第6話

街道を護る松の並木が、朝の斜光で濃い影を落としていた。砦を発って半日、荷車を中心に組まれた一行はゆっくりと南南西へ進む。前列に斥候兵と騎馬の歩調を合わせた先導隊、中列に医務用荷車二台、最後尾をエリザと十名足らずの護衛が固める。


 荷車の天幕下ではブレンが浅い呼吸を続けていた。胸を留めた銀の小さな輪は血で曇っているが、患部は腫れていない。カイルは布越しに脈を取ると、ほっと息を吐いた。昨日まで熱を帯びていた灰銀の紋は、皮膚色に近い鈍い光に落ち着いている。それでも掌をわずかに閉じるだけで、鉄粉がざらりと動く感覚が蘇り、思わず手を握り直した。


 砦を出る時、カイルは自分の力を「まだ名を持たない」と言い、エリザもそれを良しとした。名付けられれば概念になり、概念になれば利用しようと群がる者が現れる。無名のうちに輪郭を掴み副作用を測る──それが二人の暗黙の合意になっていた。


 午前のうちは道も穏やかだった。森林帯の街道沿いには炭焼き小屋や樹液の採集場が点在し、従業員が通行人へ薄い甘酒を売っていた。斥候兵は銀貨一枚で樽いっぱいの水を補給し、干し肉と黒パンを追加する。カイルは荷車の後部で兵の弁当を手伝いながら、火打石を使わず小さな火皿に薪を灯した。右手で枝を握ると芯が柔らかく撓み、火がつきやすい形にひとりでに裂ける。


 斥候兵のひとりヴァンスが目を丸くする。「お前さん、ただの鍛冶屋じゃなかったんだな」

 カイルは笑いでごまかす。「癖みたいなもので。工房で長くやってると木も石も勝手に扱いやすく見えてくるんです」


 昼過ぎ、道が谷間へ下り始める頃、先頭のエリザが手綱を引いた。前方に薄灰の靄が漂い、風向きが変わるたびに白い筋が木々の間を横切る。

 「火薬の臭い……霧じゃない」エリザは指を鳴らし、偵察二名を左右の獣道へ走らせた。


 カイルの視界で膜が揺れた。谷底近く、巨木が横倒しになり、街道を塞いでいる。荷車が止まり、最後尾を追う敵影が現れる一瞬の映像。そのあと矢が燃える布を引いて飛び、帆布に炎が移る光景。

 膜が消え、現実の風景に戻る。まだ道は開けているが、空気の湿度が妙に重い。


 「倒木があるかもしれません。しかも後尾を狙う敵影が」

 エリザは短く息を呑み、手旗で列を止めた。先頭護衛が数十メートル前へ進むと、土埃の奥で鋭い金属音がした。地面に打ち込まれた鉄杭を抜き、繋いだ鎖を引く音――鎖に結んだ倒木が引き倒される罠だ。


 「後列、車輪止め!」叫ぶ間もなく、谷道が低くうなった。背後の斜面で二本の大木がパチンと鳴り裂け、荷車へ向け転がり落ち始める。

 カイルは膜に見えた通り布を掴み、親方の天幕を覆っていた帆布を一気に剥いだ。兵士らが悲鳴をあげるなか、樹皮が車軸へ激突し荷車が大きく揺れる。


 黒い影が木立の上を駆ける。昼間に見た帝国の気嚢船ではない。革を縫い合わせた簡易滑空翼。翼端に火薬筒を吊り下げ、点火すると糸で引き千切って落とす原始的な爆弾だ。

 視界が二重になり、燃える布を抱いた筒が荷車の横で爆ぜる情景が走る。カイルは荷車の外側へ跳び、右手で地面を叩いた。粘土のように軟化した土砂が牙のように盛り上がり、爆弾の落下点を外へ逸らす。火の玉は石砂の壁に当たり、激しい音と火花だけを道に撒いた。


 反動で肩へ鈍い痛みが突き刺さる。だが膝が折れる前に、敵の影が二つ道へ飛び降りた。灰茶の外套に顔を布で覆い、腰には短銃。帝国兵ではない。ただの盗賊でもない。監査局でも赤焔帝国でも雇わない“霧使い”と呼ばれる山賊一派。


 エリザが細剣で突進し、一人の足を薙いだ。もう一人は銃を撃ったが、カイルの膜が矢のように警告を走らせ、横へ跳んだ彼の肩をかすめただけで済んだ。右腕で土砂を固めて盾にしようとしたが、痛みで力が抜ける。紋が朱を灯し、熱が逆流するように脇腹を刺した。


 そこへ荷車を守る斥候兵が突き込み、霧使いを押し返した。兵は盾で銃口を弾き、短剣で外套の下を刺す。霧使いは呻き、仲間を置いて木陰へ逃げた。


 戦闘は短時間で終わったが、道は倒木と爆薬の煙で塞がれ、野戦病院へのルートは失われた。

 逃げた霧使いがさらなる待ち伏せを仕掛けている恐れがある。エリザは地図を広げ、左へ迂回する細い鹿道を示した。

 「湿地帯を抜け岩棚へ出る。傾斜はきついが短い距離で街道本線に戻れる。荷車は通れないが、担架だけなら行ける」


 カイルは荷車の親方を見た。「担架で道なき湿地を進む? 振動が傷に響くかもしれない」

 衛生兵は頷きつつ、包帯を替えながら言った。「逆戻りすれば追手が道を占拠する。進むほうがまだ安全だ」


 夕陽が斜面を赤く染め始めた。湿地への獣道は幅が狭く、転倒した倒木の幹を潜り抜けるように蛇行している。カイルは担架の前脚を握り、斥候兵のヴァンスが後脚を担いだ。エリザは双眼鏡で周囲を監視しながら先頭へ立つ。ライナスは荷物の中から棒切れほどの杖を組み立て、柔らかな苔を踏んで進んだ。


 湿地は足首まで泥が沈み、靴の裏から冷たい水が染み込む。カイルは担架の揺れを最小にしようと膝を曲げ、右手は布越しに親方の胸を押さえた。振動が大きい場所では、膜がかすかな乱れで危険を知らせる。倒木の裏で蛇が跳ねる映像、急な地割れに片脚がはまる映像。カイルは前のヴァンスに指で合図し、危うい場所を一つずつ迂回した。


 日が沈み切るころ、湿地を抜けて岩棚へ出た。そこからは渓谷を跨ぐ古い吊り橋が街道本線の断崖の上へつながっている。橋板の半分は苔に覆われ、鉄鎖は赤く錆びていたが、斥候兵が試しに渡り「重さに耐えそうだ」と呼び返した。

 カイルは息を整え、親方の顔を覗く。目は閉じているが眉間に皺はなく、呼吸は深い。胸を留めた銀輪が夕闇の残光でわずかに光った。


 吊り橋は谷風にきしみ、板の隙間から遥かな渓流が白く泡立つのが見えた。エリザは先頭で鎖を握り、後衛のライナスが荷袋の薬瓶を抱えたまま慎重に歩く。

 橋の中央へ差しかかったとき、カイルの頭の裏で短いノイズが弾けた。膜が現れ、谷底で火が弧を描き、橋脚へ火矢が突き刺さる情景。瞬きより早く視界が現実に戻り、辺りは静かだ。


 「止まれ!」カイルは叫んだ。直後、谷の反対側で火花が散り、火矢が橋の鎖に絡んだ。湿気た布が赤く燃え上がる。もう一本、三本、立て続けに放たれ、橋の端が灯った。

 エリザが剣で火矢を弾こうとしたが届かず、燃えた布が油を垂らし鎖の錆へ火を移す。橋は片側へ傾き、担架が揺れた。

 カイルは親方の体を覆うように伏せ、右手で橋板を掴む。冷たい板が粘りを帯び、手の形に沈む。崩れかけた板がくぐもった音で再結合し、燃え落ちた鎖の下を補うように木の肋骨が盛り上がった。


 視界が白く弾け、脳の奥で轟音が響く。紋が灼ける鉄のように燃え、吐き気が押し寄せた。だが橋板は保たれ、エリザが素早く残る鎖を切り、橋を蛇腹のように畳むと急ぎ渡り切った。

 反対側の崖では火矢を放った小柄な影が呆然と立ち、やがて森の闇へ逃げ去った。


 橋の残骸が背後で燃えながら落下し、谷に火の粉が散った。連日の力の使用にカイルの視界は霞み、耳鳴りが木霊する。膝から力が抜け、担架の横で崩れかけた。

 ヴァンスが脇を抱えた。「休んでくれ。替わる」

 カイルは首を振ろうとしたが、唇が震え、声が出ない。世界が斜めに歪み、眼窩の奥で光が瞬いた。


 エリザが駆け戻り、水袋で額を濡らす。「熱が上がってる。昨夜より高い。もう使うな」

 「……大丈夫、揺れは……止まった……」言葉が切れ切れに漏れる。視界の膜は現れず、ただ闇が収縮と膨張を繰り返す。足元で何かが遠ざかり、また近づく。


 そのとき、親方が咳をした。胸を押さえた手が弱く動く。

 「カイルか……何とかなりそうだな」

 かすれた声でも確かに聞こえた。カイルは目を見開いた。親方の頬にかすかな血色が戻り、銀輪は鮮やかに朝露のような輝きを放っている。


 意識が薄れながらも、心の底に澄んだ安堵が灯った。崖上の街道はもう近い。あの向こうにある野戦病院へ着けば、本当の外科医が親方を診てくれる。

 光が遠のき、風の音だけが耳に残った。カイルは虚空を掴む指で最後に紋へ触れた。熱は皮膚の表ではなく、もっと深い場所に潜り込み、遅れて脈を打ち始めている。


 闇へ沈む直前、瞼の裏に一瞬だけ薄い膜が戻った。そこには何も映らず、ただ黒い筆跡のような線が一文字、揺れて消えた。意味は分からない。だが不思議と恐怖はなく、ただ重い眠気が引力のように肩を引いた。


 彼の力が親方を救った同じ晩、彼自身の身体で何かが静かに崩れ始めている――その事実を告げる声は、まだ誰にも届かない。

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名もなき物語 でいだらぼっと @jacomo17

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