《六つの影》1

 その晩、とある一室で――ひとつの密文が、静かに交わされた。


 署名もなければ、封印もない。

 ただ「魔女を恐れる者たち」と名乗る影たちによって記された、無記名の書簡。

 それは火の気すら忘れた夜の奥底で、ひっそりと受け渡された。


 場所は、王都旧市街。

 すでに地図からも抹消された、崩れかけの廃屋。

 その地下に広がる石室には、ほの暗い囲炉裏の火だけが揺らいでいた。


 燻るような香の煙が天井に溜まり、焚かれた薪が赤く小さな焔を上げる。

 湿った石壁には古い苔が這い、天井からはわずかに水が滴っていた。


 六つの影が、焔を囲んで座していた。

 誰も素顔を晒してはおらず、その顔はすべて鉄の仮面に覆われている。

 それぞれ異なる意匠と紋章が施されたその仮面は、密かに存続してきた裏世界の主たち――六宴会、かつてそう呼ばれた者たちの末裔だった。


「民の心にも、次第に慣れが芽吹いてきた」

 焔のひとつが、低くつぶやく。

「異形を畏れる声は、日を追うごとに薄れてゆく」

「だからこそ、今――手を打たねばならぬ」

「リィゼ・クラウス。あれが再び“戦の梟”として空を翔ける前に」


 重なる声は、どれも鉄を削ぐような低さだった。

 響きはあるが、熱はない。ただ粛々と、事を決める者たちの声。


「封印を復活させるには、根拠がいる」

「暴走の可能性を提示し、あれを再び“脅威”と見せねばならぬ」


 その言葉とともに、一人が古びた羊皮紙の地図を広げた。

 地図の一点に、赤い墨で印がつけられている。


「ここだ。旧街道沿い、盗賊が潜伏しているという報告がある。」

「……奴らを煽るのか?」

「いいや、少し細工をしてやるのさ。“魔女”を出陣させるためにな」


 仮面の下で笑みが浮かんだかは、誰にも分からない。

 だが、焔の揺らぎが確かに一瞬、毒気を帯びたように見えた。


 ひとつ、またひとつと、蝋封が焔にかざされる。

 密命はすでに、それぞれの手に。

 やがて赤い封蝋が溶け落ち、細い煙が天へ昇る。


 火の粉が弾ける音の中、影たちは再び口を閉ざす。

 それはまるで、夜そのものが息をひそめるような静寂だった。


 そして、全てを呑み込む闇が――またひとつ、王国を覆い始めていた。





 ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇



 同じ頃――

 リィゼは、ひとり静かに街を歩いていた。


 夜の帳をまといながら、ただ深い黒衣を纏い、王都の外れへと足を運ぶ。

 向かう先は、花の咲くあの丘ではない。

 今宵、彼女が訪れるのは、忘れられた路地裏にひっそりと佇む、小さな家屋だった。


 扉の前で立ち止まると、リィゼは控えめに、ひとつ、ふたつとノックを鳴らす。

 やがて、軋む音とともに、静かに扉が開いた。


「……来てくださったのですね」


 現れたのは、まだ年若い少女と、その弟。

 群衆の中から、ためらうことなく「ありがとう」と言葉をかけてくれた、姉弟だった。


 少女は小さく微笑み、リィゼを中へと招き入れる。


 古びた書棚を脇に寄せた奥に、小さな空間があった。

 椅子が三つ、机の上には蝋燭が一本。

 そして、湯気の立つ薬湯の香りが、穏やかに室内を満たしていた。


「今日も……幻兵のことで、いろいろ言われたのでは?」


 少女がそっと問いかけると、リィゼはわずかに口元を綻ばせる。


「いつものことよ。でも、あなたのように礼を言ってくれる人もいた。ほんの、ひとりかふたりだけれど」


 静かに椅子へと腰を下ろしながら、リィゼはゆるやかに言葉を紡いだ。


「彼らはもう、戻ることのない兵士たち……。でも私は、彼らの魂が、誰かの記憶の中に、この国の片隅に、ちゃんと残り続けてくれると信じてる」


 少女は、迷うように一枚の紙を差し出す。

 それは弟が描いた絵だった。


 灰色の幻兵たちが、住宅街の前に立ち、腕を広げて人々を守っている。

 拙いながらも、誠実な筆致で描かれたその一枚は、まるで無垢な祈りのようだった。


「弟は、あの兵士さんたちを“影の騎士”って呼んでるんです」


 リィゼはその絵を、両の手でそっと受け取った。

 小さく息を吸い込み、何かを胸の奥に押し込めるようにして、静かに目を伏せる。


「……ありがとう。もし君が、“影の騎士”たちの物語を知りたいと思ってくれるなら……語ってあげる。現実に生きた、ほんものの英雄たちとして」


「ほんと?聞きたい!!」

 少年は無垢な瞳をリィゼに向けていた。

 そこに恐怖は感じられない。


 蝋燭の火が、ふっと揺れる。

 その光が部屋の壁に映したのは、三つの椅子と、小さな影。

 穏やかな時間が、そっと流れていく。


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