第2話

 少女が見守るあの子供は眠った。夢の中に入り込めば、やはりそこは悪夢だった。

 彼は悲鳴をあげるなり、住宅街を走り出した。疾走する子供の荒い息と共に濃厚な思いが伝わってくる。

 殺される! 殺される‼︎ 殺されるっ‼︎

「何に殺されるの⁉︎」

 何度も後ろを振り返る子供を少女は必死に追いかけた。そうして何度も振り返るうちに、道の奥から子供を追いかける黒い人影の軍勢が見え始めた。少女は思わず空中にホバリングした。

「ひっ……!」

 振り返った子供は喉を引き攣らせた。転びそうになりながら手足を叱咤して駆けていく。

 その人影は手に手に凶器を持っていて、時折ぎらりと首が竦むような光を此方へと向ける。そのなんだかよく分からない者達から逃げ惑い、二人は森へと逃げる。

 そこらじゅうにギザギザの葉を持つ大樹達が聳えている。まだ追いかけてくる真っ黒い人影から我武者羅に走っていく。日本刀らしき光を避け、鋏を突き立ててくる人影に絶叫して逃げる。斧が飛んできたり、鋭く尖った巨大な鉛筆を潜り抜けたりする。

 たびたび悲鳴を上げながら二人は無茶苦茶に迷走した。森の大樹たちも行く手を阻む。根っこを足のように使ってドシドシと走り回り、二人を追い詰めるように取り囲んでいく。それは梢を蛸のように縦横無尽に振り回す。二人は集まっていって檻のようになった木達をやっとの思いで擦り抜けた。

「何なんだよ! 何だって言うんだよ!」

 子供は泣きながら走る。目一杯少女が力を使ってもなかなかいい状況へ変わっていかない。

 しん、と急に物が消えた。真っ白な床に乳白色の煙が漂っている。

「は? なに……?」

 少年の後ろから鬼が現れた。ぬう、と顔を突き出すように現れたそれは歯をガチガチと鳴らしている。びゅうんと音を立てて振り下ろされた鉈から逃げ出す。離れると、鬼は口を大きく開いた。その口から現れたのは、鬼の口だ。真っ赤な鬼の真紅の口腔内から、真っ青な鬼の紺色の口が溢れるように出てきた。その口は口々に罵詈雑言の限りを尽くす。

「シネ」

「キエロ」

「オマエサエ、イナクナレバ」

「しネ」

「ヘーンなノ」

「ばーか」

「阿呆」

「だっせーの!」

 リアルになっていく責め方に子供は耳を閉ざした。耳を押さえて首を振り続ける。

「煩い! 煩いっ! やめろぉぉ‼︎」

「あああぁぁぁぁ——‼︎」

 少女は一気に力を出し切った。

 ぷちん、と音がして、電灯が消えるように一瞬暗くなってからようやく家に場面が移った。

「か、母ちゃん……父、ちゃん……?」

 ただ、そこはいじめが見つかったて、なぜ黙っていたのか子供が叱責されようとしていた。

 嵐が通ったかのように荒れ果てた家は床一面に紙が散っている。それには目を逸らしたくなるような言葉の類いが記されている。まるで鬼のように怒鳴って怒る女。いじめの証拠品を持って狂ったように意味を持たない奇声を上げる男。

 家からも逃げ出した子供を少女は追いかける。彼はぐんぐん走って行って、転んでしまった。起き上がったものの、疲れたのか立ち止まった子供は振り返ってうわ!と叫んだ。

「何? なになになに!」

 少女が急なことに動けずにいると、相手は勝手に安堵した。大きく息を吐く。

「なあんだ、妖精か。びっくりさせないでよ」

 少女は首を傾げた。妖精なんて言われたことはなかったからだ。それでもこの子にとってはそうなのだろうと納得して、膝を折ってその子と視線を合わせた。

「いじめられてること、相談しないの?」

 げ、と子供は顔を顰めて下を向いた。

「だって、母ちゃんはいま、忙しいし。父ちゃんだって職場に馴染まないとって言ってたし」

「でも、親ってあなたを護るのが役目じゃないの?」

 少女が何気なく口にした途端、頭に雷が落ちたような衝撃を受けた。役目。護る。何かを思い出せる——⁉︎

「そうだ、けど。迷惑かけたくないし、恥ずかしいし。俺が悪いんだし」

 仄かな考えはその無気力な発言で吹き飛んだ。少女は反射的に言い返していた。

「そんな事ないよ! いじめは周りの子が悪いんだよ⁉︎ 相談するのは逃げる事じゃない、立ち向かうって意味だよ。独りだと辛いから、みんなに手伝ってもらうだけで!」

「それが嫌なんだって! 向こうは人数が多いから威張ってるんだよ! それが嫌なのに、おんなじ事をしたくない!」

 少女は首をブンブン横に振った。違う。それは間違っている。

「良いんだよ。悪い事じゃない。仲間をそういう悪いことに使うのが駄目で、手伝ってもらったり、良いことに使うのなら恥ずかしくも何ともないよ! 悪いことに使う人が恥ずかしいよ! 相談して、悪い方に転じるなんてあり得ないっ! 誓ってもいいよ! 嫌じゃないの? いじめは辛くないの?そんな目に遭わないようにして何が悪いの⁉︎」

 ぽかんとして少女の力説を聞いた子供は少女の服の裾を掴んだ。

「そう、かな? 本当に、母ちゃんと父ちゃんに頼って良いのかな?」

「勿論だよ! 先生だって、周りの大人だって良いんだよ。お母さんやお父さんはいじめないでしょ? いじめない人にちゃんと相談しよう?」

 笑顔になって子供は頷いた。明るい声が夢に弾けた。

「たしかに、そうかも。分かったよ、相談してみるね」



 少女はいつもの図書館に滑り込んだ。分厚い本を次々と読んでいく。その日を丸ごと費やす気だった。目を剥くような速度で読んでいったが、それでもあの少年の鮮やかさには勝らない。彼はもっと水の流れのように自然に本を手繰っていた。でも、もうあの手を見る事は叶わない。

 今でも、ふとした時に思い出す。小さな仕草達を。前髪を除ける手。座ってぷらぷらと振っていた足。走って行って振り返った時の笑顔。どれもかけがえのない大切な日々。涙が出るほど愛おしい彼。

 そこで少女は擦り寄ってきた猫に気がついた。金の毛並みに蜂蜜の瞳。思わず毛並みを撫でた。

「にゃぁん」

 ごろごろ喉が鳴っている。少女は微笑む。

「追い出されちゃうよ」

 抗議するようにナーと鳴いて猫は身を翻した。少女は追いかけたが、すでに猫は居なくなっていた。

 仕方なく少女は図書館の外へ出た。もう、日が翳り始めている。仕事の時間だ。

 少女はアパートにやって来た。壁面は剥げていて、無粋な鉄柵は錆びてところどころ抜け落ちていた。ボロボロの住居の一番奥の部屋へドアを通り抜けて入った。幼女と言ってもおかしくないような小さな女の子が眠っている。その子の夢に少女は入った。

「わあぁ」

 少女は思わず歓声を上げた。綺麗な桃色や黄色の花びらが敷き詰められた所に着いたからだ。ちょろちょろと小川が流れ、覗き込めば魚が泳いでいる。蝶が舞い、鳥が飛ぶ。まさに桃源郷のようだった。幼女は小川で魚を追いかけて遊んでいる。喜色を露わに魚を掬う。

 その少女の頬にガーゼが貼られている。その他にもあちこちに痣があった。腕や、服が翻って見えた腰、跳ねた脚にも。こういうのを何というんだったか。親が子を虐める事を表す言葉。そう、虐待だ。

「どうしていないのかなぁ」

 幼女は不意に首を傾げた。彼女の手から魚が滑り落ちる。

「お母さん、喜ぶかな。お父さんもこれを見たら、お母さんのところに戻ってくれるかな」

 鳥が幼女の肩に留まった。

「ねえ、お母さんとお父さんどこか知らない?」

 鳥はぴい、と鳴いて飛んでいった。幼女はそれを追いかける。

「鳥さん待って!」

 水が硝子片のように煌びやかに輝いた。幼女はどんどん離れていく。少女は思わず幼女を追いかけた。翼を最大限使って飛翔する。急がなければ、可哀想だ。少女が追いついた時、鳥を見失った幼女はわんわん泣いていた。間に合わなかったのだ。この状態になってしまえば、少女に手出しはできない。

「お父さーん! お母さーん! どこぉ? どこにいるの? お母さぁん!」

 居た堪れなくて少女は幼女の背を摩る為に手を伸ばした。

「駄目だ」

 凛とした声が少女に言った。振り返った少女にもう一度声がかかる。

「まだ君に気づいていない人に触れるとその人にとって君は尋常じゃないほど眩しく見えてしまう。そうすればその人は夢を二度と見れなくなってしまう。失明してしまうのと同じだ」

「でも……」

「駄目。失幻しつげんしてしまう」

「失幻?」

「そう。夢を——逃げるための居場所を永遠に失ってしまう」

 夜空のような黒い髪に星のような琥珀の眼。その少年は少女を促した。

「外に出ないか?」


 夢の外に出て無表情な少年は夜の街を歩いていく。少女は項垂れて少年の後を追う。少年が言った事は正しい。しかし、それは少女が結核だった少年以外に打ち明けてこなかった秘密のはずだった。彼と、少女だけの。

「あの、貴方は何なんですか」

 少しきつい口調で尋ねてしまった。そんな少女の言い方を気にも留めず、少年は機械的に答える。

「僕は闇。宇宙を見護る者の一人」

「や、み? 名前が?」

「……そう。地球は宇宙に包まれている。宇宙という名の分厚いベールが地球を守っている。そして、地球から他の星々、神々を守護している」

 星。星々。そして神。闇、守護、光——

「星……星、神様?」

 少女は思わず呟いていた。天啓のようにその言葉は突如脳内に湧いた。

 それを聞いてか、眼をきらりと輝かせて眩しく闇は首を傾げた。

「そして僕にはもう一つ役目があるんだ。そのために質問させてもらおう。君は君が誰だか知っているか?」

 少女は自分自身の暗い暗い地獄まで続きそうな闇を見て目を逸らした。

「……いいえ……」

「僕はそれを知っている。どうしたいか?知りたいか、知りたくないか?」

「私は、……悪い物?」

「良い者だ」

 ふ、と闇は口元を綻ばせる。

「心配しなくても、君は何も悪くない」

「本、当に? 絶対に……間違っていないの?……」

「ああ。たがえようがない」

「……なら、知りたい」

 琥珀の瞳がすっと細められた。厳かな表情になった闇は一拍を置いて猫の姿になった。淡く優しく光の粒を放ち、それが消えると大きな猫が現れていたのだ。

「うわぁ……」

 優美な猫は少女より大きい。艶やかな黒色や琥珀の瞳は変わらず、四肢や尾の曲線が美しい。トラックほどもありそうな大きさで少女は目を丸くした。漆黒の黒猫は背を屈める。先程と変わらない声が少女を促した。

「行かないのか?」

「い、行く」

 促されるままに少女は彼の背に跨った。彼は地を蹴った。無駄な動きのない滑らかな動きだった。天空に舞い上がり、緩やかに駆ける。星々は目一杯広がっている。

「わぁ、綺麗」

「そうか? なら、下も綺麗だと思うが」

 落ちないように気をつけながら下を覗き込んだ少女はまた歓声を上げた。

「すごい!」

 夜間の灯りが、街を浮かび上がらせている。血球のように流れる車の光で道路は血管のようだ。黒と金の配色が世界に満ちていた。

 やがて、民家が疎になり始め、山奥に黒猫は身を隠すように舞い降りた。降りたそこは神社。賽銭箱の隣に居た小柄な人が立ち上がった。その宵闇の中の男性は着物を着ている。

「闇神様!」

 人の形に戻った闇は頷く。子供を宥めるような少し優しげな目で。

「合ってるな?」

「はい……! はい!」

 駆け寄ってきた少年はこくこくと頷いた。そして少女を唐突に抱きしめた。でも、少しも嫌な気がしなかった。家に帰ってきたような安堵が少女の身を包んでいる。疑問を感じながら安堵するなんて変な話だ。そして、そわそわする。心の底が撫でられているような……。

「ようやく……‼︎」

「あの……貴方は……?」

 泣き崩れる少年に少女は既視感を抱いていた。訳が分からないのに、困惑しているのに、少女の目から涙が溢れた。嬉しかった。静かな闇の声が解説する。

「君たちは宇宙にあるべき星とその光だ。その男は星としての寿命を終えて、人として君を待とうとした。だけれども、人は弱い。前世の記憶を持ちきれなかった。そして、そのまま死んでしまった。それでも死にきれず、過去に戻り、この神社の神として祀られている。もう、神主すらいないが。……君さえ受け入れれば光だった頃の記憶は君のものにもなる。君は元から存在が希薄だ。だから人ならざるものとなっても記憶を保ちきれなかった。——思い出せそうかな」

「いえ……いいえ。……その、ごめんなさい」

 少年が鼻を啜ってから言った。

「いいや、思い出さなくて良いんだ。いいんだよ、また逢えただけでね」

「また……逢えた……?」

 少年は頷いて笑った。少女は理解した。思い出した。少年のその頷き方は、あの子のものだ。結核、咳、柔らかな声音、ページを捲る手、外を眺める横顔、空を見上げる笑顔。あの、少し寂しそうな。

「あ、……天の川は、綺麗……? だよ、ね?」

 それが二人の合言葉のようなものだった。人間時代の彼がよく言っていたから、彼ならば分かる。少年は眼を見開く。

「……! うん、もちろん綺麗だよ。僕らがいなくてもね。一度、邂逅していたのに、どうして気づかなかったんだろう……悔やまれる」

 悔やまれる、という言い方が神妙そうな声と妙に合っていて、少女は笑った。そのまま少女は彼の胸に顔を埋める。背に回された手が愛おしい。もう二度と、忘れない。大切な居場所。

「星神様、待たせてごめんなさい」

みつるしょうでいいよ。また、よろしくね」

「うん」

「思い出した?」

 星が頷いた。光は笑う。もう離れない。放さない。ほんのりと心が暖かく色を取り戻していく気がした。

「全部、思い出した……」

 二人は手を取り合って、満足げに闇へ頭を下げた。


 闇と名乗った彼——闇夜あんやはその感謝を受け取って踵を返した。太陽と月の仰せの通りに星だった少年を見つけ出し、星の願い通りにその光だった少女を探し出した。

「自力で記憶を取り戻したか……まだまだ未知だな、宇宙せかいは」

 彼が二人に告げなかったもう一つの役目は、迷子を送る猫になる事だ。様々な闇に潜み、迷子を見つける。夜は彼が、昼は彼の双子の兄である日向ひなたが務める。日向は稲のような黄金の髪と琥珀より優しい色の瞳を持つ。闇夜と日向は一日を気が向いた日に見回る。二人は合わせて〈そらの猫〉と呼ばれる。彼らは耳が特殊で、当番である時間は生き物の心の声が聴こえる。例え、本人が自覚しておらずとも。



 森の中をしばらく行くと眠っている猫のもとについた。

「日向」

 にゃーと寝惚けた声をあげて人間の姿になった日向は、闇夜の姿を認めて笑みを浮かべた。猫のような瞳がすっと細くなる。

「終わり? 帰る?」

「ああ」

 素っ気なく頷いた闇夜はもう一度後ろを振り返った。寂しいと訴えてくる心の声はもう、聴こえなかった。代わりに——

 特殊な耳を澄ませた彼は微笑んだ。魅力的な笑顔を仄かに見せて小さく神社に向かって頷いた。

「聴こえる?」

「ああ。夜は声が少ないから、日向がいうより遠くの声も聴こえる」

「だろうなー。昼なんか大変だよ、人間の声が煩くって。もう、夕方に出会っちゃうなんて運のない。夕方だともう頭が寝てるから、闇夜に任せるしかないんだもん」

 兄がぷーっと頬を膨らませる。その頬を突いて空気を外に出させると、日向は声を上げて笑った。

「天才のお前なら大丈夫なんだろ?」

「もっちろん! お兄ちゃん、いっつも言ってるでしょー?」

「どうだか」

 迷える魂が帰れるように。希うこいねがう魂達の支えになるように、一日を廻って世界を守護する。それでも、永い時間をかけても分からない事はあった。

「Nothing lasts forever. Even the stars die……」

 何故、全てが終焉へ直走るのか。何故、自分達は生まれたのか。自分達はなぜこの役目を背負うのか。何故、迷える魂が生まれるのか。そして——。

「……死に迷う生は何故生まれ、何処から来るのだろう?」

 小さく呟いた弟に兄は小さく微笑んだ。

「この世はいびつだよ。だから、その歪みひずみが魂という、楽さとの矛盾の塊を生み出したんじゃないかな?」

 闇夜は虚空へ声を出す。——可哀想に、と。

 にっと日向は笑った。

「それにしても、相変わらず、発音上手いねー」

「才能がないんじゃないか?」

 米国に行けば英語が自然にできるようになり、中国に行けば中国語が自然にできるようになる。だが、例えば中国では日本語も英語も勉強しなければ上手くならない。降りた国専用の言語が母語にされてしまうのだ。

「失礼な! ナッフィング……ラスト、フォーエーバー。ね?」

「……下手くそ」


 夜のしじま、或いは昼の街角に目を凝らせば、奇妙な猫が見えるかもしれない。流星のようなその者を見失わないように気をつけて。その猫に助けを求めてみれば、救いがあるだろう。

 何故なら、それは迷路を歩く者を、灯りを持って先へ先へ導く者だから。

 光る双眸が器用に笑う。

 ——にゃーお。

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夢を導く星光 深水彗蓮 @fukaminoneco

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