第三話「冬の駅で」

その日、仕事帰りに降り立った郊外の駅で、見覚えのある後ろ姿を見た。

細身のコートに、手首までぴしりと伸びた手袋。

肩にかけたトートバッグから、古びた楽譜の角が覗いていた。


私は無意識に歩を止めた。

「綺麗なおじさん」――いや、あの人はもう、そんなふうに呼ばれる年齢ではなかった。

それでも背筋はまっすぐで、足取りはゆったりと優雅だった。


声をかけようとして、やめた。

名前も知らなかったことに、気づいたのだ。


あの頃、私は何も知らずに憧れていた。

でも今は、少しだけ、わかる気がする。

人は、誰かに見えない名前をつけられて生きている。

それを誇りにすることも、そっと隠すことも、自分で選んでいいのだ。


電車が来て、あの人の姿がホームの向こうに吸い込まれていく。

私はポケットの中で、冷たくなった指先をぎゅっと握った。


「また、会えたらいいな。」


心の中でそう呟くと、ほんの少し、白い吐息があたたかく感じられた。

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