第2話 「清掃当番と秘密の修行」

翌朝、ハヤテが教室に入ると、黒板に今週の当番表が書かれていた。目を細めて確認すると、今日の清掃当番に自分の名前があった。そして、その隣には「星乃リリィ」の文字。

(一緒か…)

彼が席につくと、すぐに後ろから元気な声が聞こえた。

「おはよう、相良くん!」

振り返ると、リリィが満面の笑みで立っていた。

「おはよう」

そっけない返事をしたハヤテだったが、彼女はまったく気にした様子もなく、自分の席に着いた。

「今日の清掃当番、一緒だね!」

「ああ」

「楽しみだな!日本の学校の清掃当番って、イギリスにはないシステムなんだ」

彼女の目は好奇心で輝いていた。ハヤテは思わず苦笑した。掃除を楽しみにする転校生というのも珍しい。

授業が始まり、一日が過ぎていく。ハヤテは時折、隣のリリィに視線を向けていた。彼女は真剣な表情で授業に取り組んでいる。時々日本語がわからずに困った表情をするが、それでも懸命に理解しようとする姿勢が見て取れた。

(なかなか、頑張り屋だな…)

ハヤテはそう思いながらも、昨日の彼女の言葉を思い出していた。「月蝕の門」が再び開こうとしている——それが本当なら、大変なことになる。祖父から聞いた話では、門が開けば、この世界と異世界の境界が崩れ、想像を絶する混乱が起きるという。

(じいちゃんに確認しないと…)

放課後、最後の授業が終わると、クラスメイトたちが次々と帰り始めた。残ったのは清掃当番のハヤテとリリィ、それに数人の生徒たちだった。

「さて、掃除を始めますか!」

リリィが元気よく言うと、他の当番の生徒たちは少し驚いた表情を見せた。普通、清掃当番を楽しみにする人間はいないからだ。

「あの…星乃さんは転校生だから、無理しなくていいよ」

クラスの女子が優しく声をかけると、リリィは首を振った。

「いいの!私、日本の学校生活、全部体験したいんだ!」

彼女の熱意に、皆は少し戸惑いながらも笑顔になった。

「じゃあ、星乃さんは相良君と一緒に廊下と階段の掃除をお願いできる?」

リリィはすぐに承諾し、ハヤテの方を振り向いた。

「よろしくね、相良くん!」

彼は無言で頷き、掃除道具を取りに行った。

廊下に出ると、リリィはほうきの使い方に悪戦苦闘していた。どうやら、イギリスでは掃除機が主流で、ほうきを使った経験があまりないらしい。

「こう持つんだ」

ハヤテがほうきの正しい持ち方を教えると、彼女は感謝の笑みを浮かべた。

「ありがとう!なんだか、相良くんって優しいね」

「…別に」

彼は少し照れたように顔を背けた。

二人で黙々と掃除を進めていく。時折、リリィが日本の学校システムについて質問してきた。給食の仕組みや部活動のこと、さらには制服の歴史まで、彼女の好奇心は尽きることがないようだった。

「あの、相良くん」

廊下の掃き掃除が終わり、階段に移動したとき、リリィが真剣な表情で話しかけてきた。

「なに?」

「今日の放課後、森での修行…本当にいいの?」

ハヤテは少し考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。

「ああ。というか、俺も君の言ってた『月蝕の門』のことをじいちゃんに確認したいし」

その返事に、リリィの顔が明るくなった。

「ありがとう!じゃあ、掃除が終わったら、一緒に行こう!」

彼女の笑顔は、まるで太陽のように眩しかった。

掃除を終え、二人は学校の裏手にある小さな森へと向かった。正門からは少し離れたところにある裏門から出ると、すぐに木々が生い茂る森が広がっている。

「わぁ…すごい気配だね」

リリィが感嘆の声を上げた。確かに、ここは普通の森ではない。古くから「聖地」として崇められてきた場所で、霊的なエネルギーが濃縮されている。

「ここなら、魔力が暴走しても、ある程度は森が吸収してくれるはずだ」

ハヤテの説明に、リリィは感心した様子で頷いた。

「さすが忍者さん!よく知ってるね」

「当たり前だ。ここは俺たち忍にとっても重要な修行場だからな」

二人は森の奥へ進んでいった。木々の間から漏れる夕日の光が、幻想的な雰囲気を醸し出している。

小さな空き地に着くと、ハヤテは立ち止まった。

「ここなら誰にも邪魔されない」

彼は袋からタオルを取り出し、地面に敷いた。

「さて、まずは基本から。魔力のコントロールのためには、まず自分の感情をコントロールする必要がある」

リリィは真剣な表情で頷き、ハヤテの前に正座した。

「感情が高ぶると魔力が暴走するんだよね?」

「ああ。だから、まずは呼吸法から始めよう。忍術でも、『気』を操るためには呼吸が基本だ」

ハヤテは、祖父から教わった基本的な呼吸法を説明し始めた。深く息を吸い、ゆっくりと吐く。単純だが、集中力と精神統一には効果的だ。

リリィは彼の指示に従い、目を閉じて呼吸に集中し始めた。

数分が経過し、彼女の周りの空気が変わり始めた。わずかに魔力の光が彼女を包み込む。

「そう、その調子だ」

ハヤテが静かに声をかけると、リリィは少し微笑んだ。しかし、その瞬間、彼女の周りの魔力が急に膨張した。

「あっ…!」

彼女の髪が浮き上がり、周囲の小さな石ころが宙に舞い始めた。

「星乃、集中するんだ。感情に流されるな」

ハヤテの声に、リリィは必死に頷いた。

「う、うん…でも、難しい…」

彼女の声は震えていた。魔力の暴走は、彼女自身にとっても恐ろしい経験なのだろう。

ハヤテは決断した。彼女の前に座り、両手を差し出す。

「俺の手を握れ」

リリィは驚いた表情を見せたが、言われた通りに彼の手を握った。

「今から俺の呼吸に合わせろ。俺が吸うとき、君も吸う。吐くときも同じだ」

彼は静かに呼吸を始めた。ゆっくりと、深く。

リリィは彼の呼吸のリズムに自分を合わせようと努力した。最初はぎこちなかったが、次第に二人の呼吸が同調していく。

不思議なことに、彼女の周りの暴走していた魔力が、徐々に落ち着き始めた。浮いていた石ころが、一つ一つ地面に戻っていく。

「すごい…効いてる…」

リリィが小さく呟いた。

「忍と魔法使い、技は違えど基本は同じなんだよ」

ハヤテはそう言いながら、ゆっくりと手を離した。

「あと30分ほど、この呼吸法を続けるんだ。慣れてくれば、自然と体が覚えていく」

ハヤテの指示に従い、リリィは集中して呼吸を続けた。時折、魔力が漏れ出しそうになるが、すぐに自分で抑え込めるようになってきた。

「すごい!こんなに早く効果が出るなんて!」

練習が終わり、リリィは嬉しそうに目を輝かせた。

「まだ始まったばかりだ。毎日継続しないと意味がない」

ハヤテが厳しく言うと、彼女は真剣な表情で頷いた。

「うん、わかってる。私、絶対に魔力をコントロールできるようになるから!」

その決意に満ちた表情を見て、ハヤテは思わず微笑んだ。彼女の純粋さと前向きな姿勢は、見ていて心地よかった。

「そろそろ帰ろう。暗くなってきた」

空を見上げると、すでに夕焼けが濃くなり始めていた。二人は荷物をまとめ、森を出た。

校門までの道のりで、リリィが唐突に質問を投げかけた。

「相良くんは、『月蝕の門』のことを信じてる?」

ハヤテは少し考えてから答えた。

「正直、わからない。じいちゃんから聞いた話だけど、具体的なことはあまり教えてもらってなくて…」

「そうなんだ…」

彼女は少し寂しそうな表情になった。

「でも、あんたのおばあさんが言ってるなら、何かあるんだろう。今夜、じいちゃんに聞いてみる」

その言葉に、リリィの顔が明るくなった。

「ありがとう!明日、教えてね」

別れ際、彼女は軽く手を振って去っていった。その後ろ姿を見送りながら、ハヤテは複雑な思いを抱いていた。

(魔法使いと忍者…普通なら交わることのない二つの世界。それが今、何かの因縁で交差し始めている)


「ただいま」

ハヤテが家に帰ると、古い木造家屋の中から、祖父の声が返ってきた。

「おかえり、ハヤテ」

リビングに入ると、相良守——ハヤテの祖父が、古い掛け軸を眺めていた。七十代半ばとは思えない鋭い眼光を持ち、背筋はまっすぐに伸びている。現役を退いた今でも、忍の鍛錬を欠かさない厳格な人物だ。

「じいちゃん、聞きたいことがあるんだけど」

ハヤテが椅子に座ると、祖父はゆっくりと掛け軸を巻き、彼の方を向いた。

「珍しいな。お前が俺に質問するなんて」

「『月蝕の門』って、知ってる?」

その言葉を聞いた瞬間、祖父の表情が一変した。鋭い目が、さらに鋭くなる。

「どうして急にそんなことを…」

「学校に、イギリスからの転校生が来たんだ。星乃リリィって言って…」

「星乃…!」

祖父が突然立ち上がった。その反応にハヤテは驚いた。

「やはり来たか…」

守はため息をつきながら、古い桐箪笥に向かった。一番下の引き出しから、黄ばんだ封筒を取り出す。

「これを見るがいい」

差し出された封筒をハヤテが開けると、中には一枚の古い写真が入っていた。それは三十年ほど前のもので、若かりし日の祖父と、金髪の美しい西洋人女性が写っていた。二人は何かの儀式の装束を身に着け、背景には満月が輝いている。

「この人は…」

「エリザベス・スター。今は、星乃エリザベスと名乗っているかもしれんな」

祖父の声には、懐かしさと複雑な感情が滲んでいた。

「星乃リリィのおばあさんか」

「そうだ。彼女は当時、日英交流プログラムで日本に来ていた若い魔法使いだった。そして、私たちは共に『月蝕の門』の封印に挑んだ」

ハヤテは写真を見つめながら聞いた。

「その『月蝕の門』って、いったい何なんだ?」

祖父は窓の外の月を見つめながら語り始めた。

「はるか古代から、この世界と異世界の間には『門』が存在すると言われている。通常は固く閉ざされているが、特定の条件が揃うと開こうとする。それが『月蝕の門』だ」

「条件って?」

「月食と日食が同じ年に起こり、冬至と夏至が特定の星の配列と重なった時…」

祖父は続けた。

「門が開くと、異世界の存在がこちらの世界に流れ込む。それは単なる生物ではない。法則や理が違う世界の『概念』そのものがこちらに侵食してくるんだ」

ハヤテは息を呑んだ。

「三十年前、私とエリザベスは若かった。二人とも自分の能力に自信があった。だが、門の力は想像を超えていた…」

祖父の目が遠くを見つめる。

「私たちは最後の手段として、自分たちの血で一時的な封印を施した。それが三十年持つはずだった…」

「そして今年、その封印が切れる…」

ハヤテが言葉を続けると、祖父は重々しく頷いた。

「その通りだ。そして今年もまた、条件が揃う。冬至の夜、門は再び開こうとする」

「でも、じいちゃん。なぜリリィが言うには、俺たちじゃないと門を封じられないって…」

祖父は深いため息をついた。

「封印の儀式には、かつての封印者の血を引く者が必要なんだ。私とエリザベスの血を引く者…つまり、お前とリリィだけが、新たな封印を施せるのさ」

部屋に重い沈黙が流れた。

「なんで今まで教えてくれなかったんだ?」

ハヤテの問いに、祖父は苦しそうな表情を見せた。

「お前に普通の人生を送ってほしかった。忍の血を引くだけでも十分に大変なのに、こんな宿命までも背負わせたくなかった…」

「でも、もう逃げられないんだね」

祖父は黙って頷いた。

「明日から、特別な修行を始める。時間がない。冬至まであと七ヶ月しかないのだから」

ハヤテは決意を固めた。

「わかった。リリィとも話して、一緒に特訓する」

祖父は驚いた表情を見せた。

「彼女とはもう親しくなっているのか?」

「ああ、一応…今日から魔力のコントロール方法を教え始めたところだ」

その言葉に、祖父は微かに笑みを浮かべた。

「私とエリザベスの時と同じだな…彼女も最初は魔力のコントロールが下手で、よく暴走させていた」

懐かしそうに語る祖父の表情に、ハヤテは何か特別な感情を感じ取った。二人の関係は、単なる同志以上のものがあったのかもしれない。

「とにかく、明日からは本格的に始めるぞ。学校が終わったら、すぐに帰ってこい」

「了解」

ハヤテは写真を祖父に返し、自分の部屋へと向かった。今日一日の出来事を思い返しながら、彼は窓から見える月を見つめた。

(月蝕の門…俺とリリィが封印する…か)

その運命に、恐れと同時に、何か不思議な高揚感も覚えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る