ニンジャと恋する5秒前
すぎやま よういち
第1話 「出会いは突然に」
春風が桜の花びらを舞わせる四月の朝。東京都心から少し離れた緑豊かな高台に建つ「帝都学園」の正門前で、相良ハヤテは静かに立ち尽くしていた。
まばゆい朝日が校舎に反射して眩しい。自然と目を細める彼の黒髪が、風に少し揺れる。制服の第一ボタンを留めながら、彼は深く息を吐いた。
「新学期か…」
口から漏れた言葉は、すぐに周囲の雑踏に飲み込まれていく。彼の周りを何十人もの生徒たちが通り過ぎていくが、不思議なことに誰一人としてハヤテに気づかない。まるで彼がそこに存在していないかのように。
それは偶然ではない。
相良ハヤテ、十七歳。表向きは普通の高校二年生だが、実際は代々続く忍の一族の末裔だった。「気配を消す」という忍術の基本中の基本を、彼は無意識のうちに使っている。
「おい、相良!」
突然、背後から声がかかった。振り返ると、クラスメイトの田中が大きく手を振っていた。
「また悪い癖が出てるぞ。存在感、ゼロだったぞ」
ハヤテは小さく笑いながら手を挙げて応える。「悪い、気をつける」
「お前、今年もクラス一緒らしいな。よろしく頼むぜ」
田中は肩をポンと叩くと、先に歩き出した。
そう、この学校——帝都学園は「特別区認定校」と呼ばれる特殊な施設の一つだ。表向きは一般的な進学校だが、実は異能者たちが普通の学生と共に学ぶための場所でもある。学園の一般生徒たちは、自分たちの中に異能を持つ者がいることを知らない。そして異能者たちは、決して自分たちの力を表に出してはならないという厳格なルールの下で学園生活を送っていた。
教室に入ると、すでに数人の生徒たちが席についていた。誰一人としてハヤテを異能者だとは思っていない。彼らの目には、ただの地味な高校生としか映っていないのだ。
「相良、おはよう」
声をかけてきたのは風間と細井。彼らも忍の家系だった。同じ異能者同士、お互いの「気」を感じ取ることができる。
「おう」
ハヤテが席につき、教科書を出していると、教室のドアが開いた。眼鏡をかけた中年の男性教師——鈴木先生が入ってきた。
「おはよう、みんな。新学期だな。今日から担任を務める鈴木だ。よろしく」
少し禿げ上がった頭を手で撫でながら、鈴木先生はそう言った。
「さて、今日はクラスに転校生を迎える。イギリスからの留学生だ。入ってきなさい、星乃さん」
教室のドアが再び開かれた。
その瞬間、教室全体が明るくなったように感じた。金色の長い髪を靡かせ、透き通るような青い瞳を持つ少女が、微笑みながら入ってきたのだ。
「はじめまして、星乃リリィです。イギリスから来ました。よろしくお願いします!」
彼女の声は、まるで小鳥のさえずりのように明るく澄んでいた。
しかし、ハヤテにとって、その姿は単なる「明るい転校生」では決してなかった。彼女の周りにまとわりつく微かな光の粒子——それは一般人には見えない「魔力」の痕跡だった。
(魔法使い…!)
ハヤテの目が鋭く細まる。魔法使いの家系は日本にも少なからず存在するが、西洋系の血を引く者はめったにいない。おそらく彼女は相当な家柄の出なのだろう。
「星乃さんの席は…そうだな、相良君の隣が空いているな。そこに座りなさい」
鈴木先生の言葉に、クラスメイトたちの間で小さなざわめきが起こった。目立たない相良の隣に、あんな美少女が座るなんて——という声が聞こえる。
リリィはクラスメイトたちに軽く会釈をしながら、指定された席へと向かった。彼女がハヤテの隣に座ったとき、ふと二人の目が合う。
「よろしくね、相良くん」
彼女が微笑んだ。
その瞬間、ハヤテは直感的に悟った。この出会いが、彼の平穏だった学園生活を大きく変えることになるだろうと。
________________________________________
授業が始まり、教室は静かになった。
鈴木先生の歴史の講義。ハヤテはノートを取りながらも、時折、隣の席のリリィに視線を向けていた。彼女は一生懸命にノートを取っているが、日本語での授業についていくのが少し大変そうだ。
(魔法使いが転校してきたか…どういう風の吹き回しだ?)
忍の家系と魔法使いの家系——日本においては古くから敵対関係にあることが多かった。現代では表立った争いはなくなったものの、互いに一定の距離を保っているのが普通だ。
「あの…」
小さな声で呼びかけられ、ハヤテは我に返った。リリィが困った表情で彼を見ていた。
「この漢字、読み方がわからなくて…」
彼女が指さしたのは「暦」という字だった。
「こよみ」
ハヤテが短く答えると、リリィは明るく微笑んだ。
「ありがとう!」
その笑顔は、まるで太陽のように眩しかった。ハヤテは思わず目を逸らす。
授業が進むにつれ、リリィからの「この漢字は?」という質問が何度か続いた。答えるたびに彼女は満面の笑みを浮かべる。そのたびに、ハヤテはわずかに胸の高鳴りを感じた。
(危険だ…警戒を解くな)
自分に言い聞かせながらも、彼女の純粋な笑顔に、どこか心が揺れる感覚を覚えた。
昼休みになり、教室内が騒がしくなった時、リリィは立ち上がってハヤテの机の前に立った。
「相良くん、一緒にお昼食べない?」
その提案に、クラスの数人がこちらを振り向いた。目立たない存在のハヤテに、転校初日の美少女が声をかけたのだから当然だろう。
「…別にいいけど」
ハヤテはそっけなく答えたが、内心は少し混乱していた。なぜ彼女は自分に近づこうとするのか?何か目的があるのだろうか?
二人は学生食堂へ向かった。入り口でリリィが立ち止まる。
「わぁ…日本の学食って、こんなに賑やかなんだね!」
彼女の目は好奇心で輝いていた。
「初めて?」
「うん!イギリスの寄宿学校では、もっと静かな食堂だったから…」
リリィは興奮した様子で周囲を見回していた。しかし、その瞳の奥には、何か別の感情も見え隠れしているように思えた。
食事を受け取って席に着くと、リリィはハヤテを不思議そうに見つめた。
「相良くんって、不思議な人だね」
「どういう意味だ?」
「なんていうか…そこにいるのに、いないみたいな」
その言葉に、ハヤテは箸を止めた。彼女は異能者の気配を感じ取れているのか?
「気のせいだろ」
彼がそう答えると、リリィは首を傾げた。
「そうかな?私、人の感覚には自信があるんだけど…」
静かな声でそう言いながら、彼女は急に小さく「あっ」と声を上げた。
次の瞬間、リリィの持っていたジュースのカップが、何の前触れもなく浮き上がった。
「!」
ハヤテは反射的に周囲を見回す。誰も気づいていない。咄嗟に彼は立ち上がり、浮いたカップを手で押さえつけた。
「何してるんだ…」
低い声で問いかけると、リリィは困ったように笑う。
「ごめんなさい…ちょっと、興奮しちゃって…」
それは明らかに「魔力の暴走」だった。感情が高ぶると力がコントロールできなくなる——典型的な若い魔法使いの特徴だ。
「気をつけろよ。ここは一般人もいるんだ」
彼の忠告に、リリィは恥ずかしそうに頷いた。
「うん…気をつける。でも…」
彼女は少し顔を赤らめて続けた。
「相良くんは、私が何者か気づいてるんだね?」
その問いかけに、ハヤテは一瞬躊躇った。しかし、隠し通せるような状況でもない。彼は小さく頷いた。
「君も、俺のことがわかってるんだろ?」
リリィの目が輝いた。
「うん!昨日、学園に案内された時に先生から聞いたんだ。この学校には忍者の家系の人もいるって」
彼女は興奮した様子で続けた。
「私、忍者って初めて会ったんだよ!すごく興味あるの!」
ハヤテは思わず頭を抱えた。彼女は注目されることに全く気づいていないようだ。周囲の数人が、彼らの会話に興味深そうな視線を向けている。
「…声、小さくしろ」
彼の忠告に、リリィは慌てて口を手で覆った。
「あ、ごめん…秘密なんだよね」
ハヤテはため息をつきながら、箸を持ち直した。
「放課後、話があるなら屋上に来い」
その言葉に、リリィは嬉しそうに頷いた。
________________________________________
放課後、ハヤテは屋上のドアを開けた。春風が心地よく吹き抜けていく。
すでにリリィは先に到着していたようで、手すりに寄りかかって空を見上げていた。彼女の金色の髪が、夕日に照らされて煌めいている。
ハヤテが近づくと、彼女は振り返った。
「来てくれたんだね、相良くん!」
「…約束したからな」
彼は手すりに寄りかかり、遠くの景色を眺めた。東京の街並みが一望できる。
「実は私、相良くんに会いに来たんだ」
唐突な告白に、ハヤテは目を見開いた。
「俺に?なんで?」
リリィは空を見上げながら答えた。
「私のおばあちゃんが言ってたの。『日本に行ったら、相良という名前の忍者の家系を探しなさい』って」
「俺のじいちゃんを知ってるのか?」
彼女は頷いた。
「うん。おばあちゃんによると、三十年前に一緒に戦ったって…『月蝕の門』が開こうとしていた時に」
その言葉に、ハヤテの体が強張った。「月蝕の門」——それは彼も祖父から聞いたことがある言葉だ。三十年前、異世界への扉が開きかけたという伝説的な出来事。
「そのことなら、じいちゃんからも聞いてる。でも、なぜ今になって…」
リリィの表情が真剣になった。
「また『月蝕の門』が開こうとしているの」
風が二人の間を吹き抜けた。
「冗談だろ…」
「冗談じゃないよ。おばあちゃんが見た予言では、今年の冬至に門が開く。そして、それを止められるのは…」
彼女はハヤテの目をまっすぐ見つめた。
「私たちだけなんだって」
その瞬間、リリィの周りに淡い光の粒子が舞い始めた。感情の高ぶりによって、無意識に魔力が漏れ出している。
「落ち着け」
ハヤテが声をかけると、彼女は深呼吸をして自分を落ち着かせようとした。しかし、その努力もむなしく、リリィの足元から徐々に浮き始めた。
「あっ…!」
慌てる彼女を見て、ハヤテは反射的に手を伸ばした。リリィの手をつかみ、彼女を引き寄せる。
二人の距離が急に縮まった。
「相良くん…」
リリィの顔が赤くなる。そして、その感情の高まりと共に魔力が更に暴走し始めた。彼女の周りの空気が揺らめき、髪が静電気で浮き上がっていく。
「こ、これ以上、近づいちゃダメ!私、感情が高ぶると魔力がコントロールできなくなるの!」
彼女の警告に、ハヤテはすぐに手を離した。しかし、すでに手遅れだった。
リリィの周りの空気がねじれ、突風が発生した。彼女の制服のスカートが大きく舞い上がる。
「きゃあっ!」
恥ずかしさで彼女の感情がさらに高まり、魔力の暴走が加速する悪循環。屋上の植木鉢が次々と浮き上がり始めた。
(まずい…このままじゃ…!)
ハヤテは決断した。忍術の封印の印を結び、リリィに向かって駆け寄る。
「星乃!目を閉じろ!」
彼女が言われた通りに目を閉じた瞬間、ハヤテの指先から淡い青い光が放たれた。それはリリィの周りを取り囲み、彼女の暴走する魔力を一時的に抑え込んだ。
風がやみ、浮いていた物体がゆっくりと地面に降りていく。
リリィがおそるおそる目を開けた。
「何したの…?」
「一時的な封印術だ。効果は長くは続かないけどな」
ハヤテは少し疲れた表情で答えた。
「ごめんなさい…迷惑かけちゃって」
彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいさ。でも、魔力のコントロールはもっと練習したほうがいい」
その言葉に、リリィは急に顔を輝かせた。
「そうだ!相良くん、私に魔法のコントロール方法を教えてくれない?」
「は?俺は忍だぞ?魔法は使えない」
「でも、感情のコントロールとか、気配を消す方法とか…きっと共通点があるはずだよ!」
彼女の熱意に、ハヤテはため息をついた。
「考えておく…」
その答えに、リリィは満面の笑みを浮かべた。まるで、すでに承諾を得たかのように。
「ありがとう!あ、そうだ」
彼女は急に思い出したように言った。
「学校の裏手にある森は、魔力の流れがすごくいいんだって。先生が言ってたよ。そこで練習するのはどうかな?」
ハヤテは驚いた。その森は、彼も忍術の修行のためによく使う場所だった。確かに「気」の流れが良い場所だ。
「…そうだな、それも悪くない」
彼の返事に、リリィは喜びのあまり小さくジャンプした。
「やった!じゃあ、明日から放課後、一緒に修行だね!」
夕日に照らされた彼女の笑顔を見ながら、ハヤテは思った。
(これから、一体どうなるんだろう…)
だが不思議と、その予感は悪いものではなかった。
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