第3話 声を持たなかった子

その青年は、言葉を持たなかった。

 いや、正確に言えば、言葉を出す手段を持たなかった。


 彼の名は水野祐樹(みずの・ゆうき)。

 生まれつき軽度の知的障害があり、言語の発達が極端に遅れていた。

 成長してからも、発語は単語にとどまり、会話を成立させるには“別の手段”が必要だった。


 そして、彼が死刑判決を受けた罪状は、「殺人」だった。


 


 控え室に入った私は、彼の前に座った。

 祐樹はうつむき、両手を膝の上にきちんと揃えていた。顔を上げようとしない。


 「こんにちは、水野さん。少しだけ、お話しさせてください」


 彼は返事をしなかったが、小さくうなずいた。

 それが彼にとっての「はい」だった。


 机の上には、何冊かのスケッチブックが積まれていた。

 私はその一番上をそっと開く。色鉛筆で描かれた絵。拙い線。だけど、どこか、心に刺さるような絵だった。


 そこには、猫が描かれていた。白と茶色のぶち模様。隅っこには、青空と草原があった。


 「この猫、あなたが描いたの?」


 祐樹はまた、うなずいた。口元にかすかな微笑が浮かぶ。


 ──記録によれば、事件は2年前。

 当時働いていた清掃会社で、同僚のひとりを突き飛ばし、頭を打って死亡させた。

 目撃者によれば、「突然キレて暴れ出した」とのことだった。


 だが祐樹は一貫して黙秘を続け、弁護側も説得できなかった。

 結果、動機不明の殺人として扱われ、死刑が言い渡された。


 


 「水野さん、私は“執行人”です。……あなたの命を、送る立場にいます」

 「でも、あなたの気持ちを、知っていたいんです。教えてください」


 私はそう言って、空白のページにペンを置いた。


 すると彼は、ゆっくりと描き始めた。


 


 最初に描かれたのは、小さな男の子だった。髪は黒く、目は大きい。

 その隣に描かれたのは、おそらく母親。優しく男の子を抱いている。


 その次のページでは、母親が泣いていた。

 男の子は隅っこで震えている。母の背後に、大きな男の影があった。目がつり上がり、手にはベルト。


 ……虐待だった。


 祐樹の生い立ちは詳しく記録に残っていなかったが、絵は全てを物語っていた。


 


 次の絵。

 男の子が、施設で孤立している。

 周りの子どもたちが笑う中、彼だけが離れて立っていた。文字が描かれている。

 「バカ」「キモイ」「しゃべれないくせに」


 学校でも、社会でも、彼は“違う”という理由だけで、見下され、切り捨てられてきた。


 さらに次のページには、猫が描かれていた。

 病院の裏で拾った猫だったらしい。唯一、彼が「自分を必要としてくれた」存在。


 ……でも、ある日。

 その猫が、死んでいた。首を折られ、袋に入れられて。


 そのときのページだけ、ぐしゃぐしゃに塗りつぶされていた。

 怒り。悲しみ。絶望。すべてがそこにあった。


 


 私は気づく。

 彼は「キレた」のではない。

 ただ、自分の大切なものを奪われた痛みに、耐えきれなかったのだ。


 ──事件当日。

 彼の机の上に、猫の写真が破られて置かれていたという証言がある。

 亡くなった同僚が、彼をからかい、悪質ないたずらをしていたという噂も。


 しかし、祐樹は言葉で抗議できなかった。

 手を振るい、抵抗することでしか、自分を守れなかったのだ。


 


 「……あなたは、言いたかったんですよね。『やめて』って。『返して』って」


 祐樹は、はじめて私の目を見た。

 その目には、涙が浮かんでいた。


 


 私は震えながら、スケッチブックの最後のページを開いた。


 そこには――

 青空の下、彼と猫が並んで座っていた。

 後ろ姿だけ。だが、静かな幸福がそこにあった。


 


 時間が来た。


 私は彼に向かって、最後に言った。


 「あなたの描いた絵、必ず、忘れません。あなたの声は、私が聞きました」


 祐樹はゆっくりと立ち上がり、私の手にスケッチブックを渡してきた。

 それが、彼の「ありがとう」だった。


 


 その夜、私は夢を見た。

 草原の上、猫がくるくると走り回り、祐樹がそれを見て微笑んでいた。

 そこには言葉がなかったけれど、静かな対話が、確かにあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る