蝕の心臓』を頂きに来ました」

「紅園灯...」鈴木先生が前に出た。「ここは引き返せ」

紅園灯は不気味な笑みを浮かべた。「私は一人で来たのよ。『炎の五芒星』の中では最年少だけど、このくらいの仕事はできる」

彼女の周りに炎が渦巻き始めた。「さあ、始めましょうか」

火神燈が一歩前に出て、「私が相手だ」と言うと、彼の手にも炎が宿った。

「炎と炎...面白い対決ね」紅園灯は笑った。

二人の間で炎の衝突が始まった。紅園灯の炎は異様な赤色で、火神燈の炎は健全な橙色に輝いていた。空中で二つの炎がぶつかり合い、火花が四方に散った。

「なかなかやるわね」紅園灯は楽しそうに笑った。「でも...」

彼女は突然、両手を広げると、炎が渦を巻いて爆発的に広がった。火神燈は防御の姿勢を取ったが、炎の威力に押され、数歩後退する。

「私の炎は通常の炎とは違うの。感情の暗部から生まれる炎...憎しみや嫉妬が力の源よ」

その言葉に、雪村凛が動いた。彼女は長い白銀の髪をなびかせながら、「『霧氷の舞』」と静かに呟いた。彼女の周囲に氷の結晶が舞い上がり、紅園灯の炎に向かって飛んでいく。

「氷と炎...相性悪いわね」紅園灯は苦笑いを浮かべた。

しかし、彼女の炎は雪村凛の氷をも溶かしていく。一進一退の攻防が続く中、紅園灯の目は本殿に向けられていた。

「手強いわ...でも」彼女は突然、地面に手をつけた。「これでどう?」

地面が揺れ始め、神社の敷地内から複数の炎の柱が噴き出した。相良守とエリザベスは咄嗟に護符を使って防御したが、境内の一部が炎に包まれる。

「本殿を狙っている!」鈴木先生が叫んだ。

本殿内、ハヤテとリリィは外の戦いの音を聞きながら、緊張した面持ちで『月蝕の心臓』を守っていた。

「何が起きてるんだろう...」リリィが不安そうに言った。

「集中しろ。俺たちの役目は、ここを守ることだ」ハヤテは冷静に答えた。

突然、床から赤い光が漏れ始めた。

「下から!?」ハヤテが驚いて叫ぶ。

床板が燃え上がり、その中心から炎の渦が現れる。渦は人型に形を変え、紅園灯の姿となった。

「分身の術...」ハヤテが呟いた。

「こんにちは♪」紅園灯の分身が愛らしく手を振った。「あなたたちが新しい守護者?可愛いカップルね」

「リリィ、結界を強化しろ!」ハヤテは命じ、自らは影縫いの印を結んだ。

リリィは深呼吸して集中し、結界の青い光を強めた。『月蝕の心臓』を囲む光のバリアがより濃く、より強固になる。

「あら、なかなか良い魔法ね」紅園灯の分身は感心したように言った。「でも...」

彼女は手をかざすと、結界に向かって赤い炎の球を放った。炎が結界に当たると、青い光がわずかに揺らめいた。

「リリィ!」ハヤテは心配して彼女を見た。

「大丈夫...まだ守れる」リリィは額に汗を浮かべながらも、結界を維持する。

ハヤテは紅園灯の分身に向かって動いた。「影縫いの術!」

彼の足元から黒い影が伸び、紅園灯の分身の影と交差する。しかし、分身は笑って軽やかに飛び上がった。

「残念!私の分身に影はないのよ」

「なっ...」ハヤテは一瞬驚いたが、すぐに冷静さを取り戻した。

紅園灯の分身は結界に近づき、直接手を触れようとする。「この結晶、頂くわね」

「させない!」リリィが叫び、結界から青い光の矢が放たれた。矢は紅園灯の分身を貫いたが、彼女はただ笑っただけだった。

「いい攻撃ね。でも、分身を倒しても意味ないわ」

彼女は再び炎の球を結界に向けて放った。今度は連続して、何発もの炎が結界を襲う。

リリィは苦しげに目を閉じ、結界を維持しようと必死だった。「ハヤテくん...もう少し持つけど...」

ハヤテは焦った。このままでは結界が破られてしまう。彼は再び印を結び、「影縫いの術・拡張」と呟いた。

本殿内の全ての影が彼の足元に集まり始め、床全体が暗く染まっていく。

「何をするつもり?」紅園灯の分身が首を傾げた。

「影に影がなくても...」ハヤテは集中して言った。「光があれば影は生まれる!」

彼は手を天井に向け、そこにあった小さな窓から漏れる夜空の光を捉えた。光が本殿内を照らし、紅園灯の分身の足元に薄い影を作り出す。

「そこだ!」

ハヤテは全力を込めて影縫いの術を放った。影が紅園灯の分身の薄い影を捉え、彼女の動きが止まる。

「あら...やるじゃない」分身は驚いた表情を見せたが、すぐに笑みに変わった。「でも、これでどう?」

彼女の体が炎に包まれ、温度が急上昇する。本殿内が一気に熱くなり、木造の床や柱が焦げ始めた。

「このままだと本殿が燃える!」リリィが叫んだ。

ハヤテは歯を食いしばった。「だが、影縫いを解くと、結晶を奪われる」

紅園灯の分身は歪んだ笑みを浮かべた。「選びなさい。建物を守るか、結晶を守るか」

リリィは決意を固めた表情で言った。「ハヤテくん、影縫いを解いて!私に任せて!」

「何を言っている!結界が...」

「信じて!」リリィの青い瞳が決意に満ちていた。

ハヤテは一瞬迷ったが、リリィの表情を見て頷いた。彼は印を解き、影縫いの術を解除した。

紅園灯の分身は自由を取り戻すと、勝ち誇ったように笑った。「賢明な選択ね」

彼女は結晶に手を伸ばした。その瞬間—

「エモーショナル・マジック・セイクリッド・バリア!」

リリィの全身が青い光に包まれた。彼女の胸の内にある感情—ハヤテへの思い、守りたいという願い、仲間たちとの絆—全てが一つになり、爆発的な魔力となって放出された。

青い光が本殿を満たし、紅園灯の分身を押し返す。同時に、炎も消えていった。

「これは...!」紅園灯の分身が驚愕の表情を見せた。

「星乃家に伝わる最高の結界術よ」リリィは静かに言った。「感情の力を昇華させる術」

青い光は『月蝕の心臓』を中心に、より強力な結界を形成した。紅園灯の分身は結界に触れようとしたが、手が弾かれる。

「こんな...」分身は焦りを見せ始めた。

「ハヤテくん、今よ!」リリィが叫んだ。

ハヤテは瞬時に理解した。リリィの結界が本殿全体を青い光で満たしたことで、紅園灯の分身の影がはっきりと浮かび上がっている。

「影縫いの術・極」

ハヤテは祖父から教わった最高位の影縫いの術を放った。影が床から立ち上がり、三次元的な形となって紅園灯の分身を包み込む。

「こ、これは...!」分身は驚愕の表情を見せた。

「この術は単に動きを封じるだけでなく」ハヤテは冷静に説明した。「力を吸収する」

紅園灯の分身の炎が徐々に弱まっていく。「分身であっても、元の本体に繋がっている。お前の力は俺が吸い取らせてもらう」

「まさか...」分身の姿が薄れ始めた。

神社の外では、本物の紅園灯が突然、苦しみ出した。「うっ...!」

彼女の炎が弱まり、雪村凛の氷に押され始める。

「何が起きた?」火神燈が訝しげに問うた。

相良守が静かに微笑んだ。「ハヤテとリリィが、分身を倒したようだな」

紅園灯は苦しげな表情で後退した。「まさか、あの子たちに...」

鈴木先生は前に出て、「終わりだ、紅園灯。今夜、月蝕の門を開くことはできない」と言った。

紅園灯は悔しげに歯噛みした。「今夜は負けを認めるわ。でも、これで終わりじゃない」

彼女は炎に包まれながら言った。「炎の五芒星はまだ三人...次は黒炎滅が来るでしょう。彼は私よりずっと強いわ」

そう言うと、彼女は炎の中に消えた。

本殿内、紅園灯の分身も完全に消え去った。リリィは魔力を使い果たし、膝をつく。

「リリィ!」ハヤテが駆け寄った。

「大丈夫...守れたね、私たち」リリィは疲れた顔に笑みを浮かべた。

ハヤテは珍しく、彼女の手を取った。「ああ、守り切った」

その時、本殿のドアが開き、鈴木先生たちが駆け込んできた。

「二人とも無事か!」相良守が心配そうに尋ねた。

エリザベスはリリィの姿を見て、安堵の表情を浮かべた。「素晴らしいわ、リリィ。エモーショナル・マジックを見事に使いこなしたのね」

「結晶は?」雪村凛が尋ねた。

ハヤテは『月蝕の心臓』を指さした。青い光を放つ結晶は、依然として台座の上に安全に置かれていた。

「無事だ」

火神燈は感心したように言った。「若いが、二人とも立派な守護者だな」

鈴木先生は二人に近づき、「本当によくやった」と頭を下げた。「だが、紅園灯は逃げた。彼女の言葉によれば、次は黒炎滅が来る可能性がある」

「しかし今夜の勝利は大きい」相良守が言った。「新月の夜を乗り切ったことで、月蝕の門は当分の間、安定するだろう」

エリザベスがリリィの肩を抱いた。「今は休みなさい。二人とも本当によく頑張ったわ」

新月の夜から数日が経ち、学校生活は表面上、平穏に戻っていた。しかし、ハヤテとリリィの間には、あの一晩で生まれた新たな絆があった。

「ハヤテくん、一緒に屋上でお弁当食べよう!」

リリィはいつものように明るく声をかけた。以前なら単にうなずくだけだったハヤテだが、今日は少し柔らかな表情で「ああ、行こう」と答えた。

屋上で二人が弁当を広げていると、鈴木先生がやってきた。

「二人とも、元気そうでよかった」鈴木先生は穏やかに言った。「実は、放課後、ちょっと相談したいことがあるんだ」

「何でしょうか?」リリィが尋ねた。

「詳しくは放課後に。神社で待っているよ」そう言うと、鈴木先生は去っていった。

ハヤテは顔を曇らせた。「また何かあるのか...」

リリィは明るく言った。「大丈夫だよ。私たち、もう一度戦えるよ」

その言葉に、ハヤテは少し驚いた顔をした。以前のリリィなら、不安がる言葉を口にしたはずだ。彼女が一晩で強くなったことを実感した。

相良守が状況を説明した。「『灼熱教団』は失敗したが、諦めてはいない。特に黒炎滅は紅園灯よりも危険な存在だ」

鈴木先生は真剣な表情で言った。「ハヤテ、リリィ、二人には引き続き『月蝕の心臓』の防衛を任せたい。もちろん、私たち大人も協力するが、若い二人の力が必要なんだ」

エリザベスがリリィの手を取った。「あなたたちは見事に力を合わせて紅園灯を撃退した。その絆は、これからも大切にしてほしい」

相良守も珍しく柔らかな表情でハヤテに言った。「お前は立派な忍になった。影縫いの術を極めたのは、相良家でもお前が初めてだ」

ハヤテは祖父の言葉に、静かに頭を下げた。

鈴木先生が最後にハヤテとリリィを見た。「二人には、これからも特訓を続けてほしい。力はまだ発展途上。成長の余地はたくさんある」

その夜、ハヤテはリリィを家まで送ることになった。夜空には三日月が静かに輝いていた。

「不思議だね」リリィが空を見上げて言った。「私たち、こんな大役を任されるなんて」

ハヤテは黙って歩いていたが、やがて口を開いた。「リリィ...あの時、どうして俺を信じた?」

リリィは少し驚いた表情を見せた後、柔らかく微笑んだ。「だって、ハヤテくんだもん」

「俺だから?」

「うん。ハヤテくんなら、きっと私の力を信じてくれるって思ったから」

ハヤテは珍しく照れたように視線を逸らした。「...お前の魔法は確かに強かった」

リリィは嬉しそうに笑った。「エモーショナル・マジックは感情が力になるから。大切な人を守りたいって思う気持ちが、一番強い魔法になるんだよ」

彼女の言葉に、ハヤテの胸の内に温かいものが広がった。

「俺も...」ハヤテは言葉を選びながら言った。「お前を守りたいと思う。それが俺の忍道だ」

その言葉に、リリィの周りに青い光が漂い始めた。今度は制御された、優しい光だった。

「ありがとう、ハヤテくん」

夜空の下、二人の間には新たな絆が芽生えていた。『月蝕の心臓』を守るという使命と共に、互いを守り合うという誓いも。

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