55のおっさんが付き合うまで死ねない ~55歳、脂と涙と偏見を超えて

縁肇

第1話 スカウトされるまで死ねない


 汗で濡れた作業着が、背中にぴったりと貼りついていた。真夏のアスファルトは、焼けたフライパンのように熱を吸い、照り返しで足元から焦がす。頭頂部は日光を遮るものもなく、剃り上げた頭皮にじりじりとした熱が降り注いでいた。


 佐野雅晴、五十五歳。独身、バツイチ、子なし。元営業マン、現日雇い労働者。頭頂部の髪はきれいに後退し、側頭部だけがしぶとく残っている。膨れた腹は汗で濡れたシャツを押し上げ、顔には常時、赤みを帯びた汗の筋が走っていた。


 若い頃は社交的で、成績も悪くなかった。それでも、女性関係だけはうまくいった試しがない。付き合った数は少なく、関係も長くは続かなかった。結婚したのは一度きり。三年で終わった。


 最後に妻に言われた言葉が、今も記憶に焼きついている。


「誰かに甘えたいなら、お母さんのところに帰りなさい」


 甘えたかった。ただ、それだけだった。だから、赤ちゃんプレイパブに通った。


 カーテンで仕切られた狭い個室。ベビーベッド風の柔らかい枠に囲まれたソファ。ミルク瓶を模した甘い飲み物と、お尻を包む大人用の紙オムツ。ナース服の女の子に「まーくん、いいこね」と笑われながら、頭を撫でられ、耳元で優しい声をかけられると、涙が出そうになった。


 目を閉じて、無心になって、ただ撫でられる。


 人に甘えるという感情が、どれほど渇望されていたのか、自分でも驚くほどだった。何も喋らなくていい。頷くだけで「よしよし」される。何も決めなくていい。ただ、“いい子”として、存在していればいい。


 それすらもバレて、離婚された。


 あのとき、自分の人生は終わったと思った。死のうともした。だが、死ねなかった。死ねなかったからこそ、生きてやるしかない──と、無理やり自分に言い聞かせて十数年。


 今でも、疲れがピークを越えると、不意に癖が出ることがある。


 「よしよし……」と、自分の腕を抱きしめるように撫でていたり、何気なく口から「まーくんはえらい子」と小声で呟いていたり。


 それに気づくと、慌てて手を引っ込める。


「まーくん、よしよし、えらいでちゅね……」

 たまに漏れてしまうその声に、自分自身がぞっとすることもある。誰にも見られていないと確かめてから、ため息をつく。


 ちなみに、現場でもたまに赤ちゃん言葉が漏れている。重い荷を担ぎ上げたとき、腰を痛めて思わず「んん〜、まーくん、がんばりまちた……」と唸ったのは数日前。同僚に聞かれて「腰、やっちゃってさ」とごまかしたが、顔は真っ赤だった。


 ──こんな自分が、もう一度誰かに見られる価値なんてあるのか?


 そう問いかけながらも、今日も彼は駅前に立った。


 その日、現場の片付けを終えた帰り道、彼は新宿駅の大型ビジョンの前で立ち止まった。


 白いワンピース。黒髪。透明感のある微笑み。


 それは、広告の中に映る一人の女性モデルだった。


 白石美月。ALiVE所属。


 彼女の名前を知らなかった。だが、その瞬間、佐野の心に風穴が空いたようだった。


 その日の夜、彼はスマホで「スカウトされる方法」と検索した。清潔感。姿勢。ナチュラルな表情。スカウトされやすい場所。年齢は問わないと書いてあった。


 ──だったら、俺にもできるかもしれない。


 それから、佐野の執念は始まった。


 作業着の下に白シャツを着込み、現場終わりに駅前のカフェで読書をする。無表情で遠くを見る練習。表参道の美容室で眉を整え、剃刀で頭を光らせる。


 休日は原宿や渋谷を巡った。三日目、誰にも声はかからなかった。五日目、立ち止まりすぎて警備員に注意された。七日目には、ハンチング帽が蒸れて軽い熱中症になった。


 十日目、現場を終えた直後の汗だくのままで立っていたら、すれ違ったカップルに「くっさ」と言われた。十二日目、鏡を見て、初めて「もう無理だ」と呟いた。


 だが、十五日目の朝。足の裏には靴擦れの水ぶくれ。腰は悲鳴を上げていた。それでも、佐野は駅前のベンチに座り、背筋を伸ばし、雑誌を広げていた。



 三十度を超える夏の午後。シャツの襟に染み込んだ塩と汗の臭いが、微かに風に溶けた。


 体力も金も、限界だった。昼は現場で汗を流し、夜は翌日の服を洗って干す日々。昼食はコンビニのおにぎり二個。浮いた金は化粧水と散髪代に回した。


 渋谷の交差点、原宿の路地裏、表参道のベンチ。すでに十数か所を巡った。視線を集めたことはある。笑われたこともある。


 だが──誰も「声」はかけてこなかった。


 それでも彼は、あの白石美月の映像を、何度も何度も脳内で繰り返していた。光が宿ったような肌、風にたなびくワンピース、レンズ越しでなく“こっち”を見ているような視線──。あの広告は、ただの映像ではなかった。生きている実感を、死にかけた心に注ぎ込んでくる“光源”だった。


「いいなぁ……ああいう子に、よちよちって言ってほしかったでちゅよ……」


 そう呟いた直後、彼は自分の言葉にハッとして顔を覆った。けれど、その情けなささえ、もう慣れてしまっていた。


 毎日汗にまみれた作業服を手洗いし、靴の中敷きには新聞紙を詰めて乾かした。街で見かけた若者たちが笑いながら通り過ぎるたび、胸の奥がずしりと重くなった。


「おじさん、頑張ってるね」と一度でいいから言われたかった。


 その時だった。


「すみません、ちょっとよろしいですか?」


 振り返る。


 黒のジャケットを着た若い女性が立っていた。眼鏡越しの瞳が、まっすぐに自分を見ていた。


「あなた、今すごく“画になる”立ち方をしてました。……ALiVEというモデル事務所の者です」


 名刺を受け取った手が震えていた。汗で少し湿った紙の感触が、なぜかリアルだった。指先が痺れるように熱を帯びて、息が浅くなる。


 こんな感覚、何十年ぶりだっただろうか。誰かに名前を呼ばれたわけでもないのに、自分の存在が肯定されたような気がした。


 その名刺の上に、小さく書かれた文字。

 ALiVE──白石美月の、あの眩しすぎる世界。


「……待っててね、美月たん……まーくん、がんばるでちゅから……」


 小さな声でそう呟いた。誰もいない交差点の片隅。ビルの隙間から吹き抜ける風に、名刺の角がわずかに揺れた。


 名刺をポケットにしまったあとも、佐野はその場からしばらく動けなかった。交差点のざわめきが遠くに感じた。手のひらの熱がなかなか引かない。柚葉が立ち去った方向を、ぼうっと見つめていた。


「美月たんと、並んで歩いて……一緒にミルク、飲んで……」


思わず妄想が口をついて出る。


「……ダメでちゅ、まーくん、興奮しすぎでちゅ……」


 帰り道、駅のホームで電車を一本見送った。足元の小さなアリを目で追いながら、自分の歩幅で、少しだけ未来を想像していた。


 ボロアパートの階段を軋ませながら上り、布団に寝転がると、胸に手を置いた。


「……付き合えるわけ、ないか。けど……」


 その“けど”が、初めて、明日を照らしていた。

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