第2話 笑われても死なない


 名刺を握りしめた夜、佐野は眠れなかった。畳の上に敷かれた煎餅布団の中、扇風機の低い音が回り続ける六畳一間。天井の染みを見つめながら、頭の中では何度も「画になる」と言われた瞬間が再生された。


 翌朝、ALiVEから連絡が入った。 「今週中に一度、撮影テストに来てください」


 電話の声は機械的だった。だが、佐野には天使の声に聞こえた。


 それからの数日、彼は仕事を減らし、撮影に備えた。鏡の前で笑顔を作る練習を繰り返し、眉毛を整え、鼻毛を抜き、耳の裏まで入念に洗った。ドラッグストアでBBクリームとチークを買い、YouTubeでメイク動画を見て、額のテカリを抑える練習までした。


 「……これで、まーくんも、ぴかぴかでちゅね……」


 呟いて自分で気づき、また顔が真っ赤になる。それでも止められなかった。


 モデル──それは見た目を売り物にする仕事だと、佐野は思っていた。だが現実は、単なる“顔がいい”“スタイルがいい”だけでは生き残れない世界だった。


 現場に入るとまず求められるのは、カメラの前で“自然に魅せる”という異能のような技術。ポーズ一つ、目線一つ、手の置き方や足の角度に至るまで、細かい指示が飛ぶ。


 柚葉に連れられて初めて見た撮影現場は、静かで、機械音と指示の声だけが響いていた。笑顔の裏にある緊張感。立っているだけなのに、モデルたちは皆、背筋が凍るような集中をしていた。


 “可愛い”や“かっこいい”は、瞬間で終わる。次の瞬間には「違う」「もっと自然に」「それは演技臭い」とカメラマンからの厳しい声が飛ぶ。


 照明は肌を正確に映すためのものであり、シワも毛穴も誤魔化せない。ヘアメイクは崩れれば即修正。体型管理も仕事の一部。朝から炭水化物を抜き、顔のむくみを取るためのマッサージを欠かさないモデルもいた。


 雑誌に載る一枚の写真の裏には、数十、数百というカットと、緻密な調整と、そして“瞬間の奇跡”がある。


 TikTokやSNSでバズるモデルは、企画力と自己演出が問われる。動画で目を引き、拡散され、見られ、指名される。それを繰り返して初めて、“プロ”として名乗る土俵に立てる。


 佐野にとって、それは未知であり、恐ろしく遠い世界だった。


 当日、原宿の閑静な路地にある白を基調としたスタジオ。扉を開けると無機質な空間に照明が並び、天井の高いホリゾントに音が吸われていた。


 冷房は効いているのに、佐野の背中にはじっとりと汗がにじんでいた。脇汗対策に詰め込んだキッチンペーパーが、既に湿っているのを感じた。


「こんにちは」


 現れたのは、あのときの女性──柚葉だった。黒縁の眼鏡をかけ、無駄のない黒のスーツに身を包んでいるが、その端正な装いの下からは隠しきれぬ豊かな胸元と、スカート越しにも明らかな張りのある尻のラインが浮かび上がっていた。歩くたびにタイトスカートの生地がわずかに引きつれ、その柔らかな曲線を確かに主張していた。


 佐野は思わず視線を逸らした。だが一度捉えてしまったそのラインは、頭から離れなかった。


(でか……じゃなくて、えらい……緊張する……)


 喉がごくりと鳴ったのを隠すように咳払いしながら、彼は無意識に背筋を伸ばしていた。


「では、簡単なポートレートテストから始めます。こちらの椅子に座ってください」


 カメラマンとアシスタントが無言で動く中、佐野は指定された椅子に座った。喉がからからだった。口元を引き締めようとするたび、口角が震えた。


「じゃあ、軽く笑ってもらえますか?」


 佐野は頬を引き上げようとしたが、緊張でうまくいかない。 「も、モデル……ぽい顔って……なんでちゅかね……」


 その瞬間、室内の空気が止まった。


 カメラマンがファインダーから目を離し、柚葉が僅かに眉を上げる。


「……今の、地ですか?」


「……は、はいでちゅ……じゃなかった、はい」


 佐野は冷や汗を垂らしながら、うつむいた。


 だが、沈黙のあとで、柚葉は小さく笑った。 「面白いですね。ちょっとコンセプト変えましょう」


 その場でメイク担当と衣装スタッフが呼ばれ、ざわざわと準備が始まった。差し出されたのは、ロンパース型の部屋着と、乳児用のスタイ、そしてカラフルなおしゃぶり。


「これ……着るんでちゅか……?」


「赤ちゃんモデル。TikTok向けに一発撮ってみます。私が“お母さん役”やります」


 佐野は迷った。だが、すぐに頷いた。


「まーくん、やりまちゅ……」


 白い背景の前で、赤ちゃん姿の中年男性がミルク瓶をくわえ、ハイハイして微笑む。


 柚葉は「お母さん」として立ち会い、優しい声を意識的に作った。


「まーくん、おいで〜。よちよち、がんばれたね〜、いい子ね〜」


 佐野は全身の羞恥を噛みしめながらも、無意識に反応していた。


「まーくん、がんばったでちゅ……ミルクほちい……」


 ミルク瓶を咥えた彼の目が潤み、柚葉が近づくと、佐野は腕を広げて甘えるようにしがみついた。


「よしよし、まーくん、えらいえらい。今日もかわいいね〜」


 その声は不思議な安心感を伴って、佐野の耳の奥に染み込んでいった。彼の中の“甘えたかった気持ち”が、じわじわと滲み出す。


 カメラマンがそっとシャッターを切る中、柚葉は佐野の頬を軽く撫でた。 佐野は頬を染めながら、ぽつりと呟いた。


「……ほんとに、お母さんだったら……よかったでちゅ……」


 柚葉は一瞬、驚いたようにまばたきし、佐野の表情をじっと見つめた。演技だとは思えなかった。


 しばらくの沈黙のあと、小さく笑って囁いた。


「……わかります。私も……誰かに、甘えてみたいなって思うこと、あります」


 その声には、演技ではない柔らかさが滲んでいた。



 撮影が終わると、編集チームが即座に素材を持ち帰り、TikTok用にカットとテロップが加えられた。投稿された動画のタイトルは──


《55歳、赤ちゃんに戻る。スカウトされた男の末路》


 わずか数時間で、動画には驚くほどのリアクションが集まった。


「キモかわw」

「ガチで吹いた」

「謎の癒し力ある」

「これ何回も見ちゃう」

「逆に好き」


 再生数は一晩で三万を超え、フォロワーも千人を超えていた。


 だが、佐野自身はスマホの画面を見つめながら、どう笑えばいいのか分からなかった。


 翌朝、いつもの現場に顔を出すと、待ち受けていたのは若い作業員たちの笑い声だった。


「おい佐野! 見たぞ、あれ!」

「赤ちゃんになってて草!」

「おしゃぶりの似合うオヤジって初めて見たわ!」


 動画のネタとしては完全に“当たり”だったらしい。スマホを向けられ、冗談半分にサインを頼まれもした。


 だが──全員が同じ反応だったわけではなかった。


 年配の職人たちは無言で佐野から距離を取り、目を合わせることもなかった。中には小さな声でこう漏らす者もいた。


「……現場に笑われ者がいたら、締まらねえ」


「恥ずかしくないのかね、ああいうの」


 痛みよりも、空気の重さがこたえた。


 三日後、日雇い会社の社長から電話が入った。


「……悪いけどな、佐野さん。ちょっとウチのイメージもあってな。しばらく現場は……お休みってことで」


 それは、やんわりとした解雇通告だった。


 財布の中には三千円。次の現場の予定は白紙。アパートの郵便受けには、電気料金の督促状が顔をのぞかせていた。


 佐野は、その夜、一人で公園のベンチに座っていた。


 スマホを開けば、今も“まーくん”の動画は回り続けている。再生数は増え続け、コメント欄は賑わっている。


 なのに、自分の暮らしは、一つも楽にはなっていなかった。


 それでも、あのとき柚葉に言われたことが、何度も頭をよぎる。


「……わかります。私も……誰かに、甘えてみたいなって思うこと、あります」


 ふと、彼女の言葉が、ただの優しさ以上に思えてきた。


 佐野は意を決して、スマホを握りしめた。


 指が震えていた。画面の向こうに繋がっているものは、希望か、絶望か。それは分からなかった。


「……すみません、少しだけ、お時間いいでちゅか……?」


 送信ボタンを押したあと、ベンチに背を預けた。風が木々の隙間を抜けていった。


 照明も音楽もない、リアルすぎる夜の中。

 それでも彼は、自分が今までの人生で最も“誰かに見られていた”ことを実感していた。

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