三.御猫、子供の背中を押す
生き物が太陽の光を浴びるというのは至高の喜びなのではないか、俺は勝手にそう思っている。
もちろんそれは真っ当な生き物、何かしらの形で世界に共存を許されているものに限られると思うけれど。ああ、あと純粋に陽光が苦手な場合は別。
まぁ、そんなことんなで俺は絶賛ひなたぼっこの真っ最中だ。猫というものはひなたぼっこと睡眠そして食事で構成されていると言っても過言ではない。
こんなとき、人の形を取るのは無粋の極みだ。猫の形を謳歌すること、それが一番だ。
公園の中、少し小高くなっている場所。そこにはベントが一つだけある。日当たりがよく、ベンチ以外は周り近くに本当に何もない。つまりここは人間が少ない穴場なのだ。
自然、心地よさに喉が鳴る。この時間、このベンチの上でのひなたぼっこの素晴らしさは、ごろごろという喉の鳴る音となってこの場所に響いた。
「あ、ネコ〜」
珍客が近づいてくる。今の俺ほどではないが、人間としては視線と地面との距離の近い者。子供という珍客だった。
まさか、誰かに見つかると思わなかったなぁ。
「なぅん」
驚きと共に、愛想よく俺はひと鳴きする。
「かわいいね、触っていい?」
子供──少年はベンチの俺の隣に腰を下ろして、前屈みになりながら尋ねてきた。
「にゃう」
いいよと思っていても、だめだよと思っていてもこの姿では人間とコミュニケーション出来ない。言葉の壁というところかな。
とは言っても、ダメと思うなら逃げるなり何なりで意思を示して拒絶出来る。
俺はというと、ここから動くつもりは全くないわけで。それがつまるところ、答えということだ。
「いいのかなぁ?」
少年は言葉が伝わらないことが不安らしく、しゃがみ込んで俺の顔を覗き込む。
うん、いい子だな。
「なうん」
俺は機嫌よく聞こえるように、少し声の調子を上げてひと鳴きする。大丈夫だと、そう伝えたかった。
すると少年の目が輝き、俺の背中をゆっくりと撫でる。乱暴さなど全くない丁寧で優しい手つきだった。
ついつい俺の喉が鳴る。これだけ気持ちが良ければ不可抗力というやつだ。
少年が嬉しそうに笑ってから、また俺の背中と今度は喉元を撫でた。
この子、撫でるの上手いな……。
撫でる撫でられるにも相性がある。少年と俺の相性はなかなかのものらしかった。
「かわいいなぁ。はじめましてなのかな?」
少年は記憶を辿っているのだろう。視線を少し上に向けて唸った。
俺としては、はじめましてだと思うんだけれど。こちらとしてもそのひぐらしというところが強いので、関わりがそれなりになければ忘却の彼方へと記憶は消えてしまいがちだ。
それに会ったことがあるかなんてことは、瑣末な話とも言える。
今の心地よさと穏やかな時間、それこそが最も大切なことだろうと。俺は思ったりする。
「ま、いっか」
俺の気持ちが伝わったみたいに少年は笑って──実際には偶然なんだろうけど──さらに身体を丁寧に撫でた。
さっきよりもさらに喉が鳴る。本当に気持ちが良い。
「ねぇ、ネコとおしゃべりって出来ないのかな……?」
相変わらず俺のことを撫でながら、少年はどこか寂しそうに言う。気持ちは分かるけど、この姿のときに人間と言葉を交わせたためしはない。
「にゃう……」
やっぱり伝わらないらしく、少年は俺の声を聞いて視線を下に落とす。
人間の形のときは、どう話をしていたか。
不意にそんな思考へ至る。人間に伝わる言葉を発音するには如何に。
「こん、にちにゃ」
少年の表情が驚きに染まる。
あれ? 俺、今、どう声を出した?
疑問だらけの俺だったけれど、少年の顔がどんどん嬉しそうに輝きだす。
「おしゃべりできるの⁉︎」
期待の眼差し、というやつだ。
うん、出来るみたい。まさかとは思ったけど。可能性は無限大だなぁ、とかこんな言葉で片付けてしまっていいのかは分からないけれどね。
少なくとも今、話が、会話が出来るらしいことは確かで。それが喜ばしい状況なのも間違いなかった。
「出来るみたい、にゃ」
俺がそう返した途端、少年が抱きしめてくる。言葉は発しないが、嬉しいのだろうなと思った。俺も嬉しい。
「ねぇ、名前聞いてもいい?」
俺のことも抱きしめたまま、少年はそう尋ねた。
「……ユウヤ」
「男の子?」
「うん」
ここまで短く言葉を交わし合って、少年は嬉しそうに笑う。
「僕はタケルっていうんだ。よろしくね、ユウヤ」
少年──タケルはそう続けてから、笑顔と共に俺を撫でて抱きしめた。
「タケル、よろしくにゃ」
この状態だと、どうしてか言葉が変になるなぁ。そんなことを思う。
何と言えばいいのか。物語に登場するわかりやすい、人語を操る猫そのものと言うべきかな。
「うん、よろしくね」
タケルは嬉しそうに言う。
いつもとは少し違う人間との関わりは、すごくものすごく心地良い。俺がかつてただの猫だった頃の幸せと、それを上回る関わりから得られる満足感。
つまるところ、俺としても大変喜ばしく嬉しい話だということだ。
「ユウヤはここで何かしていたの?」
「ひにゃたぼっこ」
「そっかぁ」
タケルはどこか嬉しそうにしている。猫らしいと思ったのかもしれない。
「タケルはどうしたんにゃ?」
尋ね返してみるとタケルは、なんとも言い難い様子を見せている。何やら訳ありらしい。
「……内緒だよ?」
タケルは歯切れ悪く、ぼそりと言う。
「お母さんと、ケンカして来たんだ」
視線を地面に落としてタケルはわかりやすく落ち込んでいるのだろうと、はっきり見てとれた。
「……言いすぎちゃった」
続けたタケルはやはり申し訳なさそうな表情を浮かべている。うっすらと涙すら浮かべている始末だ。
俺はどうしたらいいのか分からず、ただタケルのことを見上げた。この身体は、こういうときに不便だと心の底から思う。もどかしかった。
「ごめんって、言ったらいいにゃ」
「うん……分かってる」
全てを分かっていても、感情に阻まれてタケルはこの場所まで逃れてきた──と言ったところだろうか。
頭で理解していることと、感情は全く別だ。それは俺も変わらない。だからきっと彼もそうなのだろう。
「ちょっとだけ、ここに居ても……いい?」
「もちろんだにゃ」
「ありがとう」
タケルの控えめな願いを俺は快諾した。共感の叶うものだったということもあるが、俺の退屈を紛らわすことができる状況であることも大きい。
タケルは弱々しく笑ったけれど、俺を撫でると少しはマシになるらしかった。俺も嬉しいし気持ちがいいから、何も問題はない。
「あのね、ユウヤ」
「にゃ?」
「何かお話、しよう?」
ただ単にお話、というのも悩ましいなと思う。
くくりがあまりにも大きいというか、指定のないものというのは難しいものだ。
「おはにゃし?」
「うん。ユウヤ、これまでどんなことをしてきたの?」
そう来るか。何を話したものだろうか、俺は考えてみる。
「長生きしてるにゃ。最初のご主人が大事にしてくれて、だからニンゲンは好きにゃ」
そんなことを話してみた。本当のことだ。
「さいしょの、ご主人ってどんな人だったの?」
「……面倒臭いおっさんだったにゃ」
「へ?」
タケルは質問の答えがあまりにも予想外だったのだろう。間抜けな声を返してきた。
「めんど、くさい?」
「そうにゃ。けど、優しかったにゃ」
俺の言葉にタケルはほっとしたらしい。それはそうだ、人間のことを好きと語りながら次には飼い主だった人間に面倒臭いと宣ったのだから。
けれどどこにも嘘はない。あの人間は面倒臭い愛おしいおっさんでご主人だ。
「……ユウヤ、その人のこと好きだった?」
「どうかにゃ」
これは嘘だ。なんやかや、好きだった。今も変わらず好きだ。会うことはもう叶わないが。
「きっと好きだったんだね」
俺は答えなかった。気恥ずかしかったからだ。タケルはそんな俺のことを察してしまったのか、にこにことしている。
うん、良い表情になったからいいか。
「ユウヤは、その人とケンカしたことあった?」
「いっぱいしたにゃ」
「そうなの?」
「そうにゃ」
俺の言葉はタケルを驚かすものばかりらしい。またしても彼は面食らっている。
「……ケンカってこわくない?」
親とのやりとりを考えているのだろうか。タケルは少し表情を曇らせながら、俺に尋ねてきた。
「種類によるにゃ」
「しゅ、るい?」
「そう、種類にゃ」
俺の言葉に、タケルは考え込む。
「種類って、どんな?」
「ぶつかるケンカと理解するケンカ、かにゃ」
「お母さんと僕のケンカ、もしかしたらぶつかるケンカかも」
タケルの言葉は俺にとって意外なものだった。これまでの口ぶりから、ぶつかるにしても理解を求めるためのものだったのだろうと考えていたからだ。
「どうしてそう思うにゃ?」
尋ねてみるとタケルが困った様子で視線を落とす。
「たくさん、お母さんにひどいことを言っちゃったんだ」
タケルの表情は苦しそうだ。
「あの時はお母さんがすごくひどいって、そう思ったんだ。けど、僕だってひどかったって……」
「今は反省してるんにゃ?」
「……うん」
よくあるケンカだろう。俺の立場からはそう見える。けれどタケルは当事者だ、よくあるケンカで片付けられるはずもない。
「反省しているのにゃら、やることは決まっているにゃ」
「……ごめんなさいを、言う」
俺が肯定の意味を込めてひと鳴きすると、タケルは弱々しくだが頷いてくれる。
親子喧嘩で啖呵を切った後、どんな顔をして戻ればいいのかが分からなくなってしまっているのだろうことは容易に想像できた。
ならば、必要なのはタケルの勇気だ。多分それだけだろう。
「おかあさんとは普段、仲良しにゃのか?」
俺の問いかけに不思議そうな表情を浮かべつつ、それでもタケルは頷いた。
「それにゃらきっと、謝ったら何とかなる。何とかなるはずにゃ」
「……本当?」
「少なくとも無理な話ではないと、思うにゃ」
こればかりはタケルとタケルの母親の問題だ。母親のことを全く知らない、タケルとも知り合ったばかりの俺には、保証するということは出来ない。むしろ保証なんて、してしまうだけ無責任というものだと思う。
そんな嘘の気休めで背中を押すより、正直な言葉で背中を押す方がいい。きっとそれが、一番いいんだろうと思うんだ。
「そっか……」
タケルは心細そうに言葉を返してくる。実感が伴わないのだろう、仕方がない。
「不安だったら、一緒に行くかにゃ?」
「え……」
俺の言葉が何度目かの予想外だったらしい。またしてもタケルは言葉を失ってしまった。
黙らせるつもりじゃなかったんだけれど。
会話をするというのは難しいな。
少しの間の沈黙。
そして、タケルは笑って俺のことを撫でた。
「ありがとう。けど、一人でがんばってみる」
「応援してるにゃ」
「うん。あ、ユウヤ」
そろそろこの場はお開きだろうか、そんなことを考えながら俺はタケルを見上げる。
「また、ここに遊びに来てもいい? もしかしたら、お話はもう出来ないかもしれないけど」
「いつでも来るにゃ」
「ありがと!」
タケルは今日一番の笑顔を俺に向けてから、俺のことをくしゃくしゃにして立ち上がった。
ほらやっぱり、予想通りにお開きだ。けれど寂しくはない。
また来てくれるらしいから。今度も話ができるように特訓した方がいいかもな。
御猫又掛四荒八極──おねこまたかけしこうはっきょく── つぐい みこと @tsugui_micoto
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