第4話 包囲の霧
夜明け前、砦の外で靄が湧いた。
森の湿気が急に重くなり、空気が白く濁って視界を削る。鳥は鳴かず、風の流れも止まったかのようだ。見張り台の弓兵が弦を握り直して肩を強張らせる。
カイル・グランディオスは医務小屋の前で深呼吸した。右腕の灰銀の紋は冷たく、昨夜感じた微熱は引いている。けれど胸の奥が不安で重い。
斥候長エリザが砦門へ急ぎながら短く命じる。
「全列交代配置。松明は消すな。霧の中では火が目印だ」
砦の木壁に沿って置かれた松明が、白い霧を橙に染める。湿気で炎が呻くたび、影が生き物のようにうごめいた。
カイルは門楼へ上がる梯子の途中で、視界の膜が揺れるのを感じた。
――砦の外側、靄に隠れた木立から黒鎧の兵がゆっくり進む。肩に天秤の紋。投射機を構え、砦へ沈黙の射撃を浴びせる情景。
膜は音を持たず、匂いも温度も届かない。それでも背筋が粟立つリアリティで、数秒後の暗示を置いていった。
カイルは梯子を飛び降り、門前の盾兵に駆け寄る。
「隙間を埋めて! 間もなく飛んで来る!」
兵は驚いて楯を密着させ、弓兵が矢を番えた直後、霧の向こうで鈍い破裂音が起こった。
小さな鉄丸が空を裂き、木材に突き刺さる乾いた音を連ねる。楯板が二ヶ所割れたが、兵は無事だった。砦内に緊張が走り、弓の一斉射が返される。
見えない敵への射撃は効果が薄い。黒鎧は霧に紛れ移動し、矢が当たるたび装甲に弾かれる音が重なった。
エリザは階段を駆け下り、カイルの袖を掴んだ。
「何体いる。見えた数だけでいい」
「五……いや六体。霧で距離は不明。でも投射機は三つ」
「十分だ」
彼女は盾列に指示を飛ばし、緩斜面へ伏せ兵を三名展開。弓兵には射角を高く取り直させた。
霧が燻る細い谷に、一斉射の矢が降る。続けて伏せ兵が松脂弾を投げ込み、粘稠な炎が乳白の空気を薙いだ。
黒鎧の影が三つ、火の輪郭の中で暴れ、やがて崩れた。霧が燃え上がるたび、残る影は後方へ退く。
それでも二体が投射機を構え直した。今度は門楼を狙う。膜が再び揺れ、木板が破裂して見張り兵が落下する未来が走る。
カイルは躊躇なく右腕を叩きつけ、門楼の土台へ触れた。
――石と木が微かに軋み、支柱の鉄釘が熱で柔らかくなり、板がうねって厚みを増す。
次の瞬間、鉄丸が板に食い込んだが貫通せず、鈍い衝撃を中途で止めた。
痛みは思ったより小さい。だが動悸が異様に速まる。皮膚の下で紋が淡く脈を打ち、周囲の空気から熱を奪っているような寒気が走った。
エリザが叫ぶ。「いまのは――」
「……板を強くしただけです。たまたま」
嘘とも本当ともつかない言い訳。けれどエリザは余計な追及をせず、視線で感謝だけ伝えた。
霧は十分後に晴れた。黒鎧の二体は深い傷痕を残して逃げ去り、投射機の残骸と装甲片だけが草野に転がった。周囲を警戒しつつ、斥候兵たちは戦利品を回収する。
投射機の砲身には複雑な刻印があった。誰かが「監査局の最新型か」と囁く。「いや帝国の研究所の流出だ」と言い合い、結論は出ない。
砦に小さな勝利の歓声が上がり、エリザは兵を集めた。
「今日は全員で生き残った。次はどうなるか分からない。――だが今のところ、砦を動かす理由はない。ここは道を見張る絶好の位置だ。夜明けまで休め」
その夜、負傷兵を労わる小さな宴が開かれた。枯れ木を割って炉皿に落とし、鍋に野菜と干し肉を投げ込む。カイルは親方の食欲を確かめると、盛られた薄粥を三口だけ啜った。
「味が濃いと傷が疼く」と親方が小さく笑う。声はまだ弱いが、瞳に焦点が戻ってきた。
「町は……」
「焼けました。鍛冶場も」
「そうか」短い言葉に、親方はうなだれた。
「でも、まだ生きてる。だから俺は諦めない」
親方はゆっくり首を横に振り、「お前には無理を背負わせたな」とかすれた声で言った。カイルは何も返せなかった。
火のそばでエリザが木椀を持って待っていた。
「私も食っていいか?」
笑いを誘う軽口に、カイルはようやく肩の力を抜いた。
夜半。焚き火の火は灰を被り、砦は眠りについた。見張り交代を終えたエリザが中庭を横切る際、カイルが木壁にもたれて星空を眺めているのを見つけた。
「眠れないのか」
「……すぐ頭が熱くなるんです。寝たら見るかもしれない酷い映像のことを考えて」
エリザは隣に腰を下ろし、息を吐いた。「私も兵を失う悪夢を見る。でも夢か現か、自分が動けば結果は変えられる。君が今日やったことは証明だ」
「変えた結果が最悪だったら?」
「そのときは私が止める。――君が信じるに足る人間か、それを測るのはこれからだ」
カイルは腕の紋をさすった。光はないが、脈拍に合わせ弱い鼓動を感じる。
「名前を付けようと思ったことは?」
「……まだないです」
「なら、急ぐな。力に名を与えれば皆が呼びやすくなるが、そのぶん雑に扱われる。自分で制御を掴むまで、曖昧なままでいい」
遠くで鈴が一度だけ鳴った。風のいたずらか、誰かの合図か判然としない澄んだ音。エリザは立ち上がり、夜気を切るように視線を巡らせた。
「明日も霧が来るかもしれない。交代で寝よう」
カイルは最後に空を見た。薄雲の上で浮遊島が白く瞬いた気がした。血走った目でも錯覚には見えず、何か巨大な意志がこちらを観測しているような寒気だけを残した。
その意味を知るのは、まだ先の話だ。
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