温泉旅行
時刻は午前三時五十分。
ベッドで気持ちよく眠っていたナナセは、突然の大音量で叩き起こされた。
「ふわぁ、うるさいなぁ……一体何なの、ノゾミぃ」
「寝ぼけてないで支度しろ、早くしないと渋滞するだろ」
「うーん、あと十分」
ノゾミは黙ってナナセの耳元にスマホを押し当て、アラーム音を響かせる。
「うわっ!? 分かった、起きるってばぁ!」
ナナセは渋々ベッドから這い出して、出発の支度を始めた。ノゾミはとっくに着替えていて、前日までにパッキングしたキャリーケースを玄関に置いて仁王立ちしている。
動きやすいTシャツとワークパンツに、ウィンドブレイカーを羽織ったノゾミ。貴重品を入れた小さな肩掛けかばんには、ナナセが(勝手に)つけた小さな猫のチャームが光る。
そこに、サーモンピンクのライン入りパーカーにショートパンツ、スポーツブランドのレギンスで揃えたナナセが、バタバタと姿を見せた。
お揃いの白いスニーカーに履き替え、玄関から外に出た。ノゾミがエントランス前に回しておいた銀色の軽自動車は、ワックスでぴかぴかに磨きあげられている。
ノゾミが鍵を差し込み、エンジン音を響かせれば、いよいよ旅の始まりだ。まだ夜明け前の街を、ふたりを乗せた車が走っていく。ナナセも少しは身体が温まってきたようで、高速道路に入る頃にはカーステレオに合わせて、機嫌良く歌を口ずさみはじめた。料金所の通過に合わせて、ノゾミはアクセルを強く踏み込む。
早くに家を出てきたため、渋滞にはまることもなくスムーズに目的地へとたどり着いた。
交代で運転してきたため、今はナナセがハンドルを握っている。慎重にバックして、無事に駐車場へと車を停める。
車から降りたナナセは、大きく伸びをして肩を回している。
「あ〜やっと着いたぁ」
「お疲れ様。ほら、向こう見てみろ」
「何々、って、わぁ!」
駐車場の端の開けた場所から、山麓の町を一望できた。家々が米粒ほどに小さく見えて、広がる空はどこまでも青い。
「こんなに登ってきたんだねぇ」
ナナセは遠くの景色を眺めながら、清涼な山の空気を思い切り吸い込んだ。
「予約の時間だ。さっさと行くぞ」
「もー、分かってるって!」
ノゾミがじれったそうに手を差し出して、ナナセは呆れ笑いを浮かべながらその手を取る。
仲良く手をつないで向かった先は、この高原で知る人ぞ知る名店であるレストランだった。
情報通のナナセがネットを駆使して見つけてきた店で、新鮮な生乳から作ったバターやクリーム、チーズをふんだんに使ったランチメニューが楽しめると評判らしい。
ノゾミはクリームシチューと天然酵母パンのセットを、ナナセはチーズカレーとあんバターのパイを注文した。運ばれて来た料理は見た目にも美味しそうで、ナナセは嬉々として写真を色々な角度から撮りまくった。
いざ食べてみると、味も期待以上だ。ナナセは目を輝かせて夢中で食べ進めている。ノゾミはチーズの盛り合わせを肴にノンアルコールカクテルのグラスを揺らして、ナナセの嬉しそうな様子を満足げに眺めていた。
「中々美味かったな。また来よう」
「うん、美味しかった~」
おなか一杯食べた二人はレストランを後にする。車を走らせて向かう先は、今回の宿泊先である温泉旅館だった。
ノゾミはカーナビで時間を確認した。予定の時刻通りに旅程が進行している。ノゾミは心の中でガッツポーズをした。
「ボク、温泉だーいすき」
「個室風呂の部屋とったから。ゆっくりできるな」
「今日のとこは美容効果も高いんだって。すごく楽しみ」
お風呂好きのナナセもうきうきとしている。旅の道行は至って順調だった。
しかし、トラブルは予期せぬ瞬間に訪れた。
アクシデントがあったのは、旅館にチェックインする時だった。
フロントで手続きをしていると、受付係の女性がすまなそうに切り出した。
「本日ご予約のお部屋ですが、個室風呂の設備が故障しておりまして」
「……え」
ノゾミの表情が一瞬で固まる。
「その、代わりの部屋とか、って……」
「あいにく満室となっておりまして……。大変申し訳ございません」
女性はひたすら平謝りだ。ナナセは重くなった空気を変えようと動いた。「まあまあ、しょうがないよね」と、ノゾミの背中を軽く叩く。「お姉さんもそんなに謝らないで。ボクたちは大丈夫だからさ」
「申し訳ございません……。恐れ入りますが、代わりに大浴場をお使いいただければ」
ノゾミとナナセは互いに顔を見合わせる。それからノゾミは苦笑いで応じた。
「ええ、そうします」
エレベーターがやってきて、ふたりはキャリーケースを引いて乗り込む。扉が閉まると、揃って深いため息をついた。
「どうしよう……」
どちらともなく呟いて、やるせない空気がエレベーター内に広がった。
ノゾミはショックを受けていた。自分の完璧な計画が台無しになったから。
ナナセも内心落ち込んでいた。温泉に入るのをとても楽しみにしていたから。
客室のあるフロアに着いて、絨毯敷きの廊下を歩む足取りは重い。
ふたりは公衆浴場に入れない。
普段は自分の好きな服をまとっているからこそ、それがはぎとられて秘密があらわになる場所は、大いに居心地の悪いものであった。
普段は割り切っていても、知らない人からの無遠慮な視線を思うと、どうしても気が塞ぐ。
性別で区切られた空間は、性別のあわいを生きる自分たちにはそぐわない、ノゾミもナナセもそう思っていた。
客室に入ると、ふたりは意気消沈して座布団の上に座り込んだ。キャリーケースは入り口に置いたまま。ノゾミは放心して天井を仰いでいる。ナナセは膝を抱えて顔を伏せ、うーうーと何事か唸っていた。
しばしそんな時間が続いたが、やがてふたりは重い腰を上げて立ち上がる。ノゾミは肩掛けかばんから財布を取り出し、ナナセはキャリーケースをごそごそと漁り始めた。
「なんか買ってくる」
「じゃ、ボクも準備してるね」
最低限の言葉と視線の動きだけで意思疎通して、ふたりは何かを始めようとしている。
ノゾミは大きなビニール袋を提げて戻ってきた。中から取り出したのはいくつもの土産菓子の箱だった。
「ほら、温泉まんじゅう。あとクッキーとパイのセットがあったから、買ってきた」
「いいねぇ、こっちもお茶出来てるよ〜」
備え付けの湯呑みとケトルで、持参したフレーバーティーのバッグを使って、ナナセは色とりどりの紅茶を淹れた。
お茶の準備が出来たので、ふたりは濡れタオルでさっと体を拭いてから、浴衣に着替えた。そうして旅館の一室で、ささやかなティーパーティーが開催された。
「おっ、このおまんじゅう、白あんだね」
「この紅茶も美味いな。でも何の味だろう」
「ピーチベルガモットだよ。ボクもお気に入りなんだ〜」
なにもかも正反対なふたりだったが、ある一点だけは共通していた。それは「たいていの悩みは、おいしいものを食べていれば忘れる」という精神性だ。
「夕飯もあるんだから、あんまり食べすぎるなよ」
「分かってるって~。てか、今日の晩ごはんってたしか」
「和食のコースだったよな」
「あ~っ、楽しみすぎるぅ」
湯呑で紅茶をすすれば、身体も心もぽかぽかと温まってくる。温泉まんじゅうを二、三個つまみつつ、有料チャンネルで映画を流す。
「このCGちょっと安っぽくない?」
「古い映画だけあるな。公開年は……三十年前か」
「うっそ大昔すぎ。ボクたち生まれてすらないねぇ」
B級映画を前にやいのやいの駄弁っていると、いつの間にか日が暮れていた。
夕食が部屋に運ばれて来た。採れたての山菜や野菜、地元のブランド牛を使った豪華な和食コースだ。美食を存分に味わいながら、地酒の熱燗をちびりちびりと楽しんだ。
食器が下げられる頃には、ふたりはすっかりほろ酔い加減だ。
くだらない話で盛り上がっていると、ナナセがだんだんと眠たそうにしてきた。酒と旅の疲れが回ってきたのだろう。目元がとろんとしてきて、語尾の端もゆるやかに間延びしている。
このままでは、今にも畳に横たわって眠ってしまいかねない。ノゾミは立ち上がってナナセの手を引き、寝室へと連れていった。
ふすまを開くと、すでに二人分の布団が隣りあわせて敷いてあった。ナナセをシーツの上に座らせて、布団を足元に掛けてやる。そうすればたいていは横になって眠り出すのだが、この日はそうではなかった。
ナナセは布団の端をきゅっと握りしめて、ぼそりと呟いた。
「お風呂、入りたかったなぁ」
ノゾミはその言葉に眉尻を下げて、そっとナナセの隣に座った。
「風呂は、残念だったな」
「あーあ。なんでこんな身体に生まれちゃったんだろ」
ナナセは肩を抱いて背中を丸くした。ノゾミはできるだけ自然に聞こえるように、柔らかな声を発した。
「でも、僕はナナセがナナセで良かったと思うよ。だって」
ノゾミはナナセの正面に回ると、両腕を伸ばしてハグをした。ノゾミの体温を間近に感じて、ナナセは少し落ち着きを取り戻したようだ。互いに腕を背に回して、互いのぬくもりを分かち合う。
「ハグがしやすいんだ。僕らは背丈も体つきも似てるから」
起伏のないつるりとした肌。均整のとれた骨格。すらりとした手足。
「僕は僕の身体が好きだよ。もちろん、ナナセのも」
「ノゾミ……」
ナナセは鼻水をすすって、ノゾミにややぎこちなく微笑みかけた。
しばらく抱き合ったのち、ナナセは安心して眠ってしまった。その横顔を眩しそうに眺めながら、ノゾミは布団の中で文庫本をめくっていた。
実に穏やかな夜であった。
翌朝、チェックアウトの手続きに向かうと、旅館のスタッフが頭を下げつつ申し出た。
「お客様にご不便をおかけして、誠に申し訳ございませんでした。こちら、次回から使える特別優待券となりますので、どうかお受け取りください」
ノゾミはとたんに目を光らせる。
「割引率は」
「宿泊料金の3割引きに加えて、各種特典がございます」
「よし、有り難くいただくよ」
「もう、ノゾミったらゲンキンなんだから……」
ふたりは顔を見合わせて、にやりと笑みを交わした。
旅館を出ると、外は快晴の青天井だ。
「渋滞しないうちに、早めに帰るぞ」
「ラジャー! こんどは僕から運転するね」
「頼んだ。正直、昨晩夜更かししたから眠くって」
「ええ〜っ困るぅ、缶コーヒー買お。カフェインカフェイン」
ほどよく気の抜けた会話が、涼しい空気に溶けていく。背後に広がる雄大な山脈が、二人の行く末を静かに見下ろしていた。
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