第5話 旅立ちの決断

 夜が白んだころ、砦の医務小屋で親方ブレンの容体が急変した。

 胸を圧迫した石の破片は抜き取ったものの、折れた肋骨の一部が気管を刺激し、呼吸が浅く苦しげになる。衛生兵は止血剤を増やし、湿った布で口元を覆った。

 「骨片を摘出しなければ悪化するが、砦には外科の器具が足りない」

 エリザは眉をひそめる。「最寄りの本隊医療所まで三日。担架で運ぶ自信は?」

 衛生兵は首を横に振った。


 カイルは親方の手を握った。わずかに温かい。昨夜から右腕の紋は脈動を弱めているが、指先に集まる奇妙な感覚――触れれば物質が軟らかくほどける感触――は消えていない。

 もし骨片を溶かして引き抜くことができれば。

 思いついたとたん、膜のような映像が瞼の裏を過ぎった。親方の胸に触れ、骨片が灰銀に変質し、呼吸が楽になる場面。だが次に同じ腕が血に濡れ、カイル自身が膝を折る場面が続いた。


 迷いは焼けるように喉を塞いだ。二度の映像はいつも「どちらも選べる」と言外に告げるが、代償は示さない。

 エリザが静かに言う。「力を試すのは最終手段にしろ。成功しても副作用で動けなければ本末転倒だ」

 「分かってます。ただ医者のもとへ運ぶなら――親方が今夜を越えない可能性もある」

 「なら、砦で安置を待つのか。それとも賭けに出るか、決めろ」


 外では斥候兵が荷車の車軸を直し、棺用の丈夫な布を荷造りする音がした。砦は移動を前提にした臨時の撤収準備を始めている。

 カイルが唇を噛んだとき、戸口でひそやかな声がした。

 「治療の選択肢、まだあるかもしれません」


 背の低い青年が頭巾を外す。焦げ茶のコートは旅塵に汚れ、肩掛けカバンには大量の硝子小瓶が揺れる。

 「グリフィード商会・行商見習いのライナスです。昨夜、砦の裏口で保管庫の鍵を直してくれた鍛冶屋殿を見ました。もし彼が同じ原理で医療器具を即席で作れれば――」

 エリザは警戒を隠さない。「治療器具を鍛造する時間など」

 「いいえ。硝子と銀ワイヤを削って骨片を留めるだけでいい。型紙はこちらに」ライナスは巻紙を差し出した。

 「どこで手に入れた図面だ?」

 「アルケインの修道医が配る慈善写し。いわゆる“軍橋式簡易胸腔ステイプラ”ですよ」


カイルは図面を一瞥し、右腕の内側で紋がうっすら光るのを感じた。――親方を助ける手段は、ここに転がり込んできた。

 「やってみる。でも器具が完成しても、胸を開くのは衛生兵に任せます」

 「責任は私が負う」エリザが頷く。「材料を持てる者、手伝え」


        * * *


 臨時鍛造台は竈と火吹き袋だけの粗末な構えだったが、カイルの指先で銀線は粘土のように曲がり、硝子は低温で液の筋になった。

 工程を見る衛生兵が息を呑む。「どうやって溶かしている?」

 「分かりません。考えると止まりそうで」カイルはわずかに笑う。汗が額を流れ、右腕が痺れた。


 やがて細い留め輪が三つ完成し、エリザが医務小屋へ運ぶ。

 カイルはその場に膝をついた。紋が熱を発し、視界がにじむ。だがさっきまでの眩暈ほど酷くない。深呼吸して耐えると、膜は現れなかった。


 小屋の中では簡易手術が始まる。親方の胸に小さな切開が入り、折れた骨片が露わになる。カイルは建付の悪い扉越しに進行を見守るしかなかった。

 それでも、視界の端がわずかに揺れ、薄い情景を見た。――親方の胸包帯が清潔な白へ替わり、苦しげな呼吸が安らぐ場面。

 映像の匂いや熱は感じないのに、胸を締めつける安堵が湧く。不思議と「悪い未来」は同時に見えなかった。


 手術は一時間で終わり、衛生兵が額の汗を拭った。

 「成功だ。血圧も安定している」

 カイルは扉にもたれ、重く溜息を吐いた。右腕の紋の輝きが少し薄れた気がした。


        * * *


 午後になり、霧は晴れたものの砦上空を偵察する黒い気嚢船が現れた。均衡監査局のものではない。南西の赤焔帝国が前線監視用に使う微小哨戒船だ。

 ライナスは小声で言った。「帝国と監査局が同時に動くのは珍しい。彼らの目的が“例外個体”だけなら、森で籠もるのは危険だ」

 エリザは頷く。「本隊からも移動命令が出た。せめて街道沿いの野戦病院まで退く」


 カイルは病室を振り返り、親方の顔色を確認した。呼吸は深く、汗も引いている。

 左手で布団を整えながら、右手の紋が再び淡く光るのを感じた。熱はない。代わりに深い疲労が肺の奥へ沈み、意識が緩む。

 「行くしかないですね」

 「君の腕でまた荷車を修理してほしい。動けるか?」

 「行けます」その言葉の背後で、遠い雷にも似た疑念が響いた。

 ――助けるたびに力は広がり、代償は遅れてやって来るのではないか。


夕刻、砦の荷車と少数の騎馬で一行は森の街道へ向け出発した。

 カイルは荷車の後部、親方の側で揺られながら、霧とは違う白い幕を遠くに見た気がした。空の高いところ、浮遊島の周囲に走る細い稲光。

 映像ではなく現実のはずだが、誰も気づかない。胸の奥で紋が脈を打つ。先の情景はまだ形を結ばない。


 それでも荷車が軋むリズムに合わせ、親方が弱く呼吸を刻む音は、確かに耳に届いた。

 深緑の森が道を包み、旅の始まりを告げる小さな鈴が、出発の合図として一度だけ鳴った。

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