《力の先に》2

 

 リィゼが目覚めてから、十日後――


 王都セリヴァの中心にそびえ立つ大聖堂は、未明より押し寄せた人の波に静かに呑まれていた。

 朝靄をすかして鳴り渡る鐘の音が、厳かな石畳を震わせるたび、民は胸の奥で何かを確かめるように、その場に立ち尽くしていた。


 荘厳なる石造りの広間。天を仰ぐように伸びる高窓には、色とりどりのステンドグラスがはめ込まれ、射し込む陽光が神聖な文様を床に描いていた。

 

 祭壇を囲むように並ぶ白衣の神官たち。

 その前に列席するのは、王国の老臣、歴戦の将たち、そして市民の代表たち。

 

 彼らの背後には、広場を埋め尽くすほどの群衆がひしめき、誰もがただ一人の魔女の行方を、息を呑んで見守っていた。


 やがて、人々の視線が一斉に壇上へと集まる。


 そこに現れたのは、漆黒の衣をまとった女。

 だが今、その姿はどこか清らかで、荘厳ですらあった。


 幻兵の影も連れず、ただ一人、光の中をまっすぐに歩む。

 凛と伸びた背筋。風に揺れる黒髪。

 

 その眼差しに曇りはなく、かつて背負った罪も恐れも、すべてを己のうちに深く受け入れているようだった。


「……リィゼ・クラウス」


 祭司長が、その名を厳かに告げる。

 その声は大聖堂の高い天井に反響し、波紋のように人々の胸へと染みわたる。


 けれど彼女は微動だにせず、その名から逃れようとはしなかった。

 沈黙のなかに、まるで肯定するかのような静けさがあった。


 やがて、玉座より立ち上がったのはセイル。

 その姿に広間がざわめく。

 だが彼が口を開いた瞬間、すべての音が凪いだ。


「魔女、リィゼ・クラウス。 貴女は、この戦乱にあって、王国を救った。

 その力は、ただ命ずるがままに振るわれたのではない。 恐れられるその力で、幾千の命を守り、血に染まる大地に倒れてなお、立ち続けた。

 それは――王命に従ったものではない。 貴女自身の意志によって果たされた、選択である」


 その言葉が、大聖堂の奥底にまで静かに沁み渡る。


 祝福にも似た沈黙が、しかし祝福以上に重く、場を包んでいた。

 それは、ただの赦しではなく、一つの覚悟を受け入れるための、静謐なる間だった。


「ゆえに我は、王としてここに命ずる」


 王の声は力強く、そしてどこか祈りにも似ていた。


「リィゼ・クラウスを、セリヴァ王国の《守護者》として任ず」


 その宣言とともに、銀色の円環がそっと掲げられる。

 それは王家に代々伝わる〈叡智の指輪〉

 剣でも、冠でもない。共に歩み、共に国を築く者にのみ与えられる、信頼と誓約の証。


 王自らがその円環を彼女の肩にそっと触れさせたとき、

 人々の間に、ゆっくりと波のようなざわめきが広がった。


 貴族たちの中には、いまだ険しい眼差しを向ける者もいた。

 沈黙を貫く兵士の姿もあった。

 だがそのなかで、広場の一角から、澄んだ幼い声が響いた。


「ありがとう、魔女のお姉ちゃん!」


 それは祈りにも似た、小さな、けれど確かな声だった。

 続いて起こった拍手は、ひとつの小さな灯火のように、感情の連鎖を生み出した。

 やがてそれは、広場全体を包む大きな波紋となり、やさしい祝福のうねりとなって広がっていく。


 石を投げられ、声を奪われた過去。

 封印され、畏れられた命。

 そのすべてを背負った彼女が、今、《守護者》として、この国に認められようとしている。


 壇上のセイルは、真っ直ぐにリィゼを見つめていた。

 その眼差しには、王としてではなく、ひとりの人間としての、深い信頼と敬意が宿っていた。


 リィゼは、ゆっくりと頭を垂れる。

 言葉ではなく、その所作ひとつで、すべてを返すように。


 そして、静かに――


「……その身、その力、その祈り。 すべてを、この国と人々のために捧げましょう」


 それは、かつて“魔女”と呼ばれた者の声ではなかった。

 ただ、一人の“人”としての、真摯なる誓いだった。


 白き陽光がステンドグラスを透かして舞い降り、

 その影は、リィゼの足元に、まるで翼のように、やさしく広がっていた。

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