《問われる意志》3


 王都の喧噪は遥か彼方に遠ざかり、

 進軍の列を包むのは、土と草と、そして未だ焼け残る戦の匂いだった。


 空は薄曇りに覆われ、陽はどこか遠く、霞の向こうで息を潜めていた。

 兵の足取りは重く、鎧の擦れる音だけが、草原を撫でる風とともに小さく響く。

 誰も口を開かず、ただ静かに、まるで過去の亡霊たちを起こさぬように歩を進めていた。


 彼らが進むこの道は、かつて戦の炎に焼かれた場所。

 倒れた者たちの名は今や誰の口にも上らず、それでも土の下に眠る記憶は、風のざわめきとなって彼らの耳を掠めていた。


 馬上のセイルは、何度も後方を振り返っていた。

 列の中ほど、黒衣の魔女――リィゼ・クラウスの姿があった。


 その歩みは変わらず真っ直ぐで、凛としていた。

 だが、夜が明けるごとに、その背はかすかに沈み込んでいた。

 まるで何かを抱え、それでもそれを誰にも見せぬよう、背筋で支えているようだった。


 それが魔力の残響か、魂の疲労か

 それとも、彼女がひとり胸の内に積もらせてきた、消えぬ重みなのか。


「……無理は、していないか?」


 そう問いかけたセイルの声は、どこか遠慮がちだった。

 彼は手綱をゆるめ、馬を歩みに合わせるように止め、並ぶ彼女に目を向けた。


 リィゼは、ほんの少しだけ首を傾けた。

 そして、ふっと微笑んだように見えた。


「……してるわよ。ずっと前から」


 それは、嘆きでも告白でもなく、どこか懐かしさを含んだ、事実だった。

 その声音に宿る哀しみは、彼女自身よりも、もっと深く、もっと長い年月を生きた何かのようで


「少し休憩しよう」

 セイルが提案する。だが彼女は、小さく首を振るのみだった。


「止まるわけにはいかないわ」


「そうか……わかった」

 彼はそれ以上、何も言わなかった。

 ただその言葉を胸に留め、そっとその歩みに並んでついていった。






 ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇ ■ ◇






 そして一行は、やがて戦場の跡に足を踏み入れた。

 灰に覆われた草原は、まるで時間が止まったかのように沈黙していた。


 風は冷たく、血の痕跡すら風化しきったはずのその地に、なお重くのしかかる気配があった。

 折れた槍、朽ちた盾、錆びた剣の破片。

 それらはもはや武器の形すら保たず、地に沈む夕日のように、鈍い赤銅の色を放っていた。


 リィゼは歩みを止め、そっと膝をついた。


 草をかき分けるように伸ばされた手が、そっと土を撫でた。

 その指先から、ほのかな光が零れ落ちる。

 それは熱でも魔力でもなく、まるでこの地に眠る何かへと触れる、繊細な祈りのようだった。


「……ごめんね」

 彼女は静かに呟いた。


「あなたたちのこと、私はちゃんと知ってる。

 名前も、声もない幻だったとしても、忘れてなんかいない」


 それは兵たちへの哀悼だった。

 かつてこの地を守った、存在すら認められなかった者たちへの儚くも強い、感謝と贖罪の言葉。


 セイルは、黙ってその姿を見つめていた。

 彼の胸にも、あの日の記憶が甦っていた。


 炎の中で魔女が立っていたあの背を、戦場のただ中で見つめたとき、王ではなく一人の人間として心を揺さぶられた、その記憶が。


 そして、夕暮れが世界を金色に染めるころ

 彼らはついに、アレス旧砦の影を視界に捉えた。


 砦は、ひどく静かだった。

 崩れた城壁。歪んだ門扉。剥がれかけた紋章と、黒ずんだ石の柱。

 すべてが戦の爪痕をそのままに残しながら、それでもそこに、再び命が灯ろうとしていた。


 砦の広場へと歩を進めたとき、空はすでに群青に染まり、夜の帳が地平からゆっくりと降りてきていた。


 リィゼは広場の中央に進み、再び膝をついた。


 空気が震え、目に見えぬ何かが、微かに空へと昇っていくようだった。

 残された記憶、響かぬ声、消えかけた名。そのすべてが、ひとときだけその場に姿を成したかのようだった。


 セイルが言葉を失ったまま傍らに立つと、リィゼは静かに立ち上がった。

 彼女の瞳には、かすかな光が宿っていた。

 それは涙ではない。

 痛みと、悔いと、そして……希望が混ざりあった、魂のひかりだった。


 そのとき、夜の風が砦を駆け抜けた。

 瓦礫の間を抜けるその風は、まるで眠れる魂たちを優しく撫でるかのようだった。


 そして、その風に乗って、空にひとつ

 かすかな星が、まだ青く残る宵空に瞬いた。


 それはまるで、遠い誰かが見守っている証のように、

 誰よりも小さく、けれど確かに輝いていた。

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