第4話 甘えても死なない

 撮影スタジオの中は、人工的な白光で満ちていた。ベビーベッドに横たわる佐野の額には、うっすらと汗が滲んでいた。照明の熱ではない。意識の奥底から滲み出た、目覚めと夢の狭間の滲みだった。


 視界に映る天井は、ただ白く、曖昧に滲んでいた。ミルクの匂いがした。粉を溶いた甘い匂い。遠くで、女性の鼻歌が聞こえていた。ぬくもり。揺れ。何かに包まれていた幼い記憶。


 彼の意識は、ゆっくりと深く、過去へと潜っていく。


 柔らかい掌が、頭を撫でていた。太くてあたたかくて、何も言わずにずっと撫でてくれていた。顔を覗き込む誰かの影。匂い。呼吸音。ミルクの温度。


 それは、もう何十年も前のはずの感覚だった。


「……おかあさん……」


 声にならない声が、唇の奥で震えた。


 現実に戻ると、誰かが彼の手を握っていた。細く、冷たい指。けれど優しく包むような力。


 柚葉だった。ベビーベッドの縁にかがみ込み、佐野の頬をじっと見ていた。剥げ上がった頭皮に光が反射し、赤みを帯びた頬には年齢の刻印が深く走っている。


 それでも、柚葉の目にはその姿が“赤ん坊”に見えた。演技ではなかった。無防備そのものだった。唇の端が、かすかに上がっていた。自分を許された者の、甘えきった表情だった。


 柚葉はそっとつぶやいた。


「……まーくん、よく頑張ったね……」


 そう言った瞬間、自分の声がわずかに震えていることに気づいた。


 彼のように、あたしも誰かに甘えたかったのかもしれない。そう思った。子どもの頃、泣くことは弱さとされた。抱きしめられるより、叱られる方が多かった。大人になっても、仕事で褒められても、それが“自分”に向けられたものだとは思えなかった。


 まーくん。まーくんは、赤ちゃんとして生き直している。過去の自分を修復している。


 それはあまりに眩しく、どこか痛々しい姿だった。


 撮影終了の声がかかり、柚葉はすっと立ち上がった。目元をぬぐい、いつもの顔に戻る。けれどその胸の奥では、何かが確かに揺れていた。


 控室では、田貫雅春たぬきまさはるがモニターを見つめていた。58歳。丸眼鏡の奥の目は、決して笑っていなかった。


「……またあいつか」


 ぼそりとつぶやいた声に、誰も応えない。


 柚葉が入ってきたのを見て、彼は立ち上がった。


「佐野さんのことですけど……あれ、もう“演技”じゃないですよね?」


 柚葉は黙っていた。田貫は続けた。


「俺だってやってますよ。“おしりぺんぺん芸人”って言われながら十年。でも……あれは違う。赤ちゃんを“演じてる”んじゃない。“戻ってる”んですよ、完全に」

 その目には、諦めと、焦りと、怒りと、羨望が渦巻いていた。


「俺たちは、甘えの“仮面”を被って笑われる役だった。でも佐野さんは、甘えて“愛されてる”。そこが違うんです」


 柚葉は、口を開かなかった。返せる言葉がなかった。


 田貫は肩を落とし、椅子に深く腰を下ろした。


「……俺、何してたんだろうな」


 それは、自分に向けた呟きだった。


 アパートに帰り着いた佐野は、玄関で靴を脱ぐと、いつものように真っ直ぐキッチンに向かった。

 狭い流し台の上には、粉ミルクの缶と哺乳瓶が並んでいた。


 作業着を脱がないまま、湯を沸かし、粉を測り、瓶に注ぐ。


「……お湯、あちちでちゅ……」


 誰もいない部屋。けれど、口調は自然と“まーくん”のそれになっていた。


 湯気が立ち上る瓶の先に、彼の目は少し潤んでいた。


 ごくごくと、ミルクを飲む。体に沁みわたる温もり。


 昔、自分はこんな風に誰かに育てられたのか。


 それとも、誰の腕にも抱かれないまま、育ってしまったのか。


「……まーくん……いい子でちゅか……?」


 返事はない。ただ、鏡に映る自分の顔が、静かに頷いたように見えた。


 畳に転がったまま、佐野は天井を見つめていた。

 古い染みの一つひとつに、今日の撮影の情景が重なっていく。


 思い出すのは、柚葉の手の温度だった。


 優しかった。偽物かもしれないけれど、それでも、自分を包んでくれた。


「……俺さ、ずっと甘えたかったんだろうな……」

 そう口にして、静かに目を閉じた。


 まるで、誰かに許可をもらうように。



 その頃、柚葉の元には一通のメールが届いていた。


 件名はシンプルだった。


 《まーくん配信のお礼とお願い》


 本文には、丁寧な文体で書かれた長文が綴られていた。


『私は24歳の男性です。母から育児放棄され、施設で育ちました。

 愛されるとはどういうことか、ずっとわかりませんでした。

 人を信じることも、甘えることも、許されないと思って生きてきました。

 でも、まーくんの配信を見て、初めて泣きました。

 誰かに甘えるという行為が、あんなにあたたかいものだと初めて知りました。

 自分も許されてよかったんだって、少しだけ思えました。

 ありがとうございます。いつか直接、お礼が言えたら嬉しいです』


 柚葉はその文章を何度も読み返した。 


 指が微かに震えていた。


 まーくんは、誰かを癒していた。


 彼自身が癒されながら、同時に誰かの心の穴を埋めていた。 


 それが、どれほどのことなのか。


 画面の向こうの、匿名の誰かの涙と、まーくんのあの寝顔が、重なった。

 スタジオでは、翌日のスケジュールが調整されていた。


 またまーくんの撮影が入っていた。特集ページ。動画用短編。育児系メディアからのコラボ企画。

 どれも「まーくん」という存在を“癒しの象徴”として求めていた。


 佐野は、そのことを知らないまま、いつもより早く目を覚ました。


 布団の上で、手のひらをそっと合わせ、目を閉じる。


「……今日も、がんばるでちゅ……」


 小さな声。けれど、確かに届いたその一言。

 甘えは、演技か。本能か。癖か、願いか。

 答えは、まだ誰にもわからない。


 それでも、佐野はまた今日も、スタジオに向かう。


 甘えるために。


 生きるために。




 柚葉は一歩下がった場所から、撮影のモニターを見つめていた。


 今まさにベビーベッドでミルクを咥えているのは、55歳の男性──佐野雅晴。


 けれど画面の中の彼は、誰よりも“赤ちゃん”だった。

 このジャンルは「赤ちゃんプレイモデル」と呼ばれる。


 育児系グラビアや介護コスプレから派生し、一部の動画配信サイトやSNSで広がった。


 もともとはマニア向けのコントだったものが、やがて“癒し”や“育て直し”を求める人々に支持されるようになった。


 ALiVEでは数年前からその可能性に着目し、“大人を甘やかす育児コンテンツ”として本格的に育成を始めた。


 まーくんはその中でも、異例の伸びを見せている。


 だが、それでも彼を採用したとき、社内の会議では賛否が分かれた。


「おっさんの赤ちゃんなんて誰が見るんだ」


「いや、むしろリアリティがある」


 結果、試験的に一本撮られた動画が、一晩で十万再生を超えた。


 それ以来、佐野の存在は“業界の希望”として、急速に知名度を伸ばしていった。


 柚葉は、佐野の動画に付けられたコメントを思い出す。


『こんな人に育てられたら幸せだった』

『自分も甘えてみたくなった』

『最初はキモいと思ったけど……泣いた』

『まーくんを見て、自分を許せた気がします』


 “赤ちゃん”になって、生き直す人がいる。


 “母”になって、人を愛し直す人もいる。


 それは、役でも演技でもない。


 誰かの記憶と、癒しと、許しの連鎖。


 控室では、田貫がテレビをぼんやり眺めていた。


 画面の中で笑うまーくんの姿を見ながら、独りごちる。


「……そこ、昔は俺の席だったんだよな……」


 彼の声に、誰も応えない。


 赤ちゃんプレイモデル。


 滑稽だと笑う人もいる。


 だが、涙を流す人も、確かにいた。


 柚葉は心の中で呟いた。


 まーくんが笑ってる限り、私はこの世界を肯定してみたい──

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55のおっさんが付き合うまで死ねない ~55歳、脂と涙と偏見を超えて 縁肇 @keinn2016

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