後編

 二年後、ニサップ王国ラ・エンセナーダ侯爵城にて。


「サンドラ」

「マヌエル様」

 夫となったマヌエルに名前を呼ばれ、サンドラは花が咲いたように表情を綻ばせた。


 あの日の夜会で、サンドラはすぐにマヌエルと駆け落ちをした。

 ニサップ王国に来てからは、マヌエルの紹介でラ・エンセナーダ侯爵家と親しく更に繋がりを強化することを望む伯爵家に養子入りしたサンドラ。その後、程なくしてサンドラはマヌエルの婚約者となり、一ヶ月も経たないうちに二人は結婚したのである。


「サンドラ、体は大丈夫?」

 マヌエルのアクアマリンの目は、優しげで心配そうだった。

「ええ、もう大丈夫ですわよ。息子を出産してもう半年も経過したのですよ」

 心配性の夫に対し、サンドラは少し困ったように苦笑した。


 結婚後、サンドラはすぐに妊娠した。そして半年前にマヌエルそっくりの息子を出産したのである。


「でも、妊娠や出産は女性の体に大きな負担がかかるからさ。出産後も心配なんだよ。サンドラは命をかけて僕の息子を生んでくれたわけだし」

 マヌエルから優しく抱きしめられるサンドラ。まるで宝物を扱うかのようである。

 サンドラはマヌエルの腕の中で穏やかに表情を綻ばせた。

 今のサンドラは、幸せに包まれているのだ。


(お母様、わたくしは今幸せです)

 ふとサンドラの脳裏に浮かんだのは、実母ドゥルセの優しい笑みと最期の言葉。

 サンドラはそっと胸に手を当て、母を懐かしんだ。


「マヌエル様、わたくしはニサップ王国に来てから、お母様のお墓参りに行けていませんでしたわ」

 するとマヌエルは少し考え込んだ後に答える。

「確かにそうだね。そろそろ問題ない頃だろう」

わたくし体調は問題ありませんわ。ただ、なるべくケイロス伯爵家や元婚約者に会わないようにしたいのですが」

「サンドラ、それに関しては問題ないよ。君を虐げたケイロス伯爵家の奴らや元婚約者に会うことは絶対にないから」

 マヌエルの口角は弧を描き、意味深な笑みを浮かべていた。

 サンドラは不思議に思ったが、ドゥルセの墓参りに行くことが決まり、グロートロップ王国へ向かう準備で少し忙しくなった。






♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔






 サンドラはマヌエルと共に、グロートロップ王国へ入った。

 生まれたばかりの息子はラ・エンセナーダ侯爵城で乳母や使用人に面倒を見てもらっている。


「この街並み、懐かしいですわ」

 生家があった領地に入り、サンドラは馬車の窓から見える景色に思いを馳せていた。

 サンドラの母ドゥルセが眠る墓地はこの近くにあるのだ。

「でも、この土地はケイロス伯爵領。お父様や新たに来たお義母かあ様、義妹いもうとのマルタもいるのかしら。元婚約者のゴンサロ様も……」

 嫌な顔ぶれを思い出し、サンドラの表情は曇る。

「サンドラ、それは確実にない。君が不安に思うことはもう何もないんだよ」

 マヌエルはそっとサンドラを抱きしめた。

「そういえば、マヌエル様はラ・エンセナーダ侯爵城にいた時もそう仰っていましたわね。一体どういうことですか? 何か知っていることがあるのでしょうか?」

 サンドラはマヌエルの腕の中で首を傾げていた。


 マヌエルの言葉の意味を知ったのは、貴族向けの高級宿屋に到着した時のこと。

 サンドラはグロートロップ王国の貴族と思われる者達の会話を聞いたのだ。


「この土地がケイロス伯爵領でなくなって以降かなり繁栄していますね」

「ああ。ケイロス伯爵家は最悪だったからな。ブニファシオ殿は領地経営の才能が全くなかったようだ」


 サンドラは貴族の男二人の会話に、ペリドットの目を大きく見開いた。

(ここがケイロス伯爵領ではない……!? どういうことかしら?)

 気になったので、サンドラはそのまま聞き耳を立てることにした。


「それはもう有名な話ですよね。それと、後妻だとかいうヴェラと娘のマルタ。あの二人も最悪でしたね。特にマルタなんか、十五歳の成人デビュタントの儀で王女殿下に不敬を働いて王家を怒らせましたからね」


(マルタ……確かにマナーがなっていなかったわ。お父様達、まともな家庭教師を付けなかったのね)

 サンドラは内心やっぱりかと思っていた。


「その不敬でケイロス伯爵家は王家に賠償金を支払う羽目になった。後妻は贅沢三昧、ブニファシオは領地経営能力がない。もちろん支払えるわけなくて爵位を返上する羽目になったと」

「そういえば、マルタの婚約者だとか言っていたアタイデ伯爵家次男ゴンサロ。あいつも同罪でケイロス伯爵家の三人と一緒に社交界から締め出されて平民にならざるを得なくなったそうだ」


(まあ、ゴンサロ様も……)

 サンドラはペリドットの目を丸くしていた。


「でも、ケイロス伯爵家のご長女だったサンドラ嬢の行方はどうなったのでしょう? 一時期ブニファシオ達が、サンドラ嬢がいなくなったと騒いでいましたが」

「それは俺も気になるが、サンドラ嬢の行方はいまだに分かっていないそうだ。まあ、ケイロス伯爵家のブニファシオ、ヴェラ、マルタは最悪だったから逃げたのかもしれないな。サンドラ嬢だけは無事であることを祈るが」

「そうですよね」


 サンドラは自分の名前が出たことにドキリとした。

 その時、背後から小声で「サンドラ」と呼ばれ、抱きしめられた。

「マヌエル様……」

 少し驚いたが、マヌエルの腕の中でふふっと微笑むサンドラ。

「もしかしてマヌエル様はケイロス伯爵家やゴンサロ様の顛末をご存じでしたの?」

 そう聞くと、マヌエルは悪戯っぽく笑い、「ああ」と頷いた。

「そうでしたの」

 サンドラは再びふふっと笑った。

 現在マヌエルから愛されて幸せのサンドラは、父、義母はは義妹いもうと、元婚約者がどうなろうと、もうどうでも良くなっていた。なるべく会いたくはないとは思っていたが。

「サンドラ、君のお母上のお墓参りに行こうか」

「ええ」

 マヌエルの言葉に頷き、サンドラは墓地へ向かった。


 十字架の下に眠るドゥルセに、サンドラは花を供える。サンドラの肩に、そっと優しく触れるマヌエル。

(お母様、来るのが遅くなって申し訳ございません。わたくしは今、幸せです)

 サンドラは穏やかに微笑むのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

現在の環境だと不幸になる未来しか見えないので駆け落ちしました 宝月 蓮 @ren-lotus

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ