追憶の花嫁
戀塚しあ
どこにもいない娘
むかし、むかし、それもうんとむかしのことです。
歩きでしかたどりつけない、ちいさな、ちいさな村がありました。
木々をかき分け、小川をまたぎ、もっともっと深い森の奥へとすすんでいくと、いばらに覆われた囲いが見えてきます。
その囲いのなかに、村はあるのでした。
村には、名前のない娘がおりました。名前をつけてもらえなかったのです。
村の人々も、娘の父親も母親も、娘のことは「あれ」とか「それ」とか、「おい」とか、とても今では信じられないような、そんなふうに呼んでいました。
娘には部屋もありません。厩(うまや)のすみに、わずかな藁を敷き、ぼろぼろに擦り切れた布をかろうじて体にかけ、そこで眠るのです。
娘が厩の暗がりで鶏が朝を告げるのを聞くやいなや、
「おい、川で水を浴びてこい。まったく、汚らしいったらありゃしねえ」
と父親が怒鳴りました。娘は身を起こし、かけていた布を軽くたたんで抱えて厩を出ました。
以前、村の子どもたちに布をうばわれ燃やされたとき、「これが最後よ。おまえにやる布なんかないんだから」と母親に投げてよこされた大切な布です。
これがなければ娘は、ただでさえ冷え込む山の夜が来たら、凍えて眠れなくなってしまうのです。
娘は村を出て、小川の流れに逆らって山を登っていきました。その先に、誰も来ない泉があるのです。
裾がほつれ、今にもほどけてしまいそうな寝間着をそっと脱ぎました。
娘の両脚はすらりと地に伸び、足先は蹄。パンとわずかなミルク以外に与えられず、今にも折れそうなほどやせ細っています。
顔を洗うために泉を覗き込むときが、娘はいっとう嫌いでした。頭の両側に立派な角が巻いているからです。
みんなとちがう。もしみんなと同じ、角も蹄もなかったら、と考えてすぐに振り払いました。考えても変わらないのです。
娘はぎゅっと目をつむり、小枝のような指をそろえて水をすくい顔を洗いました。そして体を泉に浸し、髪を洗い、そのまま寝間着も洗うことにしました。お天気がよければ、日が沈む前に乾くからです。
雫が滴る寝間着を近くの枝にかけ、娘は自分の体が乾くのも待ちました。
春の、あたたかな陽の光を浴びていると、対岸に鹿の親子が水を飲みに来て、頭上では小鳥がさえずっています。風が吹いて、さらさらと草木をなでていきました。
わたしは、土や石や泉のようにここにあるだけ。わたしという人間は、どこにもいない。
一緒に持ってきたぼろぼろの布を木の根元にしいて、そこに腰掛け、娘は両脚の先の蹄を見つめました。
嫌なところばかりが目につきます。娘は、自分が何歳なのかも知りませんでした。
それでも、今日ここまで娘は生きてきたのでした。
追憶の花嫁 戀塚しあ @halfmilk82
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