《問われる意志》2


 窓の外、重たい雲の隙間から、わずかに青空が覗いていた。

 報せが王都を駆け抜けるのに、そう時間はかからなかった。


 南方――アレス旧砦にて、かつて敗れ去ったはずの影が再び黒き炎を掲げたと。

 敵軍の残党が、集結しているという。


 朝霧に包まれた広場の石畳。

 そこに立つ人々は、低く囁くように、ある名を口にした。


「……また、魔女が出るのか?」

「今度も、あの兵たちが……」


 その声は小さいながらも鋭く、静かに人々の胸を刺してゆく。

 目に見えぬ恐れは、霧よりも深く、広く広がっていった。


 そのとき――

 風が変わった。


 王宮の門が、ゆっくりと開く音がした。

 黒衣をまとい、闇色の髪を風にたなびかせて、ひとりの影が姿を現す。


 リィゼ・クラウス。

 封じられし魔女――かつて戦場を黒く染めた、幻兵たちの主。


 その姿は、記憶に焼きついたまま、何一つ変わらず、そこにあった。 誰もが一歩、後ずさる。

 声をかける者はいない。ただ、その存在に圧されるように、沈黙が広がっていく。


 民の瞳に浮かぶのは、矛盾と迷い。

 恐れと感謝。嫌悪と敬意。 その狭間で、人々は言葉を失い、ただ彼女の後ろ姿を見送るばかりだった。


 リィゼが足を止めたのは――

 かつて幻兵たちと別れた、銀の花咲く丘の墓地。


「……また、出ることになったわ」


 誰に語るでもなく、彼女は静かに呟いた。

 その声は風に溶け、朝の空気に紛れていく。


「あなたたちが守ったこの国を、もう一度守らせてね」


 リィゼの背に、幻兵たちの影はない。

 それでも彼女の瞳には、かつて彼らが灯したの火が、確かに揺れていた。


 王都の空に、陽が昇っていた。

 灰色の雲を割くように、黒い外套が風に踊る。


 それは、終わらぬ戦の前触れのようであり――

 同時に、希望の旗印でもあった。


 王都の空は深く、静かに澄んでいた。

 春の終わりを告げる風が、街路樹の葉をかすかに揺らしていた。




 ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇




 ――そして、出発の朝が来た。


 王都門前。

 まだ陽も昇りきらぬうちに、旅装を整えた兵たちが列を成す。

 金属の音、馬の鼻息、かすかな囁き声。

 それらすべてが、これから始まる戦の足音のように、空気を振るわせていた。


 やがて、リィゼ・クラウスがゆっくりと姿を現す。

 装束は前日と同じ、深い黒衣。


 人々はその姿を見つめた。

 誰も声をかけることはなく、ただ目を凝らして、その歩みを追う。


 中には、いまだ恐れの色を浮かべる者もいた。

 だが、わずかに希望の光を湛えた瞳もあった。


 リィゼの歩みは、静かで揺るぎなかった。

 その足元に、かつての幻兵たちの影が重なるように感じられた。


 門前には、セイルが立っていた。

 若き王は、今日、軍装をまとい、ひとりの戦士としてそこにいた。


「支度は?」


「いつでも。あなたも来るのね。」


 交わされた言葉は短く、けれど、その内には幾つもの想いが込められていた。

 信頼、覚悟、そして、ほんの僅かな迷い。


 王都に残る老臣たちは、王の出陣を止めようとした。 だが、セイルはそれを退けた。

 ――あの日、リィゼの手を取って封印を解いたときのように。


 彼の決意もまた、ひとつの祈りであった。




 出陣を見ていた一人の少女がつぶやいた。

「……まるで昔話みたい。王様と魔女様が並んで、戦いに向かうなんて」


 それを聞いたリィゼはふと目を伏せ、微かに笑みを浮かべる。


「物語の結末は、まだ書かれていないからな」

「……じゃあ、その続きを書きましょうか、オオサマ」


 その言葉に、セイルも反応し、小さく笑った。


 馬のいななき。旗のはためく音。

 将校が号令を上げ、軍の列がゆるやかに動き始める。


 リィゼとセイルもまた、南へと歩き出した。


 門の向こうには、まだ見ぬ戦場――アレス旧砦が待つ。


 誰かがぽつりと呟いた。


「……今度も、帰ってくるだろうか」


 その声に応える者はいなかった。

 ただ、風が吹いた。春の終わりの、冷たくも優しい風が。

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