《力の先に》3
王都の片隅。
忘れられたように、ひっそりとそびえる石造りの塔がある。
かつては戦の狼煙を見張る監視塔であったその古き建築は、今ではただ風に吹かれ、時折小鳥たちが羽を休める場所として、静かに時を刻んでいる。
その最上階に、リィゼ・クラウスは暮らしていた。
窓からは、遠く王宮の尖塔がかすかに望める。
瓦屋根が幾重にも波のように連なり、その先には、白くたなびく煙が空に溶けてゆく。
道を行き交う人々の声、車輪の軋む音、笑い声と、時折混じる小さな喧噪
それらは、かつて彼女が封じられていた長き年月のあいだ、決して届くことのなかった「命の気配」だった。
リィゼは、窓辺に腰を下ろしていた。
膝の上には、革表紙の古書。読みかけのまま閉じられたその本を、指先でそっとなぞりながら、静かに城下を見つめている。
背後では、軽やかな足音とともに、白いエプロンを結んだ一人の少女が小さな水差しを手にして現れた。
「リィゼ様、お茶をお持ちしました」
エミリア
城から遣わされた侍女のひとり。けれど彼女は、自ら望んでこの塔に仕えることを選んだ少女である。
「ありがとう。そこに置いてちょうだい」
柔らかに微笑むリィゼに、エミリアは恭しく頭を下げつつも、どこか親しげな眼差しを向けていた。
塔の部屋は質素ながらも、清潔に整えられている。毎朝の掃除、昼の食事、そしてこの夕刻の茶の支度。すべてがエミリアの律儀な手によって守られていた。
彼女の存在が、リィゼの孤独を埋めるものだったかは分からない。
だが、誰かが同じ空間にいて、黙って日々を紡いでくれることは、かつての封印にはなかった「ぬくもり」だった。
風がそっと、彼女の頬を撫でてゆく。
まるでそれも、幻兵たちの、優しく差し出された手のようで――。
■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
そのころ、王都の市場。
陽が傾き始めた時間、果物売りの屋台の前で、若き兵士が袋詰めの林檎を手に語っていた。
「……あの幻兵がいなけりゃ、俺たちは全滅してた」
「ほんとかよ? あれって魔女の力なんだろ?」
友人らしき青年が声を潜めて尋ねると、兵士は肩をすくめ、苦笑交じりに答えた。
「魔女? ……そうだな。でも今じゃ、俺たちの恩人だ。 真っ先に敵の陣を崩してくれた。あの青白い兵士たちが、盾になって俺たちの命を……」
言葉を継ごうとしたそのとき、隣にいた老婦人がそっと口を開いた。
小さな包みを手に、しわだらけの掌で袋を差し出しながら。
「うちの孫もね、前線にいたんだよ。
帰ってきた夜、泣きながら話してくれたの。
“光の中に立つ兵士たちが、俺たちを庇ってくれた”って」
周囲の人々は、しばし言葉を失ったまま黙していた。
誰も何も返さなかった。ただ、小さくうなずき、目を伏せ、それぞれの想いを胸に抱いた。
それはまだ、町全体に響き渡る声ではない。
けれど、確かに。水面に落ちた一滴のように、静かに、静かに、波紋は広がっていた。
恐れと疑いの中にあっても、人は光を探す。
たとえそれが、かつて「災厄」と呼ばれた者の力であったとしても。
■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
その夜。王宮の高窓に佇むセイルは、ふと遠くに灯る一つの明かりに目をとめた。
それは、古の塔の最上階。
夜の帳の中に、ひっそりと灯る、静かな光。
傍らの老侍従が静かに問いかける。
「リィゼ様は、本日もお姿を……?」
「わざわざ王宮には来ないさ」
セイルの瞳に浮かぶのは、もはやかつて封じられた災厄ではない。
それはただ、遠くを見つめる一つの灯火。
深い霧の中にあっても、決して消えない、凛としたひかり。
そしてそのひかりは、たとえ世界がまた彼女を拒もうとも、
きっと誰かのために、そっと道を照らし続けるのだ。
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