第12話 魔神教団
まどろんだ意識が覚醒する。
前が見えない。何か布のようなものが顔を覆っているのか、ファスタフは目をあけられなかった。
ぼうっとする頭がはっきりとするに連れて、感覚が自分に教えてくれる。腕や足に巻きつけられた細長い何か、口に詰められたおそらく布と思われるもの。体をどこかに横たえているらしい。冷たく固い感触は、石畳だろうか。触れている地肌が体重に押し付けられて、表面の凸凹に痛みを訴える。
身じろいで、しかし手首を後ろ手に縛られている状態では何をすることもできなかった。手もろくに動かせない。足も、折りたたんで縛られているので立つもかなわない。不格好に転がることにも苦心するほどだ。
一体これはなんだろうか。
つい先ほどまで、ファスタフはリアンとオーレウスの口論の最中にいたはずだった。
オーレウスのいつもの態度にとうとうリアンが食ってかかって、ファスタフは曖昧に困った笑いを浮かべることしかできなかった。
記憶にあるのはそこまでだった。そこから、ぶつりと記憶が途切れて、気付いた時にはこの状況だった。
誰かに捕らえられた、と考えるのが自然だった。そして、ファスタフはこういう状況に覚えがあった。
あれはまだ、彼女が守り人として精霊の森に身を置いていた時のことだった。たいてい守り人は木の実を集め、獣を狩り、毛皮や肉を森の恵みとして頂くことを日常としている。それは自分たちのためでもあり、そして森の内に住まう同胞のためでもあった。
魔法の才に恵まれなかったファスタフは、守り人の中でも最も遠いところに追いやられていた。それでも、森から出ていくように言われなかったのは奇跡だったと言える。精霊の森に住むエルフたちは、みな魔法に卓越して精霊の声を聴いて過ごしているのだから、その普通を享受できない彼女には森にいる資格さえ与えられないはずだった。
彼女のような同胞の多くは、放逐され、そしてその行方を知る者はどこにもいないのが常である。しかし、口に出さずとも森の外が恐ろしいところで、同胞の末路についての想像は多くのものが同じようなところに辿り着いていた。
それが特に顕著なのは、守り人たちだ。
精霊の森には、しばしば邪念を持って近づく者がいる。そういう者から森を守護するのが彼らに課せられた本来の使命だ。森を守るために武器を取り、敵を討ち払い、平穏を運ぶ。そうした中で、やはり犠牲はつきものだった。
しかし、守り人たちは仲間の死を看取るよりもずっと多くの仲間を失っていた。その理由は察するに余りあったし、みなが想像している通りだった。エルフの多くは精霊の森の内に籠っていて外に出ず、邪念を持つ者は別段森の深くまで踏み入ろうというわけでもなかった。
彼らの目的は、エルフであった。
それを直接聞いたこともあれば、ファスタフ自身が身をもって体感したことでもあった。そのときに感じた強い恐怖は、今でも彼女の身をすくませることがあるし、ふいに思い出して動けなくなることもあった。
そして、今がそうだった。
心臓が早鐘を打って、息が上がる。冷たい汗が止まることなく流れ続け、頭の奥がチカチカ、チカチカと白くなったり黒くなったりしていた。ぐにゃりと世界が回っているような感覚で、ファスタフは自分が今横になっているのか立っているのか、縛られているのかいないのか、前が見えるのか見えないのか、そんなことさえわからなくなってしまっていた。
脈動の音だけが、やけにうるさく自分の耳に響いていた。
カツリ。
足音がした。
すう、と冷静になる頭と、さらなる恐慌に陥って速くなる鼓動。
気配が近付くほどにファスタフの息は切れ切れになって、そしてその手が頭に触れたものだから、限界が来た彼女は再び意識を手放すのだった。
全身を真っ黒なローブで包んだその気配の持ち主は、そんなファスタフを意に介した様子もなく淡々と彼女の顔を覆う布と、口に噛ませていた棒と布を取り外した。
そして、指先に灯した魔力で彼女を中心に陣を描いていく。よどみなく正確に、儀式のための準備を粛々と進めていた。
陰から同じ背格好の黒装束が数人現れて、同じように魔法陣を敷いていく。その魔法陣が完成するまでにさほどの時間もかからなかった。黒装束たちは目配せすると、ファスタフを囲む。そのまま彼女が目覚めるまで待つつもりのようだった。
そのうち、ファスタフが意識を取り戻すと、視界が開けていることに気付いた。そして、目の前に怪しげな黒づくめの集団がいることにも。
「な……誰なの!?」
言ってから、口をきけることにも気付いた。
しかし、自由になっていたのはそこまでで、相変わらず体は縛り付けられていたので身じろぎするのが精々だった。
五人の集団が自分を取り囲んでいる。ファスタフにできたのはそこまでで、反抗のしようもなかった。
「我らは――」
一人が一歩前に踏み出した。
「――魔神教団」
ファスタフは思わず目をしばたたかせた。
「魔神……教団?」
「左様」
魔神というのは、あの、おとぎ話に出てくる魔神のことだろうか。
光を司る女神と、闇を司る魔神。二柱の神のぶつかり合いによってこの世界が生まれた、なんていうおとぎ話の。
なんて馬鹿馬鹿しい集団に襲われたのだろうか。そう思うのも仕方がないことだった。
「……私を捕まえて、どうしようっていう……んですか?」
あまり刺激しないようにしなければ、とファスタフは言葉を選んだ。
どのくらい意識を失っていたのかはわからないが、授業中に教師のいる中で攫われたのだから、待っていれば助けが来るはずだ。
それまでの時間を稼ぐことが今ファスタフにできることだった。
「貴様は贄だ」
そのぞっとするほど冷たい声に、ファスタフの肝が冷えた。
「見よ」
燐光が灯る。見たこともないほど複雑な魔法陣が展開されていた。
魔法に疎い彼女でも、この魔法陣の意味するものがよくないものであることだけは想像に難くなかった。
「貴様には我らの器への贄となってもらう」
「う、器って……?」
「無論、魔神だ」
顔は見えないが、その声はうっとりと恍惚に満ちていた。
「我らの器に注ぐのだよ。空っぽの器ほど虚ろなものはない。貴様もそう思うだろう?」
じっとファスタフの顔を見つめて、ややってから残念だ、と続けた。
「わからぬようだ」
喉が渇いていた。声を出そうにもなんだか恐ろしかった。開いた口に砂利を押し込まれたような気分だった。
「哀れなことよ。わからぬことは、哀れなことよ」
魔法陣が輝きを増した。だが、ファスタフに逃れる手立てがなかった。
一歩踏み出した男が、ファスタフの前に跪いた。
「わかるであろう。これで、わかるであろう」
ローブの中から小瓶を取り出した。
その中にはどす黒い血のような、あるいは消えゆく魔物の霞がかった靄をぎゅっと押し固めたような、気味の悪い液体があった。
「うっ」
小瓶が開かれると、濁り切った魔力の淀みが漏れ出た。その、ほんの少しの上澄みでファスタフは顔をしかめて、胃からせり上がってくるものをこらえるほどだった。
魔力が腐っている、と思った。
ファスタフは身を揺すられて、仰向けになった。頭の後ろに手を回される。
そして小瓶が口元に近付けられた。
「飲め」
きゅっと口を結んで、せめてもの抵抗をする。
もう一人が近付く気配がする。
「飲むのだ」
顎を掴まれて、無理やり口を開かされた。
どろり、と絡みつくのが液体なのか、あるいはこの濁り切った魔力なのかがわからない。これを吐き出してしまわなければという衝動にかられて、ファスタフは激しく身を捩った。それが自分の意志なのか、あるいは体が痙攣しているのか、自分でも判別がつかなかった。
小瓶から移されたものが喉を通る感触をはっきりと感じた。小さな手が探り探り壁を伝っていくような、得も言われぬ悪寒を伴って体内に入り込まれるようだった。
体中の気力を奪われてぐったりと力が抜けてくると、ファスタフは己に異常を感じた。いや、これが正常だっただろうかと思い始めた。
不快で拒絶していたそれが段々と、体が求めるような快楽へと転じていくのである。ファスタフの瞳が朧げに揺らいで、なされるがままに纏わりつく魔力を享受した。
なんと解放された気分だろうか。自然と口角が上がって、夢を見ているような浮遊感に身を委ねる。
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