第3話 砦の夜風
夕暮れが森と砦の境目を曖昧に染めた。日中の騒ぎで傷ついた丸太壁には新しい樹脂が塗られ、矢羽根が抜けた跡には藁が詰め込まれている。ヴェール森林帯公国の辺境砦は、見た目こそ粗末でも再起が早い。
鍛冶場で炉の火を守り続けたカイルには、その手際がどこか鍛冶職人の仕事と重なって見えた。壊れたら叩き直し、欠けたら溶かし直し、修理しながら一日を延命する。
砦の中庭で斥候長エリザが短い号令をかけ、交代の弓兵が見張り台へ登っていく。昼の襲撃で負傷した兵は片手で弩の弦を張りながら「まだ撃てる」と笑い、若い兵は焚き火を囲んで硬い乾パンをかじる。
カイルは医務小屋の傍らで、鍛冶用の火箸を改造した携行トングを作っていた。右腕の熱は引いたが、紋は薄く広がり、皮膚に淡い光を宿したままだ。触れた金属が柔らかく動きそうな気配が指先にまとわりつき、不用意に握れば火箸そのものを溶かしかねない。
「熱は?」
背後でエリザが問いかける。鎧は外し、緑の狼を刺繍した軽装の上着姿だ。
「少し残ってますが動けます」
「それ、親方のためだろう」彼女は火箸を手にとり、鋳継ぎの甘い部分を撫でた。「もし次、あの力を使うなら──理由だけは私に伝えろ。兵を無駄に怯えさせたくない」
カイルは頷いた。理由、と口の中でころがすが答えは出ない。
ふと鼻を掠める焦げた草の匂い。視界が一瞬だけ二重になり、薄幕が夜闇の砦を映す。見張り台の上で松明を振る兵が、背後から伸びた影に押し倒され、火が落ちる光景。
「大変だ!」叫びそうになったが、歯を食いしばり堪えた。蒸気のような眩暈が抜けると現実の砦は穏やかで、見張り台の松明は静かに揺れている。偶然か幻覚か。昼の投石試験を思い出し、彼は深呼吸した。
「何か見えたのか?」
エリザの声は低いが鋭い。カイルは正直に言うか迷い、医務小屋の扉へ視線をやった。親方ブレンが眠るベッドの傍らでは衛生兵が薬袋を整え、微かな薬草の匂いが漂う。
「念のため台へ行っていいですか」
「一人では駄目だ。私が同行する」
二人が梯子を登りきると、見張り台の兵──昼に肩を射抜かれ包帯を巻いた青年──が笑って迎えた。
「心配ご無用! 肩以外は元気ですよ、隊長」
カイルは兵の背後、暗い森の縁を見やった。薄幕の向こうで男の喉元に回った影は、今は存在しない。安堵と同時に疑念が湧く。外れたのか、それとも未来の条件が変わったのか。
エリザが硬い声で命じる。「巡視は二人組に変更。死角を作るな。門前に松明を追加」
兵は敬礼すると、弓を抱え階段を下りた。カイルは塔の天板に肘を置き、遠い空を見上げる。晴れていれば浮遊島群の影が光るはずだが、今夜は薄い雲が覆い隠している。
「偶然で終わるならそれに越したことはないが」エリザが呟いた。「君の眩暈は、三度中三度的中した」
「四度目が外れました」
「外れたと言えるかどうか」彼女は黒い木立を見すえ、低く続ける。「可能性が“見えた”ことで君が行動し、条件が変わり、結果が変わったかもしれない」
カイルは口を開きかけ、言葉を飲み込む。自分が見ているのが“確定した未来”なのか“起こり得る分岐”なのか、確証がない。だが思い描くより先に、また視界が揺れた。
今度の幕は数秒後を映す。下の中庭、焚き火の近くで兵士が水袋を掲げ、炎に向かって酒を振る。その火が大きく揺れ、突然炎舌が走り、真っ直ぐ油壺へ飛び込む。
油に引火し、燃えたぎる火がリネン幕と乾燥薪へ燃え移る映像で幕は途切れた。
「火元!」カイルは無意識に叫んだ。「焚き火の油壺が――」
声に合わせ、下の兵が水袋を炎へ振った。炎舌がひるがえり、しかし兵はカイルの警告で身を退いた。火の筋は空を裂くように夜気を舐め、近くの薪山の端を焦がして消えた。
火が飛ぶ瞬間を見た兵たちは目を丸くしながらも迅速に鎮火作業へ移り、油壺は安全な場所へ運ばれた。怪我人はなし。
階段を駆け上がって来た衛生兵が息を切らしながら告げる。
「運が良かったな。もう少しで薪全部に火が回るところだった」
カイルの頬から汗が垂れた。自分の声が引火被害を防いだ。偶然と言い切るには出来すぎている。右腕の紋がかすかに脈動し、痛みはないが熱の波が浮き沈みする。
エリザは息を吐き、鉄笛を鳴らし部隊を再配置した。兵たちは言葉少なに命令をこなしながら、何度も塔の上のカイルを振り返る。
夜半。林の上へ三日月が昇り、砦は再び静寂へ戻った。カイルは医務小屋の壁にもたれ、薬の匂いの中で親方の寝息を聞く。
突然、戸口の板が軽く叩かれた。覗けば整備兵が小さな布包みを差し出す。
「おまえさん、鍛冶屋らしいな。こいつ、さっきの火で歪んじまった留め金。腕が使えるなら直してくれ。兵は足りねぇ」
カイルは思わず笑った。鉄と火を頼られる感触が夜の重さを軽くする。
受け取った留め金に触れると、右手の紋が熱を帯びた。金属はまるで粘土のように柔らかく曲がり、理想的な弧を描いて元の姿を取り戻す。
整備兵は目を見開き、それでも感謝の言葉だけ残して去った。
道具を置き、カイルは紋をさすりながら息を吐く。映像は予告か、それとも選択肢か。腕の力は制御できるのか、暴走の兆しか。
答えのない問いは、しかし火と鉄の匂いの裏で小さな輪郭を帯び始める。
布を敷いた簡素な寝台に横になったとき、小窓から月が覗いた。薄い雲が流れ、遠い上空で浮遊島がごくわずかに白く煌めいた気がする。
昼に見た映像より、夜に見た映像のほうが鮮明だった。距離が短いほど精度が上がるのか――ぼんやり思いながら目を閉じる。
眠りの淵で、灰銀の紋が鼓動のように淡い光を打った。森を渡る鈴の音が二度、短く鳴り、今夜はそれきり止んだ。
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