第二話「傘の裏側」

あの日も、雨が降っていた。

傘を忘れた私は、駆けるように帰ろうとして、ふと立ち止まった。

曲がり角の先に、見覚えのある紫色の傘がゆっくりと揺れていたからだ。


「乗っていきなさい」

おじさんの声だった。小さなマーチの助手席のドアが開いた。


車内は、ラベンダーのような香りがした。ダッシュボードにあったCDケースの裏には、

「伊藤しずえ」という手書きの名前がうっすらと残っていた。


「…これ、奥さんの?」と聞くと、

おじさんは目を細めてから、首を横に振った。


「昔ね。好きだった人がいたの。でも、“そうじゃない”人生を選んだのよ。私も、あの人も。」


それ以上、私は何も言えなかった。

信号が青になり、雨粒がワイパーに流されていく音だけが響いていた。


それ以来、私は「綺麗なおじさん」を、少しだけ「哀しいおじさん」とも呼ぶようになった。

それでもやっぱり、美しいものを持っている人だと、思う。

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