夢を導く星光
深水彗蓮
第1話
「生はどこから受けるの?」
少女は赤ん坊を覗き込んだ。赤ん坊から淡い光が現れて、束の間眩く光り、それが収束した時、そこに少女の姿はなかった。その少女を赤ん坊の夢が飲み込んだのだ。
「なんて無垢な夢」
赤ん坊の心の中に入り込んだ少女は背の淡く光る真っ白な翼を大きく広げた。心の中にはその人の好きなものが詰まっている。
この赤ん坊の場合、玩具と両親と小学生の姉だった。それで一杯の心だった。ようやく立ち上がれるようになった赤ん坊は家族の夢を見ている。家族と一緒に遊んでいる夢だ。
少女はいつも夜半の人々の間を飛び回り、辛い夢や美しい夢に出逢う。これが少女の大切な仕事で生き甲斐だった。彼女はその重大さを分かっていたし、この仕事が好きだった。ただ、少女は自分がどこで生まれ、いつこの責務を担ったのか知らなかった。少女には両親の記憶も人として過ごした記憶もない。いつの間にか人々の夢を見て、夢を護ってきた。
少女は、自分をおそらく天使だと了解していた。考えてみれば見た目も天使のようだった。純白の翼で、人の目には映らない。白いワンピースで綺麗な金髪を持っていた。輪っかを頭に戴いてはいないけれど、代わりに星々のように美しいと評された金髪なのだろうと思っていた。
赤ん坊は両親と共に空を走っていた。赤ん坊は空の走り方を知らなかったが、いつものように両親と姉に教えられて空中に飛び出して走った。助走から宙に飛び出せば普段の姉のように走る事が出来た。
夜空の中を走って、いつもの公園へ辿り着く。赤ん坊はゆっくり降下して、滑り台を何回も滑って、何度も歓声を上げていた。飽きて今度は保育園へと空を走った。少女は翼で飛翔しながら一家を追いかけた。園内の砂場を掘って大きな城を建てた。赤ん坊はその中に入る。……熱中していて、暫く動きそうにもなかった。
少女は夢を抜け出した。
ぺたりとした冷たい床の上に意識を戻した少女は両親と赤ん坊の寝る寝室から出た。ドアは閉まっていたけれど開ける事なく通り抜けられることを、少女は知っていた。
冷たい夜の空気を切り、少女は赤ん坊の姉の部屋に滑り込んだ。
ぬいぐるみがたくさん置いてあって、その中に埋もれるようにして眠っている姉。少女は姉の夢を見始めた。
姉は自転車を漕ぐ。遅れちゃう、と思いながら坂を登る。足で、重くなったべダルを精一杯押し出す。
「チカちゃーん!」
公園にいた友達の一人が声を上げる。
「トモエ! みんな待った?」
「全然! 弟は良いの?」
「いいの、あんなやつ。それより遊ぼ」
友達と縄跳びをして、駅前の店で買い物をする。それからぬいぐるみで遊び始めた。楽しそうだったが、弟も両親も登場しなかった。
なんだか胸がすかすかして、少女はその家を出た。
夜気の中、緩やかに飛翔して悪夢の音のする部屋に少女は滑り込んだ。夢には音がある。楽しい夢は、音が高くなり楽しそうになる。カイトと書かれた布製のネーププレートを抱きしめて彼は眠っていた。その頬には涙が伝った跡がある。
夢の中、夢中で海斗は針を動かし続ける。家庭科の課題が終わっていないのだ。貝殻のデザインのそれは友達の格好のネタだった。
「海斗、貝殻なんて女子かよー!」
「可哀想だよぉ。それに夢見るマーメイドちゃんよりマシだろ」
「えー、でもさぁ、貝殻だぜ?」
クリーム色の生地を重ねて作った二枚貝は、内側に電話番号が記され、表にカイトと縫われている。……二年前に死んだ母親は、貝殻が好きだった。
「貴方にはね、貝殻が獲れる『海』っていう漢字を入れたかったの、
純白の布団を膝に乗せて微笑んだ母を憶えている。その後、一ヶ月も保たず、母は病死した。
「母さんのために作るんだ」
呟いて自分を勇気づける。だけれども、やっぱり涙は止まらなかった。
いじってきた奴らに言い返したかった。母さんの為なんだって言ってやりたかった。嫌だと言えば良かった。
後悔ばかりが残っている。それが、囚人を繋ぎ止める錘のように海斗を苦しみに繋いでいた。
人は、誰もが孤独だ。誰にも理解しきられないから。少女は海の漣をイメージした。優しく心地の良い静かな音を
「海が、呼吸をしている……」
海斗はネームプレートを投げ出して、ネームプレートそっくりの貝殻を拾い上げた。
「母さん……」
海斗は涙を怺える。その目の前で、鯨が潮を噴いた。鯨の鳴き声が響く。仲間を呼ぶ、鯨の歌だ。鯨の噴いた潮は砂浜に近づくに連れて、様々な色の貝殻に化けた。それが浜に降り注いで、砂にさくさくと刺さる。小さく震え出した背中を見て、少女は夢を出た。
マーメイドという言葉は初めて聞いた。知らない言葉は昼に図書館で調べる。本に触れると本のコピーを取れるのだ。そのコピー本を読んで
暁まであと、一時間。夢を見ていると時間の感覚が狂う。それが夢のせいなのか、少女がぼんやりして時間を気にせずにいるからなのか、彼女は知らなかった。
少女は病院の老人の多い病棟へ入った。ここは幸せな夢が多い。
「
この老人は少女を夢の中で時折視てくれた。夢の中にいると、ふと少女に気づくのだ。
今日はどうだろう。少女は微笑んで春男の夢に入り込んだ。小さなおじいさんは、おばあさんと縁側で笑い合っている。茶菓子を挟んでトンボを目で追っていた。
「ありゃあ、麦わらトンボかね」
「そうだろう、ああ、青い雄もいる。シオカラトンボと言うんだったか」
「そうだっけねぇ。ああ、卵を産み始めた」
のんびりとした暖かい夢だ。でも、夢の範囲が狭い。もう、夢の主が衰弱しているのだ。夢を見るには生気がいる。夢に使える気力がないのだ。間も無くお迎えが来るのだろう。それをおじいさんはたびたび言っていたし、少女も言葉の意味を正確には知らないが、そう思っていた。
少女はおばあさんの声で回想から醒めた。
「おや、天使様がいるね。おいでなさいな」
「はい、おばあさん」
少女が縁側に近づくとおじいさんは笑った。
「女の子が産まれたならこんな感じかね、千夜子」
「そうだろうね。ああ、可愛いね」
しわくちゃの優しいおじいさんの手が髪を撫でた。それはとても暖かい。間も無く死んでしまうとは思えない程に。代わる代わる撫でてもらっているとおじいさんがぽつりと言った。
「もうわしは、死ぬんだろな。もうすぐ千夜子のところへ逝けるのう……」
「そんな……縁起でも無い」
おばあさんの言葉にくつくつとおじさんは笑った。
「医者もそう思っているようだしな。わしとしてはようやく来たか、と思うぞ」
「春男さーん、菅野さん、体調に変化はありますか? 吐き気はなくなりましたか?」
看護師に揺すり起こされて春男は首を横に振った。
ああそうだ、呆気なく自分は死ぬのだろう。手術も薬の投与も拒み、生きているのが不思議な状態なのだから。
少女は夢が急激に途切れた事で、病室の隅に放り出されていた。
「う、痛……」
「……もうすぐご臨終だろう?」
「わ、私は医者じゃないので、お応えできませんっ」
看護師は小さな悲鳴を上げた。心電図の音だけが機械的に鳴っている。最低限の世話をして、看護師達は出て行った。少女は春男のベッドの傍に座って、静かにそれを見ていた。
病室にあるいくつかの本から辞典をコピーして調べた。顔を上げると春男は穏やかな顔だった。日が傾いてくる。心電図の音が遅くなっている。呼吸の音がさっきよりも大きくする。
「春男さん、ありがとうね」
突然、病室の扉が開いた。涙で顔がぐしょぐしょの男が現れた。
「父さんっ!」
春男に縋った泣く。
「ああ……
「父さん……そんなこ、ううん、いいや、——ありがとう」
背後から現れた看護師さんも緊張した表情だった。春男の返答はない。
(——ついに来たんだ)
少女は顔を背けたい衝動を抑えて春男を見た。
ゆっくりと時が流れている。鼻を啜る音と、遅い呼吸の音が満ちていた。何日とも思えるほど長い時間が過ぎて、ゆっくりテンポを落としていく心電図の音。
それが、切れ目を失った——。慌てて上げた目に映った心電図は、もう隆起をなくしている。いつもは六十だった数字が、零になっていた。
「父さん……」
少女は春男の額にキスをして空へ浮き上がった。真っ白い病院を振り返りながら空高く舞い上がる。
「……さようなら」
春男の生は終わった。
生は何処から来るのだろう。春男はそう何度も言っていた。そして、少女はその答えを探すと言う目標を立てた。結局、伝えることは出来なかった。そうやって少女の中に枯葉のように残り続ける約束は沢山ある。解決したものもあるし、しないものもある。
少女は何処から来たのか、何故ここにいるのか、人は何故死ぬのか、何故夢を見るのか、夢は少女が見ているのか、見させているのか。
少女が初めて間近で見た死は結核の少年に訪れたものだ。夢じゃなくても少年は少女を視てくれた。お茶目で優しくて、頭のいい少年だった。彼はよく幸せな夢を見ていた。その多くが草原を走り回る夢で、少女もたくさん一緒に遊んだ。彼は本が好きだった。愛してさえいた。
「君は、天使なのかな?」
弱い声で彼が言ったのを覚えている。
「夢の化身みたいだよ。すごく、凄く綺麗……」
そう言った彼は咳を繰り返した。
「夢の、中なのに、咳が、出るなんて、変な話」
その背を摩りながら少女は訊いた。
「天使ってなに?」
少年は困ったように少し考え込む。
「うーん、学校に行かなくてよくて、病気に罹らなくて、人じゃなくて、可愛くて、優しくて、羽がついてて、金の輪っかが頭についてて、白くてとっても綺麗な人。神様の手下だよ。良い事をしてくれるんだ」
「へえー。でも、暇そう」
優しく笑っていた少年は少女を置いて死んだ。悲しかった。寂しかった。でも、彼はたくさんの知識と希望を少女にくれた。星のように小さな美しい、愛しい夢を。
——ああ、
下校中の道を小学生達がわらわらと帰っていく。小学三年生の彼は、独りで帰っている事を吹き飛ばすように手提げをぐるぐると振り回す。早く帰ってしまいたい。配られたプリントの文字を消さなければ。
——しね。
あのプリントの裏にはそう書いてある。三ヶ月前から始まったいじめ。彼は強がりで、親にはバレたくなかった。恥ずかしかった。引越しでドタバタしている両親は、幸いまだ気づいた様子がなかった。
「今度からファイルを持って行かなくちゃ」
彼は呟いた。もうすぐ冬の冷たい空気だけが震えた。ファイルさえあればきっとくしゃくしゃになった紙も綺麗に伸びるはずだ。期待に胸を膨らませ、幼いながらに彼は辛い思いを仕舞い込んだ。
少女はその子供を見守ることにした。
星々とは何だろう。そこにもう存在しない星ですら、光だけは見えている事もある。距離があり過ぎるのだ。では、遺された光に意思があったとしたら、あの星、地球に着いて何を思うだろう。そして、その光の具現は、実際に夜の闇に息づいている。
太陽神は、月神である妻にそう尋ねた。だが、妻の答えも曖昧だった。
「何も分かっていないのではないかしら。存在する、という事は大変なことよ。ただ、世界を恨んではないわ。分からないなりに楽しく過ごしているように見える……」
太陽神は頷いた。
「そうかもしれない。猫を遣わして意向を確かめよう」
そうして闇の具現である漆黒の猫と、昼の具現である黄金の猫は月と太陽の手で地球に降り立った。
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