第3話 売れるまで死ねない
佐野は、原宿のスタジオへ向かう電車の中で、無意識に指先を握りしめていた。
車内は静かだった。
網棚の上に乱雑に置かれた作業着の袋。スーツ姿の学生。
そのどれにも、自分はもう属していない。
三日前、社長からの電話一本で日雇い現場を外された。
理由は、「会社のイメージがあるから」と、曖昧だった。
だが、わかっていた。バズった“赤ちゃん動画”のせいだ。
「……笑われたって、食えてりゃよかったのにな……」
ふとスマホを見ると、バッテリーは赤く点滅している。
残高も三桁。家の電気は明日にも止まるだろう。
背水の陣──文字通り、生きるために向かうスタジオだった。
ドアを開けると、冷気と共に、すっと緊張が全身を包んだ。
撮影準備中の照明音。スタッフの動き。
その奥に、柚葉の姿が見えた。
彼女は髪を後ろでまとめ、黒のスーツをぴたりと着こなしていた。
姿勢の美しさと、眼鏡越しに走る視線の鋭さ。だが、それ以上に──
佐野には、“あの日、声をかけてくれた唯一の人間”という印象が強かった。
「あの……柚葉さん、少し……話せますか?」
彼女は手を止め、視線を向ける。
光を反射したレンズの奥で、一瞬だけ表情がやわらいだ。
控え室の片隅。紙コップに注がれた紅茶の湯気が、ふわりと立ち昇っていた。
「……仕事、なくなったんです。あの動画のせいで。
笑われたのもあるし……たぶん、怖かったんでしょうね。俺が“笑いもの”になるのが」
柚葉は黙って、紅茶を啜った。
「でも……腹が立つとかじゃなくて、ただ……寂しかったんです。
何年もやってた現場なのに、あっさり切られて。
“次から呼ばないから”って言われたとき、“ああ、俺って居ても居なくてもいい人間だったんだな”って」
「……それで、“まーくん”を選んだ?」
佐野はうなずいた。
「まーくんのときだけは、誰かが見てくれるんです。
“かわいい”“癒される”って……馬鹿みたいですけど、それが嬉しかった」
「馬鹿みたいだとは思いません」
彼女の声は静かだった。
「大人が甘える場所って、少ないです。誰にも見せられない顔を、ちゃんと演じられるなら、それは才能です」
佐野は、紙コップを両手で包み込むように握った。
「正直、不安です。これを続けて、どこに行けるのかもわからないし……
何歳までこんなことできるのかもわからない」
「それでも今日、来たんですよね?」
彼は、ゆっくりと頷いた。
「……もう、戻る場所がないからです。
日雇いも失って、頼れる人もいなくて。
でも、柚葉さんが“向いてますよ”って言ってくれたことだけは、まだ信じていたくて」
「……その理由、忘れないでください。それがあなたの強みです」
佐野の目が、ふっとやわらいだ。
「あと、ちょっとだけ……個人的な話、いいですか」
柚葉は頷いた。
「……異性と、全然出会いがないんです。
離婚して、それっきり。現場には女性なんていなかったし……
“おじさん”ってだけで、恋愛の土俵にすら上がれない」
彼の声は自嘲気味だった。
「まーくんしてる時くらいですよ、誰かと肌が触れ合うの。
……それが“仕事”ってのも、ちょっと、虚しいですけど」
柚葉は静かに、カップを置いた。
「……正直に言います。
誰かに“触れたい”“繋がりたい”って感情は、恥ずかしくないです。
でもそれを“演技”でしか手に入れられないと、自分を誤解します。
あなたには、“誰かの心を癒せる”力がある。だったら、自分自身にもそれを向けてあげてください」
佐野は目を伏せたまま、微かに笑った。
「……優しい言葉って、しみますね……。
……まーくんの時より、泣きそうでちゅ……」
柚葉も、ふっと笑った。
「泣いてもいいですよ。今日の撮影は、涙目まーくんでも十分“映え”ますから」
白いスタジオの壁面に、まぶしい照明が立ち並ぶ。
照明の熱気と冷房の冷気が交じり合い、無機質な空気が漂っていた。
佐野は“まーくん”として控え室からゆっくりと歩き出す。
足元のロンパースがこすれる音が、異様に大きく聞こえた。
そのときだった。
スタジオの奥の廊下から、女性がすれ違うように入ってきた。
背が高く、凛とした横顔。
ストレートの黒髪は肩にかかるかどうかという短さで、整えられた眉とスッと通った鼻筋が印象的だった。
体のラインを強調しすぎない淡いベージュのセットアップに、ミュール。
だが、ヒールのないその靴音は、コンクリートの床にやけに響いた。
佐野はその瞬間、言葉を失った。
息を吸うのも忘れ、ただ彼女の横顔を目で追った。
(誰だ……? モデル? スタッフ?……でも、ただの顔じゃない。空気が違う……)
彼女はこちらを見ないまま、スタッフに軽く会釈し、反対側の控え室へと消えていった。
胸の奥が、ひゅうっと冷たくなる。
(……また会えたら、ちゃんと……話してみたい)
だが、その余韻は一瞬でかき消される。
「スタンバイ入りまーす!」
佐野はハッと我に返り、口をついて出たのは──
「はいでちゅ……」
スタッフたちの視線が一斉に集まり、肌がちりちりと焼けるように感じた。
ロンパースの内側にこもる熱気が、妙に肌にまとわりつく。
今回の撮影は、寝かしつけ用クッションのSNS広告。
クッションに揺られ、笑う──ただそれだけの動画。
だが、“自然に”“かわいく”を求められるこの現場で、それは異常に難しい。
照明が灯る。
ファインダー越しのカメラマンの目が、佐野を捉える。
「もっと体の力抜いて〜。まーくん、赤ちゃんなんだからね〜」
「はいストップ、笑って。口角、片方だけ上げてみて〜」
(……知らんがな……!)
佐野は内心で叫んだ。
それでも、口元はおしゃぶりでふさがれ、頬を緩ませようと必死だった。
別室のモニター室。
柚葉は腕を組み、画面に映る佐野の表情を凝視していた。
(……違う。今日のまーくん、少し……深い)
眉の緊張。唇の震え。目の奥が、どこか迷子のように濁っている。
それは、“演技”ではなく、“まーくんそのもの”になりかけている危険信号だった。
「ぶぅー……ねむねむでちゅ〜……ミルク……ミルク、ほちいでちゅ……」
クッションの上でとろけるような声を漏らす佐野に、若手スタッフがひそひそ声で囁く。
「……これ、本当に“芝居”なんスか?」
現場に妙な緊張が走った。
一方、SNSにはすでにショート動画がアップされていた。
コメント欄は、急速に埋まっていく。
「逆に癒しすぎるんだけど」
「まーくんロス来そう……」
「この人、ガチで赤ちゃんじゃね?」
「わたしもミルクあげたい」
「仕事で疲れて泣いてたけど、これで笑った」
フォロワーは爆増し、再生数は10万回を超えて跳ね上がる。
けれど佐野には、スマホを見る余裕もなかった。
身体の内側に、冷たい靄が立ちこめていた。
(……俺、これ……抜けられなくなるんじゃ……)
終わった、という声に安堵しておしゃぶりを外し、深く息を吐く。
だが──次の瞬間。
指先が、無意識におしゃぶりをもう一度咥えようとしていた。
(あ……やばい)
慌てて手を引き、視線を逸らすと──
ガラス越しに柚葉がこちらを見ていた。驚きと、不安が入り混じった顔だった。
「……ご、ごめんなさい。いま……無意識で」
柚葉はゆっくりと首を横に振った。
その表情に浮かんでいたのは、ただの心配ではなかった。プロとしての“警告”の色も含まれていた。
控え室に戻った佐野は、衣装棚に置かれたおしゃぶりを見つめた。
銀色の縁が、光を反射してわずかに揺れている。
手は伸びなかった。
けれど、視線は離れなかった。
(……“まーくん”の方が楽だ。何も考えなくて済む。甘えて、許されて、笑ってもらえる)
(……でもそれは、“俺”じゃない)
膝の上で、拳を握る。
指先が痛いほどに沈み込む。
あの女性の横顔が、再び脳裏に浮かんだ。
(……違う。俺は……“俺”で見られたい)
その瞬間、心の奥で何かがはじけた。
逃げ道に沈むのではなく、“自分”で立っていたい。
佐野は、そっと呼吸を整えた。
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