《六つの影》2
そして、夜が明ける。
王都南部、薄霧のかかる山間に佇む軍の偵察拠点に、一羽の鷹が降り立った。
その爪に結ばれていたのは、簡潔ながらも重みある報せである。
「北方境界にて、盗賊の集結を確認。十数名規模、明確な武装を伴う。交戦の可能性、高し」
冷ややかな朝の風に乗り、その報告はただちに王宮へと送られた。
そして、セイル王のもとに届けられたときには、ひとつの提案文が添えられていた。
《魔女リィゼ・クラウスに、先遣討伐隊の指揮を命ずること。再度の幻兵運用を求む》
それは命令ではなかった。
だが、王の机上に静かに置かれたその文面は、確かに選択を迫るものだった。
セイルは深く息を吐き、長い指先で文をたどる。
その目に宿るのは、王という名を背負う者の、消えぬ葛藤と、揺るがぬ意志であった。
■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇
夜は、深く澄んでいた。
王都セリヴァの空には一片の雲もなく、冴え冴えとした月が、音もなく塔の尖端を照らしていた。
その最上階――石と静寂に包まれた部屋で、リィゼ・クラウスは外套の留め具に指を添えていた。
彼女の隣では、エミリアがそっと手元を見守っている。
「……準備は、整いましたか?」
問いかけは、夜露のように静かだった。
リィゼは言葉なく頷き、その瞳にかすかな決意の色を宿す。
扉が開かれると、夜の回廊にひんやりとした風が流れ込む。
衣が揺れ、足音が石の床に優しく重なっていく。
影がひとつ、ふたつ、伸びては消え、彼女の歩みを導いていた。
王宮の前庭――そこに、ひとりの青年が立っていた。
セイル。王装ではなく、ただの上衣をまとったその姿は、どこまでも素朴で、けれど静かな威厳を帯びていた。
「……セイル」
リィゼが名を呼ぶと、彼は一歩、こちらへと歩み寄った。
「……君しかいない」
その短い言葉に、あの夜の記憶がよぎる。
封印を解いた夜。彼が同じ言葉を告げた、あの瞬間。
「それは、封印を解いたときにも、あなたが言ったことよ」
リィゼはふっと唇の端をゆがめる。だが、それは拒絶ではなかった。
「けれど……今は、その意味を少しだけ違って受け取れるの。私は、この国の守護者だから」
セイルのまなざしが、ほのかに揺れる。
「……君が、そう感じてくれているのなら。よかった」
「ありがとう、セイル。……もう、行くわね」
リィゼはひとつ深く息を吐き、背を向けて歩き出した。
だが、その背中に、王はふたたび言葉を投げかける。
「リィゼ――」
彼女は振り向かない。ただ、立ち止まる。
「君は魔女じゃない。君は、人だ」
夜風が、二人のあいだをすり抜ける。
返事はなかった。けれど、その肩が、わずかに震えたのを、セイルは見逃さなかった。
月明かりの中、ひとりの女が馬に乗る。
漆黒の外套をたなびかせ、その身に纏うのはかつての禁ではなく、意志の重さだった。
封の鎖も、忌まわしき印も、もはや彼女を縛らない。
ただ、その瞳の奥に灯るものが、すべてを語っていた。
彼女が向かう先に、火と闇と死が待っていたとしても――
胸の奥で、あの夜の言葉が静かに燃えていた。
_「……影の騎士」_
その名を思い出すとき、胸の奥にひとつ、温かな光が灯る。
だから、彼女は恐れない。
リィゼ・クラウス。
魔女ではなく、一人の人として――
この国の明日を、見届けるために。
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