第3話 「束の間の日常と迫る危機」

翌朝、ハヤテが教室に入ると、リリィはすでに席についていた。彼女は窓の外を物思いにふけるように眺めていたが、彼の姿を見つけると、すぐに明るい表情になった。

「おはよう、相良くん!」

「ああ、おはよう」

ハヤテが席に着くと、リリィは小さな声で尋ねた。

「おじいさんに聞いてみた?」

彼は頷いた。

「ああ。思った以上に深刻な話だった…」

その言葉に、リリィの表情が曇った。

「やっぱり…おばあちゃんも、すごく心配していたの」

「放課後、話そう。今日も森に行こう」

リリィは頷いた。その時、担任の鈴木先生が教室に入ってきた。

「おはよう、みんな。今日は大事なお知らせがある」

鈴木先生は眼鏡を直しながら続けた。

「来月、恒例の林間学校がある。場所は例年通り、富士山麓の施設だ。詳細は配布するプリントを見てくれ」

クラス中が歓声に沸いた。林間学校は毎年の楽しみの一つだ。みんなでキャンプファイヤーをしたり、登山をしたり、普段の学校生活では経験できないことができる。

リリィは好奇心に目を輝かせて、ハヤテに聞いた。

「林間学校って何?」

「まあ、林の中にある施設で数日間過ごす行事だな。自然体験とか、仲間との絆を深めるためのものだ」

その説明に、彼女は益々興奮した様子だった。

「すごい!日本の学校って、いろんな行事があるんだね!」

彼女の無邪気な喜びを見て、ハヤテは少し微笑んだ。

「ああ。楽しみにしていればいい」

授業が始まり、一日が過ぎていく。しかし、ハヤテの頭の中は祖父から聞いた話でいっぱいだった。「月蝕の門」の封印という重大な任務。それを彼とリリィが背負うことになるという事実。

昼休み、二人は昨日と同じく食堂で一緒に食事をとった。

「今日の午後は、私のおばあちゃんから聞いた話も教えるね」

リリィが小声で言うと、ハヤテは頷いた。

「俺もじいちゃんから詳しく聞いてきた。比較してみよう」

「うん!それと…」

彼女は少し顔を赤らめて続けた。

「昨日教えてもらった呼吸法、夜に一人でも練習したんだ。すごく効果があったよ!」

「そうか、いいことだ」

ハヤテは本当に感心した。彼女は見た目は華やかだが、努力家の一面もあるようだ。

「でも、まだまだ修行が必要だ。今日はもう少し高度なコントロール法を教えるつもりだ」

リリィは嬉しそうに頷いた。


放課後、二人は再び裏山の森へと向かった。昨日と同じ空き地に着くと、ハヤテは荷物を下ろした。

「今日は、呼吸法に加えて、『気』を集中させる訓練をする」

彼は地面に小さな石を置いた。

「この石に意識を集中させ、持ち上げてみろ」

リリィは少し驚いた表情を見せた。

「テレキネシス?それって上級魔法じゃ…」

「違う。純粋に魔力を一点に集中させる訓練だ。持ち上げることが目的じゃない。集中することが目的だ」

彼女は納得して、石の前に座った。目を閉じ、昨日習った呼吸法を始める。

「そう、その調子だ。呼吸を整えて、意識を石に集中させろ」

リリィの周りに、わずかに魔力の光が現れ始めた。彼女は目を閉じたまま、両手を石に向けた。

「焦るな。ゆっくりでいい」

ハヤテの静かな声に導かれ、彼女の魔力が少しずつ石に集まっていく。

しかし、突然、彼女の体が震え始めた。

「あ…」

リリィの顔が苦しそうに歪む。魔力のコントロールを失いかけている。

「落ち着け。深呼吸だ」

ハヤテが声をかけるが、すでに遅かった。彼女の周りの魔力が爆発的に膨張し、近くの草木が揺れ始めた。

「ご、ごめん…」

彼女の声は震えていた。

咄嗟にハヤテは彼女の背後に回り、両手を彼女の肩に置いた。

「俺の『気』を感じろ。それに合わせるんだ」

彼は忍術の基本である「気の流れの統制」を使って、リリィの乱れた魔力を包み込むように自分の気を流した。

彼女の体が次第に落ち着き始める。魔力の暴走が止まり、周囲の草木の揺れも収まった。

「はぁ…はぁ…」

リリィは肩で息をしていた。

「ありがとう…助かった」

「無理するな。一歩一歩だ」

ハヤテが彼女の肩から手を離すと、リリィは振り返った。その瞳には涙が浮かんでいた。

「私、本当に下手くそだね…」

「いや、むしろ才能がある方だ。初めての訓練でここまでできるなら」

彼の言葉に、彼女は少し明るい表情を取り戻した。

「本当?」

「ああ。俺だって、初めて『気』を扱った時は、もっと酷かったさ」

その言葉に、リリィは微笑んだ。

「相良くんも失敗することあるんだ…なんだか安心した」

彼女の素直な言葉に、ハヤテは思わず顔が熱くなるのを感じた。

「さて、少し休憩してから、『月蝕の門』の話をしよう」

二人は木陰に移動し、持ってきた水筒から水を飲んだ。

「じいちゃんから聞いた話だと、三十年前、『月蝕の門』が開きかけたとき、じいちゃんと君のおばあさんが血の封印をしたらしい」

リリィは頷いた。

「うん。おばあちゃんも同じことを言ってた。二人の血を混ぜた特別な封印で、三十年間は門を閉じておけるって」

「そして、今年の冬至にその封印が切れる…」

「そう。だから私たちが新しい封印をしなきゃいけないの」

リリィは真剣な表情で続けた。

「でも、単純に血を混ぜるだけじゃダメなんだって。特別な儀式が必要で、そのためには私たちがそれぞれの力を完全にコントロールできるようになる必要があるの」

ハヤテも頷いた。

「じいちゃんも同じことを言っていた。だから、これからの修行が大切なんだ」

二人は黙って、夕暮れの森を見つめた。

「怖くない?」

突然、リリィが小さな声で聞いた。ハヤテは正直に答えた。

「ああ、怖いさ。でも、俺たちにしかできないことなら、やるしかないだろう」

彼女は彼の強さに少し勇気づけられたように見えた。

「うん…そうだね。私も頑張る!」

空が赤く染まり始め、そろそろ帰る時間になった。二人は荷物をまとめ、森を出た。

「明日も来る?」

別れ際、リリィが尋ねた。

「ああ。毎日続けないと意味がない」

彼女は嬉しそうに頷いた。

「うん!じゃあ、また明日!」

ハヤテは彼女が去っていく姿を見送った後、空を見上げた。美しい夕焼けの中に浮かぶ月が、何かを予感させるように輝いていた。


それから数週間、二人は放課後になると必ず森で特訓を続けた。ハヤテは祖父から教わった特別な忍術の基礎を、リリィに応用して教えた。そして、週末には彼の家で祖父から直接指導を受けることもあった。

相良守と初めて会った日、リリィは緊張した面持ちで挨拶をした。

「は、はじめまして!星乃リリィです。おばあちゃんからよろしくお伝えくださいと…」

守は厳しい表情を崩さなかったが、彼女の挨拶を聞くと、わずかに表情が和らいだ。

「エリザベスによく似ているな…」

その言葉に、リリィは少し驚いた様子だった。

「おばあちゃんのこと、よく知ってるんですね」

守は昔を思い出すように目を細めた。

「ああ、よく知っている。彼女は強く、美しく、そして頑固な魔法使いだった」

その描写に、リリィは嬉しそうに笑った。

「今も全く同じです!特に頑固なところは」

守も微かに笑みを浮かべた。

「さて、今日からは本格的な修行を始める。二人とも覚悟はいいな?」

ハヤテとリリィは揃って頷いた。

その日から、週末は相良家での特訓が日課となった。守は容赦なく、二人に厳しい訓練を課した。「気」と「魔力」の流れを一致させること、感情のコントロール、そして何より「血の封印術」の基礎知識を教え込んだ。

リリィは当初、厳しい訓練についていくのに苦労していたが、持ち前の明るさと根性で乗り切った。時に涙を流しながらも、決して諦めなかった。

そんな彼女の姿を見て、ハヤテは次第に尊敬の念を抱くようになっていった。

学校では、彼らの秘密の特訓を知る者はいない。二人は普通の高校生として日々を過ごし、放課後や週末だけ「異能者」としての訓練に励んだ。

しかし、そんな平穏な日々に、少しずつ異変が訪れ始めていた。

五月下旬のある日、朝のニュースで奇妙な現象が報じられた。

「昨夜、関東地方の複数地点で原因不明の発光現象が観測されました。専門家は大気中の電気的現象ではないかと分析していますが…」

学校に向かう途中、ハヤテはそのニュースを街頭のテレビで見ていた。彼の直感が鋭く反応する。

教室に着くと、リリィも同じニュースを携帯で見ていた。彼女は彼の姿を見るなり、心配そうな表情で近づいてきた。

「これって…」

ハヤテは小さく頷いた。

「ああ、多分『月蝕の門』の前兆だろう。じいちゃんが言っていた『世界の境界が薄くなる』という現象かもしれない」

リリィの表情が暗くなった。

「時間がないかもしれないね…」

「ああ。今日の放課後、じいちゃんに確認してみよう」

その日の授業中、二人は落ち着かない様子だった。ハヤテは窓の外を見つめ、何か異常を感じないか注意深く観察していた。リリィも神経質に指先を動かし、不安を隠せない様子だった。

放課後、二人は急いで相良家へ向かった。

「じいちゃん、見たか?朝のニュース」

リビングにいた守は、深刻な面持ちで頷いた。

「ああ、見た。予想よりも早く始まっている」

テーブルの上には、古い巻物が広げられていた。

「これは『月蝕の記録』だ。過去の『月蝕の門』が開いた時の記録が書かれている」

守は巻物の一部を指さした。

「ここに書かれているのは、百年前の記録だ。当時も同じように、不可解な光の現象から始まり、次第に物理法則に反する出来事が増えていった」

リリィが恐る恐る尋ねた。

「どんな出来事ですか?」

「重力の逆転、時間の流れの歪み、さらには幻影の出現…次第にこの世界の法則が崩れていくんだ」

守の表情は厳しかった。

「冬至までに門が開くと思っていたが、もっと早まる可能性もある。二人とも、修行を倍にしよう」

ハヤテとリリィは顔を見合わせ、固く頷いた。

「了解」


六月初旬、林間学校の日が近づいていた。しかし、ハヤテとリリィの心には常に「月蝕の門」の不安がつきまとっていた。

それでも、学校では普通の高校生を演じなければならない。特に林間学校のような大きな行事では、目立たないように振る舞う必要があった。

教室で、係決めの話し合いが行われていた。

「キャンプファイヤーの出し物を考える係を決めましょう」

クラス委員長が提案し、数人の名前が挙がった。

「星乃さんはどう?海外の文化を教えてもらえるかも」

誰かがリリィの名前を挙げた。彼女は少し困った表情を見せたが、周囲の後押しもあり、結局引き受けることになった。

「相良も手伝ってあげてよ」

クラスメイトの一人がハヤテを指名した。彼は断ろうとしたが、リリィが助けを求めるような目で見つめてきたため、しぶしぶ頷いた。

「わかった…」

こうして、二人は林間学校のキャンプファイヤー出し物係になった。それは、彼らの特訓時間をさらに圧迫することを意味していた。

放課後、森での訓練後、二人は図書室に残り、出し物の相談をすることになった。

「どうしよう…時間がないのに」

リリィは心配そうに呟いた。

「仕方ない。手早く済ませるしかない」

ハヤテは現実的な提案をした。

「簡単なクイズ大会とかはどうだ?複雑な準備もいらないし」

「うーん、でも、せっかくだからもう少し面白いことをしたいな…」

リリィが考え込んでいると、突然、窓の外で奇妙な光が走った。

「!」

二人は反射的に窓に駆け寄った。空には何もないが、確かに一瞬、異常な光が走ったように見えた。

「また始まった…」

ハヤテが緊張した表情で言うと、リリィも顔色を変えた。

「やばいよ…このままじゃ」

「とにかく、修行を続けるしかない」

彼は彼女の肩を軽く叩いた。

「出し物のことは後回しにしよう。今は訓練が先だ」

リリィは少し迷ったが、結局頷いた。

「うん…そうだね」

二人は急いで荷物をまとめ、再び森へと向かった。特訓の時間を少しでも増やすためだ。

林間学校は一週間後に迫っていた。そして、『月蝕の門』の兆候も日に日に強まっていた。時間との戦いが、静かに、しかし確実に始まっていたのだ。

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