第2話 森と誓い
深い緑の匂いが肺に染み込む。夜明け前に降った霧はもう消え、朝の光が葉の裏を透かして黄金色の斑を作る。谷あいの鉱山町では感じたことのない柔らかな空気だ。
カイルは担架の横で歩を合わせながら、まだ麻痺した右腕を抱えた。灰銀の紋は血と泥を拭っても消えず、痛みは弱く残ったまま鼓動に合わせて熱を放つ。
親方ブレンは寝息こそ安定しているが、何度か咳を漏らした。担架を運ぶヴェール森林帯の斥候兵は手際よく速度を緩め、そのたびに鎧の具足が軽く鳴る。先頭を行く女騎士エリザ・フェンリールは振り返らず、枝をしならせて獣道を開いた。
森の奥に丸太と刈り石で組んだ小さな前哨砦が現れた。三層の木壁と見張り塔。屋根に張った獣脂の膜が朝露を弾いて光る。門は鎖で閉じられていたが、エリザが合図を送ると上から縄梯子が下り、若い弓兵が作業台を敷設して簡易の昇降路を拵えた。
担架が中庭に降ろされ、粗い板張りの医務小屋へ運ばれる。木造の壁は樹脂で補強されており、中央の簡素な寝台には清潔な麻布が敷いてある。年嵩の衛生兵が脈を測りながら親方の胸包帯を点検し、ほっと息を吐いた。
「肋骨は折れているが内臓は無事らしい。運が良かった。安静にさせろ」
カイルは自分の腕に視線を落とす。灰銀の紋はひび割れのように肌を走り、血管と絡む場所には微かな光が揺れている。医務兵が手袋越しに触れようとして躊躇い、エリザに小さく目配せした。
エリザは鎧の留め具を外し、硬い革椅子を引いて向かいに座る。
「質問の前に、まず礼を言う。昨夜の川で仲間が君と彼(親方)を引き上げたとき、町一つが燃えていた。あの状況で生存者を抱えて流れを越えた胆力は敬意に値する」
カイルは苦笑した。「必死だっただけです。正直、どうやって助かったか自分でも……」
──その瞬間、視界が僅かに反転した。
小屋の裏手。木壁に弓をもたれかけ、兵が水袋を飲む。空の上手、遠い梢の影が揺れ、黒い羽根の矢が兵の肩を貫く。血が飛ぶ。
映像は刹那で途切れる。目の前の医務小屋は静かで、兵士はまだ無事だ。しかし背筋に汗が走り、喉が乾いた。
エリザは眉を寄せた。「……いま、何か見えた?」
「ただの眩暈です。砦に迷惑はかけません」
「そう断言できるならいい。だが我々は辺境の小隊、兵も備蓄も少ない。君が“何者か”を知らないまま匿う余裕はない」
扉の隙間から風が入り込み、油煙の匂いをわずかに運ぶ。カイルは息を吐き、言葉を選んだ。
「俺自身も――わからない。ときどき目の前が二重になって、起こるはずのない映像が差し込む。次に起きる光景かもしれないと思って動くと、結果が重なることが多い。でも確実じゃない」
「なるほど、“先の一瞬が映る”と」
エリザの口調は淡々としているが、背筋はわずかに硬くなった。彼女は外套を翻し、戸口へ歩みかけ、振り返る。
「試させてもらう。裏手の訓練場へ出なさい。腕は使うな。確認したい」
* * *
訓練場は砦の外壁に囲まれた狭い広場で、弓の標的と粗雑な丸太人形が置かれていた。
エリザは腰の細剣を抜くと、鞘を掲げて言う。
「目を閉じろ。私が合図なしに石を投げる。どの方向から来るか感じたら首を振れ。外れたら投石は止めない」
カイルは目を閉じる。濁った痛みが右肩に溜まり、耳の奥で自分の鼓動が強まった。
遠くで鳥が鳴く。木の葉が擦れ――そこへ、薄膜のような映像がひらりと横切る。左前方、拳大の石が飛び、頬を掠める。
条件反射で首を右へ振った。次の瞬間、現実の石が顔の横を風切りで通過し土に落ちる。ザッと砂を跳ね、驚きの声が周囲で上がった。
休む間もなく別の幕。今度は背中側、低い軌道。カイルは身を屈め、石が背中をかすめて木人形の肩に当たった。三度目、四度目――石の軌道は見えず、しかし映像としてよぎる短い情景を頼りに避ける。
五度目で膝が震えた。視界の幕がぶれる。石は右肩を打ち、痛みで息が漏れた。
エリザが投擲を止め、細剣を鞘に収める。
「三十歩離れた位置。投擲速度を変えたのに四度かわした。偶然とは呼べない」
カイルは荒い呼吸を整えた。「当たりましたよ」
「最後だけな。問題は回避率じゃない。君自身がどうやって察知したか理解していないという点だ」
言葉を探す暇もなく、砦の見張り台で鐘が鳴った。斥候兵が叫ぶ。
「東斜面! 黒鎧三、四――否、六!」
均衡監査局の追撃班だ。ホヴァーバージはないが、装甲兵が森を抜け斜面を登ってくる。エリザは短く命令を飛ばす。
「弓一列! 盾は第二列!」
訓練場は即席で防壁区画に変わり、弓兵が水平射で応戦する。黒鎧は外骨格で矢を弾きながら前進し、肩の管から小型の鉄弾を放つ。木壁を貫通した弾丸が板を裂き、兵の肩に血を噴かせた。
カイルの視界が逆巻く。砦の門が爆ぜ、黒鎧が突入し、弓兵が倒れる映像が刹那に走った。
「門が破られる!」カイルは思わず叫んだ。
驚いた斥候兵が目を向ける。エリザが頷き、盾列を門前へ動かし、門梁に鉄鎖を追加して支える。
直後、黒鎧の一人が肩で突進し、閂を震わせたが破れず、返し矢が首の継ぎ目を撃ち抜いた。兵が倒れる。
自分の声で状況が変わった――その実感が背筋を冷やすと同時に、心臓を高鳴らせた。カイルは盾を拾う斥候兵に駆け寄り、親方の寝息が安定している方へ目を走らせた。
未来が“見える”のなら、次に守るべき場所も示せるかもしれない。だが幕は現れず、意識の深いところで熱だけが脈を打つ。
エリザが短く指笛を吹き、予備の弩隊が塹壕から矢を一斉射した。黒鎧は二体倒れ、残る四体が撤退し始める。追尾はしない。砦は人手が少なく、深追いすれば逆に討たれる恐れがあるからだ。
やがて森に静寂が戻り、風が葉を撫でる音が大きくなる。
斥候兵の怪我を手当てするあいだ、カイルは医務小屋に戻り、親方の額を拭いた。呼吸は深く、顔色も少し良くなった気がする。
エリザが戸口に立つ。「君の“勘”のおかげで門は無事だ」
「勘と言えるかどうか……俺にもわからない。ただ、映像のようなものが一瞬だけ脳裏に走るんです」
「なら、名付けは急がない方がいい。世の中には名をつけた途端に戦争の道具と見なされる力が多い。君が何者か定まらぬうちに、余計な札を貼る必要はない」
エリザは兜を取り、汗で張り付いた髪を払った。「当面、君と親方はここで休め。私が上官へ報告を上げる。――逃げるなら止めない。ただし森を出る道はどこも監査局の目だらけだ」
カイルは寝台の親方を見下ろした。
「逃げません。恩もあるし、親方の命が最優先です。追手が来るなら俺も戦います。ただ、この力が次にどう動くか分からない。もし危険だと判断したら……俺を拘束しても構いません」
エリザはわずかに微笑む。「拘束は最後の選択肢だ。まずは信頼を積むことだな」
小屋の外では兵たちが破損した門梁を修理し、狭い中庭で矢羽根を整えている。砦全体がざわめきながら、昨日までの日常に戻ろうとしていた。
カイルは天井の梁を見上げた。薄幕は現れず、木組みの影が揺れているだけだ。
それでも中空で、遠い未来のどこかから微かな響きが届く気がした。歯車がきしむような音。世界がゆっくりと、けれど確実に別の相貌へ向かう前触れ。
右腕の紋が静かに熱を打つ。痛みは弱く、その代わりにどこかで灯る焚き火の温度が皮膚の奥に移ったようだった。カイルは息を吐き、親方の寝息に合わせて肩の力を落とした。
灰雨の夜につづく一日目が、ようやく終わろうとしていた。けれど物語はようやく歩き始めたに過ぎない。森を抜ければ、浮遊島の都も、赤焔の帝国も、そして「自分が何者か」という問いも、容赦なく待ち受けている。
それを証明するかのように、砦の遠く暗い木蔭で、誰かが小さな鈴を鳴らした。単調で乾いたその音が、再び風に混じり、夜の気配を連れてくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます