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僕と千里さんは大学を卒業してからもずっと恋人同士という関係を続けていた。
会社員の僕とサービス業の彼女は休みがなかなか会わず、長い時は三ヶ月以上会えない時が続いたこともあった。
だけど僕は彼女が違う土地でも元気に暮らしているだけで幸せだったし、たぶん向こうも同じような気持ちだったと思う。
僕らは三ヶ月ぶりに会っても、まるで昨日会ったかのように接することができた。
恋人同士というよりは親友のような間柄だった。
だから僕らは離れていても付き合っていけてたのだと思う。
その関係が五年続いて、彼女のお腹の中に美凪が宿った。
いわゆる、できちゃった結婚とか授かり婚ってやつだが、お互いの家族との親交が深かった僕たちは十分すぎるほどの祝福を受けて、晴れて夫婦となった。
千里さんが一人娘ということもあって僕が温泉宿に婿入りするという形になった。
僕は名字を、高峰、と改め、温泉宿の若旦那として働くことになった。
もちろんつらいことはいくらでもあった。
今までのサラリーマン生活が何も役に立たない世界だった。
僕は慣れない車の運転をこなさなければならず、慣れない言語に慣れなければならず、田舎特有のおせっかいと陰口が溢れる人間関係に揉まれなければならなかった。
それでも可愛い娘と可愛い妻に近い環境で働けるというのはこの上ない喜びだった。
ガチンガチンに疲労で固められた体も娘の笑顔を見ただけであっというまにゆるゆるに溶けてしまうほどだった。
美凪の耳に障害があるとわかってからも僕と千里さんはなんとか乗り切っていった。
二人して手話教室に通った。
千里さんの真ん中がぽっかり開いてしまった手では上手く表現できない手話もあった。
しかし彼女は手で表現できない分、その魔法の手でたくさんの愛情を美凪に注いだ。
魔法の手でたくさん頭をなでた。
魔法の手でたくさん抱いて歩いた。
そしてたまに魔法の手で彼女を叱った。
そんな魔法の効果は抜群のようで、彼女は大きな病気ひとつせず、僕らの口の動きで言葉がわかるようになった。
聾学校でも明るい性格が幸いして友達にも囲まれた。母親に似てほんわかしているところはあるが、お正月のことを短冊には書くことはしなかったし、本当にたくましく育ってくれた。
そして中等部に進むという時だった。
千里さん――魔法使いに巨大な敵が現れた。
そしてあっさりと魔法使いは敵に負けてしまうことになる。
彼女に向かってきたのは乳がんという大きすぎるほどの敵だった。
敵は僕らに気づかないようにゆっくりと近づいて大きな大ダメージを彼女に与えた。
乳がんが胸膜に転移してしまったのだ。
しかし残りのダメージが少なくなっても魔法使いは戦い続けた。
温泉宿のおかみとして最後まで僕と美凪に笑顔を振りまいていた。
装備である髪の毛もだんだんなくなっていった。
そしてついにダメージがゼロになって魔法使いは死んだ。
最後まで笑顔を見せたまま――。
これは彼女なりの敵への悪あがきだったのかもしれない。
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