現在の環境だと不幸になる未来しか見えないので駆け落ちしました
宝月 蓮
前編
「サンドラ……」
「お母様……!」
ベッドに横たわる女性が手を伸ばすと、サンドラと呼ばれた少女がその手を握る。
サンドラの目には涙が溜まっていた。
周囲には、医師や使用人が待機している。
随分と痩せ細ってしまった手だと、サンドラは母の手を握りながら思った。
サンドラの母ドゥルセは病に侵されており、ここ数日で症状が悪化していた。先は長くないだろう。
「お母様、どうかお願いです。
サンドラの目からは涙が零れ落ちる。
ペリドットのような緑の目から零れ落ちる涙は、まるで水晶のようだった。
「泣かないで、サンドラ」
サンドラと同じペリドットの目を、優しく細めるドゥルセ。その目には涙が溜まっていた。
サンドラと同じブロンドの髪は、艶やかさを失いつつある。
「サンドラ、どうか幸せになって」
それがドゥルセの、母から娘に贈る最期の言葉だった。
♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔
「おい、サンドラ! どこにいる!?」
「はい、お父様、ここに」
父ブニファシオの怒声が聞こえ、サンドラは慌てて返事をする。
掃除をする手を止め、急いでブニファシオの元へ向かったサンドラ。
きめ細やかで美しかった手は、たった一ヶ月で荒れが目立ち始めていた。
「遅い!」
「申し訳ございません。何かご用でしょうか?」
「領地で問題が生じたと連絡があった。お前が対処しろ」
どうして当主であるブニファシオではなく、娘である自分がやらなければならないのかと思うサンドラ。しかし以前それを口にしたら問答無用で打たれた。だからサンドラは黙って従うことしか出来ない。
「……かしこまりました」
するとサンドラの返事に満足したようで、ブニファシオは上機嫌になる。
「あら、ブニファシオ様」
甘ったるく下品な声が聞こえた。
「おお、ヴェラ、どうしたのだ?」
顔を見なくても、ブニファシオがニマニマとしていることが想像出来てしまう。サンドラは俯き唇を噛み締めた。
「使用人にお菓子を用意させましたの。
「それは妙案だな。流石はヴェラだ。この俺が愛する
ブニファシオとヴェラのやり取りに、サンドラは俯きながら表情を
「あら、サンドラ、いたのね」
「……はい、お
ヴェラに声をかけられ、サンドラはそう返事をした。
「あんたはさっさと掃除を終わらせておきなさい」
「……かしこまりました」
サンドラはそう答えるだけだった。
その答えに満足したのか、ヴェラはブニファシオを連れてその場を離れた。
下品な二人の声がやけに耳にこびりつく。
言いたいことは色々あるが、サンドラが口答えをすると打たれるなど暴力を振るわれることが分かりきっていた。だからサンドラは我慢するしか選択肢がなかった。
今年十六歳になるサンドラ・ドゥルセ・デ・ケイロスは、グロートロップ王国のケイロス伯爵家長女として生まれた。
実母ドゥルセが生きていた頃は幸せだった。しかしドゥルセが亡くなり一ヶ月も経たないうちに父ブニファシオが後妻として平民のヴェラをケイロス伯爵家の
ヴェラとマルタがケイロス伯爵家の
ブニファシオからは領地経営の仕事を押し付けられ、ヴェラからは使用人のように扱われ、
(あ……)
ふと窓の外に目を向けると、見知った顔があった。
サンドラの婚約者、アタイデ伯爵家次男ゴンサロだ。
彼はマルタと楽しそうに話をしている。
ドゥルセが亡くなりヴェラとマルタが来て以降、ゴンサロもサンドラに冷たくなっていた。
ケイロス伯爵家はサンドラの生家であるにも関わらず、誰も味方がいない状況となってしまった。
しかしサンドラはまだ自力でどうにか出来る力はなく、ケイロス伯爵家に留まることしか出来なかった。
♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔
数日後。
ケイロス伯爵家と交流のある公爵家で開催される夜会に、サンドラは参加していた。
ブニファシオやヴェラから、夜会などへの参加は認めてもらえているサンドラである。
しかし、マルタから流行りのデザインのドレスは奪われているので、サンドラはドゥルセの形見であるドレスを着て夜会に参加していた。
おまけに少し荒れた手を隠す為、手袋を着用している。
ちなみに、マルタはまだ十四歳で
(このドレス、まるでお母様に守られているみたいだわ)
胸に手を当て、サンドラはドゥルセを懐かしむように微笑んだ。
マルタにこのドレスを奪われなくて良かったと思うサンドラである。
一通りの交流が終わると、サンドラはバルコニーで夜風に当たる。
心地良い風により、サンドラのブロンドの髪がなびいた。
(帰りたくないわ)
ため息をつくサンドラ。
夜空を見上げると、星々がダイヤモンドのように輝いていた。サンドラの心とは真逆の夜空である。
今のケイロス伯爵家は、サンドラにとって居心地が悪くなりつつあるのだ。
すると、サンドラの背後から足音が聞こえた。
ハッとして振り返るサンドラ。
端正な顔立ちの青年が、そこに立っていた。アッシュブロンドの髪に、アクアマリンのような青い目の持ち主だ。
サンドラはホッと肩を撫で下ろし、ゆっくりとカーテシーで礼を
「サンドラ嬢、楽にしてくれて構わない」
頭上から品のある声が降って来たので、サンドラはゆっくりと姿勢を戻す。
「ご機嫌よう、マヌエル様」
胸の鼓動が速くなる。
ペリドットの目は嬉しそうに輝いていた。
マヌエル・アミディオ・デ・ラ・エンセナーダ。
彼はサンドラより二歳年上で、グロートロップ王国の北に隣接するニサップ王国のラ・エンセナーダ侯爵家長男だ。
見聞を広げる為に、昨年からグロートロップ王国に滞在中らしい。
サンドラは昨年から彼と交流があった。
見目麗しく物腰柔らかなマヌエルに、サンドラは密かに好意を抱いていたのだ。
しかし、サンドラには一応ゴンサロという婚約者がいるのでマヌエルへの好意を表に出すようなことはしていない。
「サンドラ嬢、君のお母上の件、お悔やみ申し上げるよ」
「恐れ入りますわ、マヌエル様」
マヌエルの言葉に、サンドラは眉を八の字にして返す。
隣国出身とは思えない程、マヌエルはグロートロップ王国の言葉が流暢だった。
「サンドラ嬢、君のお父上……ケイロス伯爵閣下が後妻を迎えたと聞いた」
「ええ……。お母様が亡くなって
サンドラはため息をついた。
「そうか……」
その時、マヌエルはサンドラが手袋を着用していることに気付く。
「あれ? 君、以前は手袋を着用していたっけ?」
マヌエルは意外そうにアクアマリンの目を丸くしていた。
「ああ、これは……」
サンドラはどう言い訳するかを考えたが、最もらしい言い訳が思い付かず、手袋を外すことにした。
「その手、どうしたんだい?」
少し荒れ始めているサンドラの手をそっと掴み、まじまじと見つめるマヌエル。
それに対し、サンドラは少し気恥ずかしくなった。
「えっと、実は……」
サンドラはドゥルセが亡くなって以降、ケイロス伯爵家でどのような扱いを受けているかを説明した。
「それは……あまり良くない状況だね」
「ええ。ですが、まだ大したことではありませんし……」
サンドラはため息をついて苦笑した。
「ではサンドラ嬢、このままケイロス伯爵家にいて君は幸せになれそうかい?」
マヌエルのアクアマリンの目が、真っ直ぐサンドラに向けられる。
「それは……」
サンドラは答えに困ってしまう。
このままケイロス伯爵家にいても良いことはないと、サンドラも分かっていた。
「サンドラ嬢、僕は君に不幸になって欲しくないんだ。君には、幸せになって欲しい」
真っ直ぐなマヌエルの言葉が、サンドラの胸に染み渡る。
『サンドラ、どうか幸せになって』
同時に、母ドゥルセの最期の言葉を思い出した。
(お母様……マヌエル様……)
サンドラの目からは、一筋の涙が零れる。
「マヌエル様、
それがサンドラの本音だった。
するとマヌエルの口角は弧を描くように上がる。
「サンドラ嬢、今君の目の前にはとても都合の良い状況があるよ。まず、今サンドラ嬢の目の前にいる男は、君に惚れていて妻として迎えたいと思っているくらいだ」
アクアマリンの目は、真っ直ぐ情熱的にサンドラへ向けられている。
「マヌエル様が……
ペリドットの目を大きく見開いて驚くサンドラだが、じわじわと嬉しさが込み上げて来る。
「それから、ニサップ王国には我がラ・エンセナーダ侯爵家と結び付きを強くしたいと思っている伯爵家があるんだ。そこの当主は僕の父上と仲が良くてね。ラ・エンセナーダ侯爵家も、その伯爵家との結び付きを強めたい。でもその家には娘がいない。もしその家に僕と歳が近い娘がいたら婚約者になっているだろうね。もちろん、養子入りした娘だとしても」
その話を聞かされたサンドラの答えはもう決まっていた。
「マヌエル様、今すぐ
「サンドラ嬢、その言葉を待っていたよ。ニサップ王国へ向かう馬車を今すぐ用意しよう」
そこからサンドラとマヌエルの動きは早かった。
二人はこっそりと夜会を抜け出し、馬車に乗り込んでニサップ王国に向かったのである。
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